第4話 トレーニングと青いジャージとギャル先輩①
第2章 トレーニングと青いジャージとギャル先輩
仮入部という名の強制連行から、一週間が過ぎた。
僕の放課後は、それまでの「図書室で適当な本を捲るか、真っ直ぐ帰ってゲームをする」という静謐な、しかしつまらないルーティンから、暴力的なまでの運動量と、濃密すぎる人間関係の坩堝へと叩き込まれた。
山岳部の放課後は、奇妙な二部構成になっている。
授業が終わる16時から16時半までの最初の30分は、嵐の前の静けさのような自由時間だ。部員たちは思い思いの姿で部室にくつろいでいる。僕はこの時間が好きだ。
「……あ、あの、福島さん。これ、……よかったら」
部室の隅、ザックが壁のように積み上げられた影から、消え入りそうな声がした。
岡杏菜先輩だ。彼女は今日も、前髪でその大きな瞳を完全に隠し、小動物が天敵を警戒するような姿勢で座っている。
「ありがとうございます、岡先輩。これは……チョコレートですか?」
「……うん。糖分、摂っておかないと、……死んじゃうよ」
彼女が差し出してきたのは、カカオ成分の高い少し苦そうなチョコだった。
岡先輩は僕がこの部活で唯一、気後れせずに話せる相手かもしれない。彼女の手元では、携帯ゲーム機が音を消して起動していた。画面の中では、重装甲の兵士が激しい銃撃戦を繰り広げている。
「FPSですか。岡先輩、意外とハードなゲームを好まれるんですね」
「……あ、あの、ゲームの中なら、……力の強さとか、関係ないから。画面の中だけは、……自由になれる気がして」
彼女はそう言って、わずかに口角を上げた。前髪の隙間から、一瞬だけ宝石のような瞳が見えた気がしたが、彼女はすぐに視線を画面に戻してしまった。
部室の中央では、エビちゃん先輩が丁寧に淹れたほうじ茶の香りが漂い、板垣先輩が
「夏コミの同人誌のプロットがさー」と熱弁を振るっている。さらに坂田部長は、獲物を狙う狼のような目でナイフのカタログを静かに見ている。
そして、窓際の特等席には桃香先輩が座っていた。
彼女は短い制服のスカートを気にすることもなく、長い足を投げ出してスマートフォンの画面を眺めていた。その表情が、一瞬だけ、冬の湖面のように冷たく強張るのを僕は見た。
「……また、お姉ちゃんからだ。はー、しつこいな」
小さく、吐き捨てるような呟き。明らかに、いつもの反応とは違う。
「桃香先輩、何かあったんですか?」
僕の問いに、彼女は弾かれたように顔を上げた。次の瞬間には、いつもの眩しすぎるギャルの笑みが完璧に貼り付けられていた。
「んー? なんでもねーし! あー、もう、お腹空いてきちゃったなー。お寿司食べたい、お寿司!あんたお寿司好き?」
その明るさは、どこか薄いガラス細工のような危うさを孕んでいるように僕には見えた。彼女の背後には、僕には計り知れない、高く険しい「家族」という名の壁がそびえ立っているのかもしれなかった。
「16時半ね。自由時間は終了よ。全員、着替えて校門前に集合」
坂田部長の声が、鋭いメスのように部室の弛緩した空気を切り裂いた。
みんなが席を立とうとする。
「あ、凛、ちょい待ち。ジンタロー、あんたのジャージ、来てるよ」
桃香先輩が部室の机に置いてあった段ボールから一着のジャージを取り出した。
それは、鮮やかな、あまりにも鮮やかな青い布地だった。
これは山岳部特注のジャージだ。うちの学校では運動部に限り、部活動で製作したオリジナルのジャージを着用することが認められている。そして目の前にあるそれは、板垣先輩が部員たちの「可愛い」をこれでもかと凝縮して形にした、結晶のような代物だった。
青と白を基調に、背中には「Kitakou」文字が筆記体のフォントでデカデカと描かれ、チアリーダーのウェアを基にしたデザインであることを痛烈に強調する。さらにサイドには白いライン、フリルのようなものまでついている。女子部員たちが着れば確かにスタイリッシュで華やかだろう。だが、175センチの痩せっぽちで、普段は黒い服の中に身を潜めて生きている僕がこれに袖を通すのは、まるで象にレースのハンカチを被せるような、あるいは熱帯魚の群れに紛れ込もうとする深海魚のような、救いがたい場違い感があった。
僕は少し頭を下げ、桃香先輩から真新しいジャージを受け取る。
「じゃ、僕、向こうで着替えてきます」
「そっか、うちら今までそこらでテキトーに着替えてたけど、今度から男子いるからマズいか?」
板垣先輩が小さく呟く。
「向こうのロッカーをズラして、ジンタロー専用着替え部屋つくればいいんじゃね?」
桃香先輩が奥のロッカーを指さして答えた。
その間に僕は部室を出て、空いているスペースを探す。
「本当に、これを着るのか…」
僕はため息をつき、今まで着用していた学校指定の、泥を固めて焼いたような色をしたダサいジャージを脱ぎ捨て、それを着た。廊下に置いてある鏡の中の僕は、これからアイドルグループのバックダンサーにでも志願するような、奇妙に浮ついた姿をしていた。
「……似合わないな」
僕は独りごちた。でも、この青い布地は、僕がこの「女子ばかりの場所」に居場所を求めるために支払った、一種の通行税のようなものだった。これを着ることは、彼女たちと同じ重力圏に身を置くという宣言でもあった。
そして、僕はその「正装」を身に着けた。
部室から中庭を横切って校門へ向かう途中、他の部活の連中の視線が突き刺さった。
「おい、見ろよ。うちの組の福島だ。なんだあの格好」
「山岳部のジャージだな。 まさかあいつ、本当に入ったのかよ」
「あの部、ホントに何やってるか謎だよなあ」
クスクスという湿った笑い声が耳に届く。普段の僕なら、その音に耐えきれず猫背をさらに深く曲げていただろう。
だが、廊下の向こうから「ジンタロー!」という明るい声が響いた。




