第2話 屋上と焼きそばパンとギャル先輩②
「おい、やめろよ」
僕の口から出た声は、自分でも驚くほど乾燥していた。まるで何年も雨が降っていない砂漠の真ん中で見つけた古い木箱をこじ開けたような、そんな響きだった。
男がこちらを振り向いた。その瞳には、場違いな闖入者に対する不快感と、自分より格下だと直感した相手への侮蔑が混じり合っていた。
「あ? なんだお前。引っ込んでろよ、部外者が」
「部外者ね。確かにそうかもしれない」
僕は努めてフラットな声を出し、乾燥した冬の芝生を踏むような乾いた口調で続けた。しかし心臓は、まるで壊れた洗濯機のように不規則なリズムで胸の裏側を叩いている。
「でも、屋上で大きな声を出し、暴力を行使するのは、公共の電波を私物化するようなものだ。少なくとも、僕の静かな昼食の時間は台無しになった。その点において、僕は立派な当事者なんだ」
男は一瞬、理解不能なものを見るような目で俺を見た。僕の話す理屈が、彼の語彙のリストには存在しなかったのだろう。彼は僕の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしたが、僕はそれを一歩下がってかわした。
「理屈っぽいやつだな」
男が彼女の腕を離し、僕の方へと歩み寄ってきた。
近付いてみると、男の身体は僕よりも一回り分厚い。身長も僕より少し高い。彼の威圧感で少しずつ削られていく。僕は自分が、台風の夜に外に置き忘れた折りたたみ傘のように頼りなく感じられた。
「逃げて!」
地面に手をついたまま、彼女が叫んだ。
しかし時すでに遅し、男の拳が僕の視界を横切った。
鈍い衝撃が頬に走り、僕は熱いコンクリートの上に転がった。口の中に鉄錆のような味が広がる。
「ザコが、生意気な事言いやがって」
男は吐き捨てるように言うと、僕の胸ぐらを掴み上げた。
僕は殴られた。それも一度や二度ではない。でも、不思議と恐怖は消えていた。僕の意識は、どこか遠い高い場所から、この滑稽な状況を観察しているようだった。
僕は運動が苦手だし、喧嘩のやり方なんてビデオゲームの中でしか知らない。でも、彼が僕を殴っている間、彼女は安全な場所にいる。その事実だけが、僕の体の中に小さな、でも消えない火を灯していた。
「……もう、それくらいにしたらどうだ」
僕の声は、さらに低く、砂利を含んだような響きになった。
「君が暴力をふるったこの事実が明るみに出たらどうする?そこに証人もいる。僕は被害者として傷害罪で警察に届け出る。進学にしろ、就職にしろ、君の将来の道は絶たれる。よくて退学、部活は出場停止だ」
「ごちゃごちゃと、このオタク野郎が!」
男がさらに拳を振り上げようとしたとき、重い鉄の扉が開く音が屋上に響いた。
「いい加減にしろ」
凛とした、冬の朝の空気のような声だった。
扉のところに立っていたのは、一人の女子生徒だった。
短く切り揃えられた黒髪に、射抜くような鋭い目。彼女は制服をきっちりと着こなし、すっと伸びた背筋。まるでそこにある空気を一瞬で凍結させるような静かな威圧感を放っていた。彼女がそこに立っているだけで、屋上の無秩序な熱気は、整然とした実験室のような静寂へと塗り替えられた。
「人目のつかない屋上で生徒に暴力を振るう。これは純粋な法理の問題だわ。今すぐ手を離しなさい。さもなければ、私は私の信じる正義に従って、事務的な手続きを開始することになる」
彼女の声には感情の起伏がほとんどなかった。それが逆にかえって、逃げ場のない宣告のように響く。
男は僕の胸ぐらを離し、不快そうに舌を打った。彼は僕とショートカット、そしてまだ地面に座り込んでいるギャルを交互に睨みつけると、吐き捨てるように言った。
「……チッ。どいつもこいつも、狂ってやがる」
男が足早に去っていく足音が、階段の向こうへ消えていった。
屋上に残されたのは、焼けるような沈黙と、僕の頬のズキズキとした痛みだけだった。
「あんた、大丈夫?」
ギャルが駆け寄ってきて、僕の顔を覗き込んだ。彼女の瞳は驚くほど大きく、長いまつ毛が震えていた。近くで見ると、彼女からは微かに香水と、夏の陽だまりを混ぜ合わせたような匂いがした。
「……大丈夫だ」
僕は地面に落ちた焼きそばパンを拾い上げながら、短く訂正した。パンはもう、車に轢かれた小動物のように無残な姿になっていた。
「怪我はないみたいだね。いや、頬が少し腫れているか。氷を持ってくるべきかな」
ショートカットの方も歩み寄ってきて、僕を観察するように見下ろした。彼女の視線は、珍しい昆虫の標本を眺める学者のそれによく似ていた。
「いいよ、これくらい。大したことじゃない。僕はただ、パンを食べていただけなんだ。静かな環境で、炭水化物を摂取したかっただけなんだ」
僕は立ち上がり、ズボンの砂を払った。普段通りの視界が戻ってくる。でも、心の中の猫背は治りそうになかった。
「あんた、サイコーだよ!」
ギャルの方が、いきなり僕の背中をバシッと叩いた。
「アタシのためにあんな奴に立ち向かってくれるなんて。あんた意外とガッツあるじゃん!」
「ガッツなんてない。ただ、計算を間違えただけだ」
僕はそっけなく答えた。
「君が転んだから、物理的な反動で体が動いた。それだけのことだ。……それより、さっき君は山がどうのって言っていた。君が山登り、してるのか?」
まさかこんなギャルが本当に登山をしているなんて思えない。純粋な疑問だった。
ギャルは一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐにひまわりが咲くような満面の笑みを浮かべた。
「そう! アタシ、山が好きなの。超好きなの! 山岳部なの!でも、今の山岳部って女子ばっかでさ。男手が足りなくて困ってたんだよねー」
彼女は僕の腕をぐいと掴んだ。その指先は意外なほど力強く、そして温かかった。
「あんた1年でしょ?友達いないんでしょ?どーせ部活にも入ってないんでしょ?」
「どーせとは何だ。……確かに入っていないが」
「決まり! あんた山岳部に入りなよ。アタシが鍛えてあげるから!」
「……断る」
僕は即座に言った。
山登り? 重い荷物を背負って、わざわざ重力に逆らって高いところへ行くなんて。それは僕の人生哲学において、最も遠い場所にある行為の一つだ。僕に必要なのは、静かな部屋と、安定したインターネット回線と、時々のカレーだけだ。
「あら、いい提案だと思うわ」
もう一人のショートカットが、冷ややかな微笑を浮かべて言った。
「君には、自分を変えるための何かが必要なように見える。このまま、屋上で一人で潰れたパンを食べる人生を続けるつもり?それに」
それから、少し呆れたような顔をして続けた。
「桃香を助けた謎のヒーローにケガの手当てをしてあげないとだしね」




