第27話 彼女の夢とクリスマスとギャル先輩⑤
そんな、2月のある日。
いつものように青いジャージに着替え、いつものように部室に入ると、雰囲気はいつものようではなかった。賑やかな部室ががらんとしている。部長の席にも誰も座っていない。積み上げられたザックの陰にいつも隠れている小さな妖精もいない。
「おー、ジンくんおつかれ」
マンガ雑誌から目を離さずに声をかけてきたのは板垣先輩だ。珍しい、今日は一人か。
「今日は何か静かですね」
「凛とエビちゃんは生徒会に呼ばれてる。桃香はギャル仲間とカラオケ。杏菜は風邪ひいて休み」
僕の方をチラリとも見ずに答える先輩。まだトレーニングの時間には早い。僕も部室の棚から適当な雑誌を取り出して読み始めた。
いつもと違う、静かな空気。
不意に、板垣先輩が口を開いた。
「あんたさ、桃香と杏菜、どっちが好きなの?」
「…え?」
ビックリして言葉が出ない。少年野球の試合に突然、メジャーリーガー級の剛速球が投げ込まれたかのような質問だ。
「気づいてないと思った?あんたが桃香の事大好きなことに気づいてないの、たぶん桃香だけだよ」
「そ、そうなんですか…」
顔がカッと紅潮して、背中に汗が噴き出す。
「あ、凛は気づいてないかも。あいつそういうのクソ鈍いし」
ふーっ、と息をついて板垣先輩は僕に言った。
「桃香があんな恰好してる理由聞いた?」
僕はうなずく。「受験に失敗したから、と聞きました」
「あの子さ、中学までは超マジメでさ。いわゆる優等生だったんだよ。あたしも最初は鼻持ちならねーヤツだな、って思ってたくらい。そんで急に変わった。あたしはこういう性格だから誰とでも付き合えるし、誰相手でもうまくやるけど、桃香はそうじゃない。かなり無理してる」
「…」
「変な男とも結構付き合ったりしてさ、よく泣いてたよ」
板垣先輩は雑誌を机に閉じ、僕をじっと見つめた。
視線が、痛い。
「部員0人の廃部状態の山岳部を復活させたのは、桃香だ。あいつが作り上げたこの山岳部をあたしは大事にしたい。今の桃香は毎日ホントにすげー楽しそう。そりゃどこの家庭にも事情があるからね、いい事ばかりじゃない。だからここはあいつの避難場所であり、シェルターなんだ」
「…僕も、そうです」
「あんたが杏菜の事も好きなのはわかってる。おそらく杏菜も、あんたにはただの後輩以上の気持ちをもってる。そこのところもよく考えて、行動しな」
その目は、いつも明るく振舞う板垣先輩が、今まで見せたことない鋭い光を湛えている。親友を想う心を僕は強く感じた。しかしすぐにいつもの人懐っこい表情に戻り、続けた。
「でもさ、桃香は倍率高いぞー。超モテるからねー。しっかりしねーとどっかのイケメンにさらわれちゃうぞ。桃香に本気なら、今の100倍は男を磨かねーとな」
「はい…」
「それと杏菜を泣かせたら、凛のナイフコレクションで八つ裂きにされるかもね。残念ながら、どっちも地獄だ」
それから彼女はいたずらっぽく笑って最後にこう付け加えた。
「まあふたりが変なヤツにつかまるくれーなら、あたしはあんたの方がいいけどね」
その時、部室の扉が開いて部長とエビちゃん先輩が帰ってきた。
「生徒会から予餞会でまたステージをやって欲しいという依頼よ。うちの部、3年生いないのに」
帰ってくるなり席に座って大きなため息をつく部長。その表情は硬く強張っている。
予餞会とは、有り体に言えば「3年生を送る会」だ。たしかにわが山岳部には3年生はいない。部長があまり乗り気ではないのも無理もない。
「会計としては、せっかく作った衣装を、文化祭の1回で終わらせちゃうの、もったいないですからー、もう1回くらいやってもいいのではないかとー?」
反対にエビちゃん先輩は、いつものようにニコニコと雲の切れ間から差す春の光のような柔らかな笑顔で部長と言葉を交わす。
「…。杏菜の風邪が治ったら相談することにするわ…」
結局僕らは、2月に行われた予餞会で再度an'ner-Zを披露した。今度は卒業の曲をテーマにしてステージにあがり、ふたたび大喝采を浴びたのであった。
ステージが終わり、僕は部室に戻る。
壁に貼られたあの夏の写真。
そこには、泥と汗にまみれて笑う僕たちがいた。
一年前、一人で空を見上げていた僕には、この賑やかな静寂が訪れることなんて想像もできなかった。
桃香先輩の「海外」という夢。
岡先輩の「アイドル」という自信。
坂田部長の「論理」という力。
エビちゃん先輩の「慈愛」という心。
板垣先輩の「調和」という想い。
どれもが重なり合い、この部室で美しい5重奏を奏でている。
そして僕の世界は、ネイビーの登山靴がアスファルトを蹴るたびに、少しずつ、しかし確実に更新されている。
3月になれば、僕たちはまた一学年上がる。
新しい後輩が入ってくるかもしれない。桃香先輩たちの卒業が、少しずつ秒読みを始める。
でも、僕の首元にはまだ、岡先輩が編んでくれた温もりが残っている。
そして、僕の背中には、あの日桃香先輩が預けてくれた熱い体温の記憶が、消えない火種として燻り続けている。
僕は、まだ止まらない。
春の雪解けを待つ山々が、霧の向こうで静かに僕たちを呼んでいた。
部室の壁には、槍ヶ岳の記念写真と、文化祭の「an'ner-Z」の集合写真が並べて貼られている。
かつて友達がいなくて、自分の影ばかりを見ていた僕の世界は、今やこれほどまでに賑やかで、そして騒々しい。
僕たちは知っている。この冷たい空気の先に、またあの美しい春が、そして新しい山が待っていることを。




