第33話 僕と父親とギャル先輩①
第9章 僕と父親とギャル先輩
7月の空気は、まるで誰かが間違えて沸騰させてしまったスープのように、重たく湿った熱を孕んでいた。
僕たちは、逃げ場のない校庭のアスファルトの上で、自分たちの限界を少しずつ削り取っていた。8月の槍ヶ岳。2年生になった僕にとって、それは単なる部活動の目標ではなく、自分という人間がどれだけ地面に根を張れるかを試すための、一種の宗教的儀式のようなものになりつつあった。
「福島くん、膝が落ちているわよ。重力は君の味方ではないけれど、敵でもないはずよ」
冷徹な、しかし懐かしい声が響いた。
坂田先輩…元部長だ。引退したはずの3年生たちは、受験勉強の合間を縫って、日替わりで「臨時コーチ」として部室に現れるようになっていた。初心者の1年生ふたりが北アルプスの縦走に耐えうるだけの体力をつけるために。今日の担当は彼女だ。見慣れた青い山岳部のジャージを完璧に着こなし、片手には無慈悲な秒針を刻むストップウォッチ。
「……はい、坂田先輩。……重力とは、……今、……法廷で争っているところです」
僕は喘ぎながら答えた。去年の僕ならここで音を上げていただろう。でも今の僕の背中には、新部長としての責任と、そしてもう一つ、僕を突き動かす別の「燃料」があった。
「オー、坂田・Bigボスセンパイ! ボクの筋肉がサザンの『エロティカ・セブン』みたいに激しくビートを刻んでマース! ヘルプ・ミー!」
ジョージが90キロの巨体を震わせながら叫ぶ。彼の汗は滝のように流れ、地面に小さな水溜まりを作っていた。
「ジョージ。騒ぐのは二酸化炭素の無駄遣いです。不愉快ですので、今すぐ腹を斬りなさい」
渋沢さんが、静かだが鋭利な声で言い放つ。彼女もまた、限界に近い。そんな彼女の隣には、岡先輩が寄り添っていた。
「……渋沢さん、……腕の振りは、……こう。……小柄な私たちは、……リズムを細かく刻むのが、……一番、疲れないから」
前髪を上げた岡先輩は、自分と体格の似た渋沢さんのために、独自の「省エネ・トレーニング」を考案して伝授していた。かつての「幽霊」は、今や後輩を守るための静かな光となっていた。
3年生たちの指導は、現役時代よりも苛烈だった。それは、自分たちが去った後の山岳部を、より高く、より強固な場所にしたいという、彼女たちなりの祈りのようにも思えた。
そして僕は、練習が終わった後の深夜、机に向かっていた。
今までの僕は、人生という名の映画を、暗い客席の後ろの方で適当に眺めているだけの観客だった。でも、今は違う。桃香先輩の夢を「夢物語」だと切り捨てた彼女の父親。その冷たい論理に対抗するためには、僕自身が「結果」という名の言語を手に入れる必要があった。
一学期の期末テスト。
僕は生まれて初めて、教科書の文字がゲシュタルト崩壊を起こすまで勉強した。結果は、全科目平均点。
「……平均、か」
答案用紙を見つめ、僕は乾いた笑い声を漏らした。必死に戦って、ようやく辿り着いたのが「普通」という名の入り口。世の中は、僕が思っていたよりもずっと険しく、計算通りにはいかない場所だった。
でも、不思議と絶望はなかった。去年までの僕なら「やっぱり無理だ」と冷笑して終わっていただろう。今の僕は、その平均点という名の小さな足場を、ネイビーの登山靴でしっかりと踏みしめていた。
8月の槍ヶ岳は、神々が気まぐれに削り残した巨大な彫刻のように、どこまでも青い空を突き刺していた。
僕たちは槍沢ルートを辿っていた。梓川のせせらぎが次第に遠のき、周囲の風景が緑から荒々しい岩の世界へと変貌していく。
二度目の槍ヶ岳。去年の今頃、僕はここで死を身近に感じ、自分の無力さを呪った。だが今の僕の足元にあるネイビーの登山靴は、岩肌の感触を驚くほど正確に脳へとフィードバックしている。
「……福島、雪渓だぞ。気をつけろ」
後ろを歩く小林先生の声が、風に乗って届く。僕は新入生の渋沢さんに寄り添い、足の置き場を一つひとつ丁寧に教えた。あのような恐怖を、後輩に味あわせたくはない。
目の前に広がる、真夏に居座る白い空白。去年の僕を滑落させた、あの因縁の場所だ。
僕は一度立ち止まり、深く息を吸い込んだ。肺の奥に冷たい空気が入り込み、思考をクリアにする。
「ジョージ、渋沢さん。ここからは一歩ずつだ。重心を山側に預けて、僕が踏んだ跡を正確になぞってくれ」
「オー、ボスセンパイ! ボク、Gravityとサヨナラしたくないデース! 慎重に行きマース!」
ジョージがいつになく真剣な表情で頷く。
僕は一歩、踏み出した。雪の抵抗、アイゼンが噛む音、自分の呼吸。すべてが手に取るようにわかる。かつての「恐怖」は、今や「警戒」という名の冷徹な情報へと変換されていた。僕たちは、一人の脱落者も出すことなく、その白い難所を静かに攻略した。
槍ヶ岳山荘に辿り着き、最後の鉄梯子を見上げた。
垂直に近い岩壁を、一歩ずつ、確実に。
山頂の狭い平地に辿り着いた瞬間、世界は再びその全貌を僕たちの前に晒した。
「……oh…no…」
ジョージが膝をつき、それから子供のように泣き出した。
「ボク、日本に来て良かったデース……。こんなにビューティフルな『TSUNAMI』みたいな雲海、見たことないデース……!」
彼の大きな背中が、感動で激しく揺れていた。
渋沢さんは何も言わなかった。ただ、唇を噛み締め、宝石のような瞳から静かに涙をこぼしていた。その涙は、彼女がこの数ヶ月、ド根性で耐え抜いてきた過酷なトレーニングへの、自分自身への勲章のように見えた。
僕は、雲海の向こうにある、見えない街の方向を見つめた。
去年より少しだけ、この景色が近くに感じられる。でも、僕はもっと強くならなければならない。桃香先輩が登ろうとしている「イギリス」という名の山は、この槍ヶ岳よりもずっと険しく、冷たい風が吹いているはずだから。
山を下りてからの夏休みは、再びインクと数式の海に飛び込む日々となった。
「平均点」という名の足場を固めるための、孤独な戦い。図書館の冷房の下で、僕は何度もシャーペンの芯を折りながら、桃香先輩の父親の冷たい眼差しを思い出していた。




