第30話 カリフォルニアとヤマトナデシコとギャル先輩③
5月の雲取山は、まるで深緑のペンキをぶちまけたような濃厚な生命力に満ちていた。県大会、2泊3日の縦走。それは新部長としての僕に課された、最初の本格的なテストだった。
「オー、ボス・センパーイ! ボクの足が『勝手にシンドバッド』みたいに勝手に震えてマース! 助けてクダサーイ!」
ジョージが90キロの巨体を揺らしながら叫ぶ。彼の背負うザックには、プロテインの大きなボトルと、彼が「ソウルフード」と呼ぶ大量の牛乳が詰まっている。アメフトで鍛えた筋肉は、垂直方向の移動に対しては、ただの重い贅肉として機能しているようだった。
「ジョージ。騒ぐのはエネルギーの浪費です。わかりましたか、腹を斬りなさい」
渋沢さんが、冷徹な響きを含んだ声でたしなめる。彼女のザックは、僕たちの提案通りほとんど空に近い。それでも彼女の顔からは血の気が引き、ド根性だけで一歩を繰り出しているのが見て取れた。
「渋沢さん。少しペースを落とそう。……みんな、聞いてくれ」
僕は足を止め、パーティ全員を見渡した。坂田先輩や桃香先輩が、少し離れた場所から僕の出方を伺っているのがわかる。
「山を登るのは、誰か一人がヒーローになるためじゃない。この8人で、一つの生き物として頂上に辿り着くためだ。渋沢さんの荷物を僕たちが持つのは、彼女が弱いからじゃない。僕たちが、このパーティとして完遂するために必要な役割分担なんだ」
僕は彼女の目を見て、静かに、しかし断固として告げた。
「協力し合うこと。それが僕たち北高山岳部の流儀だ。絶対に無理をするな。いいな?」
「……はい、福島部長。……ありがとうございます」
渋沢さんが深く頭を下げる。その横でジョージが「ボク、ボスのそういうとこ、サザンと同じくらい大好きデース!」と場違いな歓声を上げた。
3年生の先輩たちが、互いに顔を見合わせて小さく頷く。坂田先輩の口元に、微かな、しかし確かな満足げな笑みが浮かんでいた。
県大会は、県内の他の学校の山岳部員との楽しい交流もあり、無事に終了した。
その中でも、やはりうちの先輩たち(特に桃香先輩と岡先輩)は大人気で、ひっきりなしに他校の記念撮影に参加させられていた。また、坂田先輩は他校の女子部員にそれを上回る人気だったことを付け加えておく。
そして、ついに。
5月の終わり。山から下りた僕たちを待っていたのは、もっと過酷な「現実」という名の絶壁だった。
進路指導室の冷たい蛍光灯の下ではなく、自宅のリビングという逃げ場のない密室で、桃香先輩は父親と対決した。イギリスの大学へ行きたい。経営と言語を学びたい。彼女が絞り出したその夢は、名門進学校の教師である父親によって、一瞬で粉砕された。
「……話にならない」
父親の言葉は、冬の夜の雨のように冷たく、彼女の心を凍らせたという。
「そんなものはただの夢物語だ。姉の明日香を見ろ。彼女のように正解の道を歩めないのなら、せめて身の程をわきまえた選択をしなさい。遊び半分で山に登っているから、そんな浮ついた考えが出るんだ」
追い打ちをかけるように、あの優秀な姉、明日香さんからも「今のあなたに何ができるの? 現実を見なさいよ」と冷たくあしらわれた。
その夜、桃香先輩から電話があった。
受話器の向こうで、彼女は泣いていた。槍ヶ岳の頂上で見せた、あの誇り高い涙ではない。自分の存在そのものを否定された、泥のような、暗く重い涙だった。
「……ジンタロー。アタシ、もうダメかも。パパに言われた通り、アタシはただの『失敗作』なんだよ。イギリスなんて、アタシには高すぎる山だったんだ」
「先輩。……桃香先輩」
僕は、スマホを持つ自分の指が白くなるほど強く握りしめていることに気づいた。胸の奥で、静かな、しかし烈火のような怒りが燃え上がっていた。
「結果を出しましょう。僕が、きっと最高の形に導きます。先輩の選んだ道が、山岳部で過ごした時間が、決して間違いじゃなかったことを、僕が証明します。だから、今はまだ、折れないでください」
彼女は返事をしなかった。ただ、微かな鼻をすする音だけが、電波に乗って僕の耳に届いていた。
時の流れは、僕たちの小さな抵抗など蟷螂の斧のごとく残酷に、しかし平等に流れていく。
6月に入ると、わが北高は体育祭が行われる。その日の空は、まるで誰かが間違えて注ぎすぎたミルク入りのコーヒーのように、中途半端な白さを帯びた青色をしていた。梅雨入り前の薄い日差しが校庭を照らし、風に乗って運ばれてくるのは、蹴り上げられた砂埃と、熱を帯びた歓声、そしてどこかのクラスが流しているチープな重低音のスピーカーの音だ。
体育祭。かつての僕にとって、それは一年の中で最も無意味で、最も回避すべき、巨大な非効率の塊に過ぎなかった。
去年までの僕は、教室の隅で文庫本を広げ、熱狂するクラスメイトたちを遠い惑星の奇習でも眺めるような目で見ていた。冷笑という名の薄い膜を自分に纏わせることで、参加できない劣等感から自分を守っていたのだ。
しかし、今の僕は、赤いハチマキを頭に巻き、クラスのテントの最前列で声を張り上げている。
「行け、そこだ! 抜け!」
自分でも驚くほど自然に、そんな言葉が口をついて出た。
かつての僕なら、そんな自分を「滑稽なピエロ」と断じていただろう。でも今は、その熱に身を任せることが、氷の張った冬の湖に飛び込むような、ある種の清々しさを伴っていることを知っている。
「……坂田・Big・ボスセンパイのハチマキの締め方、まるでJapanese・SAMURAIデース!」
隣でジョージが目を輝かせて指差す先には、1500メートル走のスタートラインに立つ坂田先輩がいた。
彼女は赤いハチマキを額の低い位置できつく締め、鋭い目つきで前方の地面を見つめている。その立ち姿は、スポーツを楽しもうとする女子高生のそれではなく、これから一騎打ちに挑もうとするまさに侍の静謐さを湛えていた。
そして、その数人隣には、白いハチマキをヘアバンドのように可愛らしく、けれど解けないようにしっかりと結んだ桃香先輩がいた。
金髪に近い茶髪を高い位置でポニーテールにまとめ、準備運動をするたびにその髪が生き物のように弾んでいる。薄い日差しを反射する彼女の肌は、磨き上げられた陶器のように滑らかで、会場中の男子生徒の視線を、磁石が鉄屑を引き寄せるように独占していた。
先日の父親との一件は、今の彼女に影響はないように思えた。あるいは、そのまばゆく輝く美しい…仮面…の下にそっと忍ばせているのか。僕には伺い知れない。
ピストルの音が、乾いた枝が折れるような音を立てて響いた。




