第31話 カリフォルニアとヤマトナデシコとギャル先輩④
レースは最初から、二人の独壇場だった。
1週目から他の選手たちを周回遅れにする勢いで、坂田先輩と桃香先輩が競り合う。
坂田先輩の走りは、精密に設計されたクロノグラフの歯車のように正確で、無駄が一切ない。一方で、桃香先輩の走りは、荒れ狂う夏の嵐のように奔放で、爆発的なエネルギーに満ちていた。
「……あのふたり、速すぎる。あんなに離されてるけど3位の人、陸上部だせ?」
クラスの誰かが呟いた。
最終コーナー。坂田先輩がナイフのように内側を突き、僅か数センチの差でゴールテープを切った。
「……っ、くっそー!一回も抜けなかった!凛に今日こそは勝ちたかったのにぃ!」
ゴール後、桃香先輩が本気で悔しそうに芝生に膝をついた。その首元を流れる汗が、眩しい光を放っている。
彼女たちは、僕が到底辿り着けないような高い場所で、誰よりも真剣に、誰よりも楽しそうに戦っていた。
僕は、その光景を眩暈がするような思いで見つめていた。
ああなりたい、と思った。
あんな風に、世界の中心で自分の呼吸を激しく燃焼させてみたい。
午後の目玉、部活動対抗リレー。
それは、それぞれの部活が自分たちのアイデンティティを、一種の「コスプレ」として誇示するパレードのような競技だった。
野球部はバットをバトンの代わりにし、ラグビー部は巨大なタックルバッグを抱えて走る。茶道部は着物でしずしずと歩き、会場を笑わせている。
僕たち山岳部は、迷うことなくいつもの青いジャージを着て、15キロの荷物を詰めた大型ザックを背負うことにした。これが、僕たちの「バトン」だ。
「よし、ジョージ。サザンの『勝手にシンドバッド』のリズムで行け。渋沢さん、無理はしなくていいから、確実に繋いでくれ」
「任せてクダサーイ、ボス! ボクの筋肉、エボシラインまで爆走デース!」
「……福島部長。承知いたしました。ジョージ、もし転んだらその場で腹を斬りなさい」
レースが始まると、体育館が揺れるほどのどよめきが起きた。
15キロのザックを背負っているとは思えないスピードで、桃香先輩と坂田先輩が走っている。彼女たちは人手が足りないという名目で、2回ずつ走ることになったのだが、そのたびに他の運動部をごぼう抜きにしていった。
「ちょっと! 二人ともやりすぎ! これエキシビジョンなんだから、空気読みなよ!」
アンカーの僕にザックを渡す際、板垣先輩が呆れたように叫んだ。
僕は、ずっしりと重いザックを肩に背負い、トラックを駆け抜けた。
背中にかかる重み。それは僕がこの一年で、彼女たちから受け取ってきたものの重さそのもののように感じられた。
ゴールした時、ラグビー部の連中が「福島、やるじゃねーか!」とハイタッチを求めてきた。
クラスの女子たちが「山岳部のジャージ、意外とかっこいいかもね」と話しているのが聞こえた。
僕には、居場所があった。
冷笑の壁を壊し、汗をかいて、バカみたいに全力で走った先に、僕を「福島」と呼ぶ誰かがいる。その当たり前の事実に、僕は喉の奥が熱くなるのを感じた。
体育祭が終わる頃、校庭は夕立の前の凪のような、どこか物悲しくも満ち足りた静寂に包まれていた。
グラウンドを舞う砂埃は、勝利の熱狂も、敗北の悔恨も、すべてを等しく薄茶色い粒子として飲み込んでいく。
僕はクラスのテントの片付けを手伝いながら、自分の手のひらを見つめていた。砂で汚れ、摩擦で少し熱を持った皮膚。それは一年前の、ただページを捲るためだけに存在していた白くて頼りない指先とは、明らかに別の歴史を刻み始めていた。
「福島、お疲れ。リレー、マジでビビったわ。山岳部大活躍だったな。面白かったぜ」
クラスの実行委員をやっている男子が、僕の肩を軽く叩いて通り過ぎていった。
去年なら、僕は鼻で笑って「単なる重力への抵抗に過ぎないよ」と冷たい言葉を投げ返していただろう。あるいは、最初から耳を貸さずに図書室へ逃げ込んでいたはずだ。
でも今の僕は、「……まあ、チームワークの勝利かな」と、少し照れくさい返事を口にすることができた。
冷笑という名の防護服を脱ぎ捨ててみると、外の世界は意外にも風通しが良かった。
僕が軽蔑していた「熱血」や「団結」という言葉は、実はそれ自体に善悪などなく、ただそこにある暖炉の火のようなものだったのだ。近づきすぎれば火傷をするが、遠すぎれば凍えてしまう。
山岳部という、一般生徒から見れば「カラフルなジャージを着てつらいだけの山に登る変人の集団」に属していることが、今の僕にとっては誇らしかった。僕たちが体育祭で見せたあの圧倒的な身体能力――特に坂田先輩と桃香先輩の、重力など存在しないかのような走りは、確実にこの学校のヒエラルキーの中に「山岳部」という特異な座標を打ち込んだのだ。
「Oh、ボスセンパイ! ボクの喉は今、サハラ砂漠よりDryデース! ColdなColaを流し込みたいデース!」
ジョージが、ハチマキを首に巻いたまま叫んだ。その横で渋沢さんが、砂のついたジャージの裾を丁寧に払いながら、いつもの冷徹なトーンで告げた。
「ジョージ。叫ぶエネルギーがあるなら、今のうちに失礼のないよう後片付けをしなさい。さもなければ、この場で腹を斬りなさい」
「……よし、みんな。終わったら打ち上げに行くぞ!」
僕は、新部長として、そして一人の少年として、初めてその言葉を口にした。
向かったのは、駅前にある少し古びたカラオケボックスだった。
部屋に入った途端、使い古された芳香剤と、誰かがこぼしたコーラの甘い匂いが混ざり合った、カラオケ特有の「青春の裏側」のような香りが僕たちを包み込んだ。
「まずはアタシから! 一発目から飛ばしていくよー!」
桃香先輩がマイクを握り、流行りの明るいダンスナンバーを入れようとしたが、その横から板垣先輩が素早い手つきでタブレットを奪い取った。
「甘いよ、桃香。体育祭の熱を冷ますには、アツいアニソンが必要でしょ!」
板垣先輩が曲を入れると、スピーカーから爆音のイントロが流れた。
それは、僕もタイトルくらいは聞いたことがある有名なロボットアニメの主題歌だった。
マイクを握った板垣先輩の顔つきが変わる。彼女は普段の気さくな「オタクな先輩」から、ステージを支配するディーヴァへと変貌を遂げていた。
「――っ!」
部屋中に響き渡った彼女の歌声は、驚くほど澄んでいて、それでいて力強かった。ビブラートの一音一音にまで魂が込められている。
「……棗ちゃん、……すごい。……本物の、歌い手さん、みたい」
岡先輩が、驚いて目を丸くしていた。
板垣先輩はアニソンしか歌わないという徹底したプロ意識を見せながら、完璧な歌唱力で部屋の温度をさらに5度ほど引き上げた。
「次はボクのターンデース! サザン・イズ・ジャパニーズ・ソウル!」
ジョージが、桑田佳祐の物真似を交えながら『HOTEL PACIFIC』を熱唱した。巨体を揺らして踊る彼の姿は、部室で見るよりもさらに3倍ほど巨大に見えた。渋沢さんは「……ジョージ、歌い終わったら腹を斬りなさい」と言いながらも、手拍子を忘れていなかった。
そして、不幸にもマイクは僕の元へと回ってきた。
「……ボス、ゴー! YouのVoiceを聴かせてクダサーイ!」
「……やめろよ、ジョージ。僕は聴く専門なんだ」
固辞したものの、女子部員たちの無言の圧力(特に坂田先輩の『部長としての義務よ』という視線)に屈し、僕は仕方なく最近の無難なポップスを入れた。
結果は、惨憺たるものだった。
僕の声は、まるで錆びついた扉を無理やり開けた時のような不快な音を立て、メロディという名のレールから早々に脱線した。音程は霧の中に消え、リズムは迷子になった子供のように立ち尽くしている。
自分でも気づいていた。僕の声帯は、歌うためにではなく、屁理屈を並べ立てるために特化して進化してしまったのだ。
「……あはははは! ジンタロー、あんた嘘でしょ!? その歌い方、壊れたラジオかと思ったよ!」
桃香先輩が腹を抱えて笑い転げた。坂田先輩も、必死に笑いをこらえて肩を震わせている。岡先輩に至っては、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
「……ボスセンパイ、ある意味、……パンクデース」
ジョージが、慰めにもならない言葉をかけてくれた。
僕は赤面し、マイクを置いてメロンソーダを啜った。
でも、不思議と嫌な気分ではなかった。
自分の無様さを晒し、それを誰かに笑われることが、これほどまでに心地よい開放感をもたらすなんて、
1年前の僕に教えても、きっと理解しなかっただろう。
冷笑することは、自分を守るための盾だ。
でも、笑い合うことは、誰かと繋がるための扉なのだ。
窓の外では、いつの間にか本物の雨が降り始めていた。
梅雨の始まりを告げる、静かで力強い雨音。
「ねえ、ジンタロー」
隣に座った桃香先輩が、笑いすぎて少し涙目になった顔を僕に向けた。
「あんた、本当に変わったよね。……去年なら、絶対ここにも来なかったでしょ?」
「……自分でも驚いています。どうやら、山の空気を吸いすぎて、脳のどこかの回路がショートしてしまったみたいです」
「ショートして正解だよ。……あんた、今のほうがずっといい男だよ」
桃香先輩はそう言って、僕の腕をポンと叩いた。
その手の熱が、僕の服を通して、冷めきった体温を再び呼び覚ましていく。
僕は、歌の上手い先輩たちと、愉快な後輩たちを見渡した。
ここが、僕の居場所だ。あとは…僕の一番、一番大切な──仲間──。
カラオケを出た後、僕は桃香先輩に声をかけた。
「先輩、お父さんの事…」
一瞬彼女の顔が強張る。しかしすぐに元の明るい表情に戻って、「んー、ちょっと今は進展ないかな。もうちょっと寝かせてみるよ」と誰の眼にも明らかな空元気を出して答えた。その顔はまるで触れただけで粉々に砕けてしまう凍結したバラのように脆く、儚かった。




