第3話 屋上と焼きそばパンとギャル先輩③
僕はショートカットとギャルに連れられ、屋上を後にした。
「自分を変えるための何か、か」
僕は口の中でその言葉を転がしてみた。それはひどく苦くて、それでいてどこか中毒性のある薬のような響きを持っていた。
たしかにこの人の言うことは、論理的で、反論の余地がない。僕が一人で屋上で食べる焼きそばパンは、確かに僕の人生のメタファーそのものだった。平らにつぶれ、中身がはみ出し、誰にも顧みられることのない、安価な炭水化物の塊。
「アタシは桃香。堀越桃香!2年A組!で、こっちの闇の暗殺者みてーな子が山岳部部長の坂田凛、2年B…だっけ?まーどーでもいーか、あはは」
「誰が暗殺者だ...!」
そう言って小さく笑う。
「ところでさ、あんた名前何てゆーの?」
「福島陣太郎、です」
先輩と知ってしまった以上、言葉には気をつける。これは別に誰かに強制されたわけでもない、僕なりの処世術だ。
「ジンタロウ?何それかっこいい名前!ウケる!」
ぷっと吹き出すのをこらえるギャル。失礼な人だな。
「あ、そうそう!アタシのこと苗字で呼ぶの禁止な!桃香さんって呼べよ〜!約束だぞ」
突如僕の方を振り返るギャル。顔は笑っているが、目は本気だ。なにか複雑な事情でもあるのか。まあいい。僕は逆らわずうなずいて答えた。
「わかりました、桃香先輩」
「よろしい!お、こっちこっち!アタシたちの部室、結構居心地いいんだからさ」
桃香先輩が僕の腕を引っ張った。彼女の力は見た目よりもずっと強くて、抗うことを諦めさせるような不思議な熱を帯びていた。僕は溜息をつき、パンの袋を途中の廊下にあるゴミ箱に捨てた。こうして、僕の「退屈で灰色の高校生活」は、潰れた焼きそばパンと共に初夏の陽炎の中に消えていった。
校舎の隅、普段は誰も寄り付かない旧館の奥に、山岳部の部室はあった。
扉を開けると、そこには僕の想像とは少し違う光景が広がっていた。カビ臭い部室を想像していたが、空気は意外にも清潔で、微かにコーヒーと、そして……畳のような香りがした。
「あ、凛ちゃん、おかえりなさーい」
のんびりとした、春の午後の日差しのような声が聞こえた。
長身で、糸のように細い目をしたモデルのような美人が、湯呑みを手に微笑んでいた。彼女の名は海老根実柚先輩。みんなが「エビちゃん先輩」と呼ぶ、この部の緩衝材のような存在だ。
「わっ、新しい生贄? ……じゃなくて、新入部員くん?いきなりケガしてんじゃん」
もう一人、セミロングの髪をサイドでまとめた小柄な先輩が、目を輝かせてこちらに飛びついてきた。板垣棗先輩だ。彼女の瞳には、獲物を見つけた肉食動物のような、あるいは新作のアニメをチェックするオタクのような、奇妙な熱気が宿っていた。
「……あ、あの、……だれ?」
そして部室の隅、積み上げられたザックの影で、小さな女の子が携帯ゲーム機を握りしめて震えていた。前髪が長すぎて目元は見えないが、その小動物のような雰囲気。彼女は岡杏菜先輩。
「今日から仮入部することになった、福島陣太郎くんだ」
坂田部長が事務的に僕を紹介してくれた。
それから部室の棚から大きいアルミ製の本格的な救急箱を出し、僕のケガに的確な処置をしてくれた。これも山岳部の備品らしい。清潔に整えられたこの救急箱一つでこの部の熱量が伺える。
「アタシをかばってケガしたんだこの子」
「まーた別れ話でケンカかよ。桃香は男見る目ねーな」
板垣先輩と桃香先輩はまるで漫才の掛け合いのように軽口を言い合っている。ふたりの仲の良さが垣間見えた。
「福島くん、ここは山岳部。女子ばかりの部活だけれど、やることは本格的よ。私たちの目標は、八月の北アルプス、槍ヶ岳登頂。君にはそのための『力』になってもらうわ」
「槍ヶ岳……」
名前だけは知っている。日本のどこかにある高い山。その名前は、どこか遠い世界の寓話のように聞こえた。標高三千メートルを超える鋭い矛。そんな場所に、僕のような猫背の帰宅部予備軍が辿り着けるはずがない。
「大丈夫だって! アタシがついてるし!」
桃香先輩が僕の肩に腕を回した。彼女との距離が近すぎて、脳内の処理能力が限界を超えそうになる。
「経験ゼロの初心者でも行けるものなのでしょうか」
「行けるかもしれないし、行けないかもしれない。でも、かつてうちの学校は毎年それをやっていたらしいわ」
「かつて?やって、た?」過去形の部長の言葉に問いを返す。
「数年前までは男子部員もたくさんいて、山岳部はそこそこ強豪だったらしいの。その頃は毎年夏山に北アルプス槍ヶ岳を制覇していたというわ」
「顧問のコバやんもあと何年かで定年だからね、今しか行く機会ないワケ!」
板垣先輩が口を挟む。コバやんとは数学教師の小林先生だ。見たことがある。小柄ながら年齢を感じさせない体格はそうか、山登りをしていたのか。
「…わかりました。どこまでついていけるかわかりませんが、善処させていただきます」
僕がそう言うと、桃香先輩は本当に嬉しそうに笑った。その笑顔は、曇り空を無理やりこじ開けて差し込む一筋の光のようで、僕はほんの少しだけ、この面倒な場所も悪くないかもしれないと思い始めていた。
もちろん、その後に待っている、地獄のようなトレーニングのことなど、この時の僕はまだ知る由もなかったのだけれど。




