第23話 彼女の夢とクリスマスとギャル先輩①
第7章 彼女の夢とクリスマスとギャル先輩
文化祭という名の巨大な熱狂が去った後の学校は、まるでパーティーが終わった直後のリビングルームのように、どこか所在なげで、ひっそりと冷え切っていた。
僕たちは再び、青いジャージを纏い、アスファルトを蹴る日常へと戻った。だが、そこにある空気は以前とは明らかに違っていた。
「……あ、あの、福島さん。……今日のトレーニング、……メニュー、これでいい?」
岡先輩が、僕の隣でメニュー表を差し出してきた。彼女はあの日以来、トレードマークだった長い前髪をすっきりと上げている。露出したその額は、磨き上げられた磁器のように白く、一点の曇りもない。
視界が開けたせいか、彼女の言葉には以前のような迷いがない。相変わらず声は小さいけれど、その響きには槍ヶ岳の岩肌を掴んだ時のような、確かな芯が通っていた。
驚くべきことに、文化祭後の彼女には男子生徒からの告白が相次いだ。無理もない。「幽霊」だと思っていた少女が、実は絶世の美少女で、しかもステージで眩いばかりの光を放ったのだ。
だが、岡先輩はそれらの好意に対して、どう対処していいか分からず、結局は坂田部長の後ろに隠れてしまうのだった。
「君ね、彼女は今、自分という山を登るのに精一杯なのよ。色恋沙汰で彼女の座標を乱すのは、論理的ではないわ」
坂田部長が冷徹な声で告白者を一蹴する光景は、もはや山岳部の新しい日常の風景となっていた。
10月初旬、僕たちは秩父の武甲山へと向かった。
一泊二日の秋山登山。空気は乾き、空の青さはまるで誰かがインクを濃く調合しすぎたかのように深い。
僕は、自分の身体の変化に驚いていた。標高差を稼いでも、以前のように肺が焼けるような痛みを感じない。太ももの筋肉は、僕が命じた通りに黙々と仕事をこなし、ネイビーの登山靴は地面の感触を正確に脳へと伝えてくる。
「福島くん、いい歩きね。重心の移動が滑らかになったわ」
坂田部長が珍しく僕を褒めた。
「ありがとうございます。少しは、重力と仲良くなれたみたいです」
山頂から見下ろした秩父の街並みは、秋の陽光に照らされて、箱庭のように穏やかだった。槍ヶ岳のような過酷さはない。けれど、そこには確かに、積み重ねてきた時間が形となった「実感」があった。
しかし、平穏な時間は長くは続かない。10月下旬、八ヶ岳で開催される関東大会のメンバー選抜という、山岳部にとっての「政治的」な問題が浮上した。
規定により、一パーティは四名まで。僕たち二年生以上の部員は五名。そして一年生の僕は、最初から補欠(あるいは留守番)と決まっていた。
あと一人、誰が残るか。
「……わたしが、……お留守番、する」
岡先輩が、遠慮がちに手を挙げた。
「……わたし、まだ、……みんなの、足引っ張っちゃう、から」
「それは違うわ、杏菜。君の体力は、もう十分基準に達している」
坂田部長が異議を唱える。部室に重苦しい沈黙が流れた。
それを破ったのは、桃香先輩だった。
「アタシが残るよ。ジンタローを一人にするのも可哀想だしさ」
彼女は、窓の外を眺めながら、さらりと言った。
「アタシはさ、夏に十分すぎるくらい良い景色見たし。今回は、凛たちが大会でバシッと決めてくるのを見守る役、やりたいんだよね」
桃香先輩の瞳は、以前のような「逃げ」の光ではなく、どこか悟ったような、凪いだ海のような静けさを湛えていた。彼女は、自分を曲げてまで一番でいようとする執着を、あのステージの向こう側に置いてきたのかもしれなかった。
他の部員たちが八ヶ岳へと旅立ち、部室は静まり返った巨大な沈没船のようになった。
僕と桃香先輩だけの放課後。それは、どこか現実から切り離されたような、不思議な親密さを孕んでいた。8キロのランニングコースを、僕たちは並んで走る。
「……なんか、変な感じだね」
桃香先輩が、呼吸を乱さずに言った。
「目立ちたがり屋のアタシが大会に出ないなんてさ。棗に『あんた、熱でもあるの?』って本気で心配されちゃった」
「先輩が留守番を選んだのは、僕としては助かりましたけど。一人で走るのは、真っ暗なトンネルを歩くようなものですから」
ランニングを終え、夕闇の迫る部室でストレッチをする。窓から差し込む残光が、彼女の横顔をオレンジ色に縁取っていた。
「ねえ、ジンタロー。この前ちょっと話したやつ、少しづつ決めてきたことがあるんだ」
彼女は、壁に背中を預け、膝を抱えた。
「アタシ、大学で経営とか、言語を学びたい。それで、いつか日本のすごい技術とか、素敵な文化を、世界中の人に届ける仕事がしたいんだ。メイドインジャパンを、もっと世界に広めるの。かっこいいと思わない?」
それは、かつて彼女が口にした「起業」という夢の、より具体的な青写真だった。
「いいと思います。先輩なら、きっと世界中の人を驚かせることができますよ」
「でもさ、これ、パパには絶対言えない。お姉ちゃんと同じ、偏差値の高い有名な国内の大学に行って、大企業に就職するのが『正解』だって信じてる人だから。……本当はね、海外の大学にも興味があるんだ。でも、そんなこと言ったら、うちの家、爆発しちゃうかも」
彼女は自嘲気味に笑ったが、その瞳の奥には、槍ヶ岳の頂上を見上げた時と同じ、鋭い光が宿っていた。僕は、自分の心臓の裏側が微かに熱くなるのを感じた。
彼女の背負っている荷物は、僕が思うよりずっと重い。けれど、彼女はその重さを、自分の力に変えようとしている。
僕は、彼女のために何ができるだろう。せめて、彼女がその山を登る時、隣でザックの端を支えられるような男になりたい。僕はそう、強く心に誓った。




