第32話 カリフォルニアとヤマトナデシコとギャル先輩⑤
6月末。梅雨の晴れ間を突いて、僕たちは谷川岳へと向かった。一ノ倉岳、茂倉岳へと続く縦走コース。三年生にとっての、引退登山だ。
日本一のモグラ駅として知られる土合駅。486段の、終わりなき地下階段を登りながら、ジョージが「オーマイガー! これ、天国への階段デスカ?」と嘆き、渋沢さんが「ジョージ、騒ぐようなら一段ごとに腹を斬りなさい」と冷静に返す。
キャンプ地、茂倉岳の避難小屋付近。沈みゆく夕陽が、国境の山々を真っ赤に染め上げていた。
僕は、焚き火の代わりにガスバーナーの青い炎を見つめながら、先輩たちに向き合った。
「……先輩たち。今日まで、僕を導いてくれてありがとうございました」
僕の声は、少しだけ震えていた。
「山岳部を、僕がしっかり支えていきます。先輩たちが作ってくれたこの場所を、もっと高く、もっと強い場所にしてみせます。だから……皆さんも、それぞれの山を登ってください。僕たちが、ここでずっと応援していますから」
坂田先輩が僕の手を強く握った。エビちゃん先輩が優しく微笑み、板垣先輩は明るい笑顔で答える。そして、岡先輩がマフラーを編んでくれたあの時のような、温かい眼差しで僕を見た。
そして桃香先輩。
彼女の瞳には、あの日電話で聞いた絶望の影はなかった。夕陽を反射して、そこには再び、激しい炎が宿っていた。
「ジンタロー。あんたにそんなこと言われたら、アタシも負けてらんないじゃん」
引退。
その言葉が持つ喪失感は、人がいなくなった後の部室の静けさとなって、僕の肩にのしかかった。
先輩たちが引退した後の部室は、まるで中身をすべて吸い出された貝殻のようだった。
放課後の廊下を歩いていても、曲がり角から桃香先輩の「ジンタロー!」という明るい声が響いてくるような気がして、僕は無意識に肩をすくめる。だが、そこにいるのは見知らぬ下級生か、あるいは夕暮れ時の退屈な静寂だけだ。
「……ボスセンパーイ! ボク、もう限界デース! このダンベル、サザンの『マンピーのG★スポット』のリズムで上下させるの、無理がありマース!」
ジョージが、部室の床で自分の筋肉と格闘しながら叫んだ。彼はアメフトで培った90キロの肉体を維持するために、プロテインを牛乳で流し込み、独自の筋トレメニューをこなしている。だが、山に必要なのは爆発的なパワーではなく、ロウソクの火を絶やさないような、地味でしつこい持続力だ。
「ジョージ。声が、ふっ、大きいです。ふっ、肺活量を無駄遣いするなら、ふっ、その分だけ腹を、ふっ、斬りなさい」
渋沢さんも、ジョージが持ってきた軽めのダンベルで筋力トレーニングを続けながら淡々と告げた。彼女のセリフは辛辣だが、ジョージと同じように自らにも負荷をかけている。二人には僕らには解らない連帯、いや、信頼?があるようだ。今や彼女は体力的には一番の弱者だが、その精神的な高度は、部内の誰よりも高い場所に位置しているように見えた。
「……渋沢さんの言う通りだ、ジョージ。山は逃げないが、酸素は逃げていく。呼吸を整えろ」
僕は、かつて坂田先輩が座っていた椅子に深く腰掛け、手元の地図にコンパスを当てた。
新部長。その肩書きは、僕の肩に目に見えない鉛のプレートを一枚ずつ積み重ねていく。
8月の夏山。宮の北高校山岳部が挑むのは、今年も槍ヶ岳だ。北高山岳部伝統の「毎年・槍ヶ岳制覇」を復活させる。
一年前、僕はあそこで涙を流した。あの尖った穂先に、自分という人間の弱さをすべて置いてきたつもりだった。けれど、二年生になり、部長になった今、僕はあそこへ「何かを取りに行く」必要があると感じている。
桃香先輩からは、時折短いラインが届く。熊のかわいらしいスタンプと共に。
『勉強、マジで地獄。単語帳が槍ヶ岳より高く積み上がってるよー』
彼女は今、イギリスの大学という名の、地図には載っていない山に登ろうとしている。父親という名の巨大な岩壁に阻まれ、姉という名の冷たい風に吹かれながら。
僕は返信を打とうとして、何度も指を止めた。
「頑張ってください」という言葉は、今の彼女にとってはあまりにも軽すぎる気がしたし、「会いたいです」という本音は、彼女の登攀を邪魔する霧になるような気がした。
僕はただ、自分の足元を固めることしかできない。
ジョージの巨大な背中に8キロのランニングを命じ、渋沢さんのザックから1グラムの無駄を省き、そして自分自身の大腿四頭筋に、去年の倍の負荷をかける。
「福島部長。……何か、悩んでいらっしゃいますか?」
渋沢さんが、僕の顔をじっと見つめていた。彼女の瞳は、すべてを見透かすような、深い森の奥にある湖に似ていた。
「いや、……ただの計算違いだ。今年の夏は、去年よりもずっと「熱く」なりそうだなと思ってね」
「……そうですか。ジョージ、聞きましたか。今年の夏は「熱い」そうです。プロテインを飲んで、さっさと腹を斬りなさい」
「Oh!my godness! カノン、ボクの命はプロテインのボトルより安いデスカ!?」
騒がしい部室。
けれど、その騒がしさの裏側で、僕は確かに桃香先輩の体温を探していた。
彼女がいない部室は、冷房の効きすぎた映画館のように、どこか他人行儀で、ひっそりと冷えていた。




