エピローグ2 僕と杏菜
エピローグ 2 僕と杏菜
あの夜から、さらに数年の歳月が流れた。
ロンドンの6月は比較的カラっと乾燥している。ただ、夏でも朝晩は寒い。そんな僕たちの住む街を離れ、僕は今、初夏の日本にいた。
ひさしぶりに帰ってきた日本の湿度は、肌にまとわりつく温かい濡れタオルのようで、ロンドンの乾燥した冷たさに慣れた身体には、懐かしさと倦怠感を同時に運んでくる。
僕は、かつての母校に近い市役所のロビーで、静かな「行列」の一部になっていた。
法務関係の書類を揃えるという、退屈極まりない事務手続き。窓口の向こう側では、何十人もの職員たちが、まるで精密に設計された巨大な歯車の一部のように、淡々と書類を捌いている。
「……次の方。204番の番号札をお持ちの方、3番窓口へどうぞ」
その声を聞いた瞬間、僕の耳の奥で、北アルプスの稜線を渡る風の音が蘇った。
落ち着いていて、鈴を転がすような透明感があり、それでいてどこか深い森の奥の湖のような、静かな意志を孕んだ響き。
僕は3番窓口へと歩み寄った。
そこには、僕の記憶の中にある「幽霊」の面影を、見事なまでに脱ぎ捨てた一人の女性が座っていた。
「……あ」
彼女が顔を上げた。
かつてその大きな瞳を隠していた長い前髪は、今はすっきりと上げられ、耳元で上品にまとめられている。露出したその瞳は、午後の日差しを受けて、磨き上げられた宝石のような輝きを放っていた。
「……福島さん。……お久しぶりです」
岡先輩――杏菜さんは、少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかい、春のたんぽぽのような微笑を浮かべた。
胸元には「市民課・岡 杏菜」と書かれた名札が光っている。
「驚きました。ロンドンにいるものだとばかり」
「一時帰国ですよ。手続きが山積みで、日本の官僚機構の堅牢さを改めて実感しているところです」
「……ふふ、……相変わらずですね。論理的というか、……屁理屈というか」
彼女は手際よく書類をチェックし、淀みのない動作でハンコを突いていく。その無駄のない動きは、かつて僕の隣で黙々とパッキングをしていたあの頃の彼女のままで、それでいて、数えきれないほどの「市民の悩み」を受け止めてきた、一人の自立した大人の強さが加わっていた。
聞けば、彼女はこの市役所で、生活困窮者や家庭に問題を抱える人たちの相談窓口を担当しているという。
「……最初は、……怖かったんです」
昼休み、市役所の裏手にある小さな公園のベンチで、彼女は僕の隣に座って言った。
「……知らない人と、……毎日お話しして、……誰かの人生の、重い荷物を、……一緒に背負うなんて。……でも、山に登っていた時と、……同じだって気づいたから」
彼女は、僕が贈ったわけではないけれど、かつてのあの「an'ner-Z」のステージ衣装と同じ、深い青色のペンケースを大切そうに握っていた。
「……一歩ずつ、……焦らずに、……相手の歩幅に合わせて。……そうすれば、……どんなに高い山でも、……いつかは、頂上に辿り着ける。……それを教えてくれたのは、……山岳部と、……福島さんだったから」
彼女はもう、誰かの後ろを歩く小鳥ではなかった。
自分の足で、自分の責任で、この街という名の複雑な山を登り続けている、一人の立派な「ガイド」だった。
「杏菜さん。今でも、ゲームはやってるんですか?」
「……うん。……でも、最近は、……FPSよりも、……シミュレーション。……街を、作ったり、……花を育てたり。……誰かを守るための、ゲーム、かな」
彼女はそう言って、前髪を上げたその瞳で、僕を真っ直ぐに見つめた。
そこには、卒業式の日に彼女が飲み込んだ「告白」の残滓などは微塵もなかった。彼女は、僕という山を登るのではなく、自分自身の頂上を見つけたのだ。
「……ももちゃんは、……お元気ですか?」
「ええ。相変わらず、僕をプロデューサー扱いして、無茶なルートばかり提案してきますよ。ロンドンのグリニッジ・パークで、ランニングをしている人と勝負を始めようとしたりしています。止めましたけど」
杏菜さんは、声を上げて笑った。その笑い声は、かつての部室の静寂を彩っていたあの微かな微笑みよりも、ずっと豊かで、自由な響きをしていた。
「今、桃香は実家に帰っているところです。やっと、堀越家も雪解けが近くなってきました」
「……よかった。……二人とも、……高い場所で、……頑張ってるんだね」
彼女は立ち上がり、ブラウスの皺を払った。
「……わたし、……戻らなきゃ。……午後は、……少し、大変な相談が、待っているから」
「頑張ってください、岡先輩」
僕が敢えて、古い呼び方でそう言うと、彼女は一瞬だけ足を止め、それから、あの文化祭のステージで見せた、最高に美しいアイドルの顔で頷いた。
「……福島さんも。……本当に、幸せそうで……よかった」
彼女が市役所の重厚な建物の中へ消えていく後ろ姿を、僕はしばらく眺めていた。
彼女の背中には、もうザックは背負われていない。
けれど、目に見えない「誰かのための荷物」を、彼女はあの日学んだド根性で、軽やかに、そして誠実に背負っている。
市役所の窓口で、彼女が解決していく問題の数々は、槍ヶ岳の頂上に立つような華やかさはないかもしれない。
でも、その一歩一歩の積み重ねこそが、この世界を少しだけ高く、少しだけ温かく変えていくのだ。
僕は、首に巻かれたロンドンで買った新しいマフラーを少しだけ直し、自分の足元を見た。
ネイビーの登山靴ではないけれど、僕が選んだこの革靴も、今の僕をしっかりと支えている。
「さて、僕も登るか。僕だけの山を」
僕は初夏の埼玉の湿った空気を深く吸い込み、彼女が戻っていった建物とは逆の方向、未来へと続く雑踏の中へ、力強く踏み出した。
背後で、市役所のチャイムが鳴った。
それは、かつて僕たちの青春を刻んだ、あの放課後の鐘の音によく似ていた。
あとがき
桃香と陣太郎は初めからハッピーエンドの方向で執筆していました。
が、自分で書いてて岡先輩が可哀そうすぎたので何とかフォローしてみました。
(岡先輩エンドも途中でちょっと考えたりしました)
この作品には実は全員モデルがいます。
坂田先輩とかエビちゃん先輩とか板垣先輩とかはほぼ本人だし、桃香先輩や岡先輩もだいぶエッセンスは残っています。ジョージみたいなサザン狂も本当にいましたし、かのんもあんな感じでした。
本人に見つかったらおそらくバレます。
槍ヶ岳のシーンやアイドルステージのくだりなどはかなり実話に近くなっています。
毎日のトレーニングもホントにあんな感じでした。
そして雪渓で滑落したのはこの私です。今でも思い出すと怖いです。
私の高校時代の話を思い出しながら執筆したので細かい点は目をつぶってください。
北アルプスのルートとかは実際登ったコースです。(1年時裏銀座・2年時槍沢)
みなさんの感想お待ちしています。
また、桃香や凛たちの創部から1年目のお話を現在創作しています。
よろしければ引きつづきお付き合いください。




