第21話 文化祭とアイドルとギャル先輩④
控室に戻ると、桃香先輩が待ち構えていた。
「もう、遅いよ杏菜! さあ、座って。アタシが世界一可愛くしてあげるから」
桃香先輩の手際によって、岡先輩の顔に「魔法」がかけられていく。そして、仕上げに桃香先輩が彼女の長い前髪を、ピンで優しく上げた。
「……っ」
僕は息を呑んだ。
そこには、これまで誰も見たことのない、息を呑むほどに美しい少女がいた。宝石のような瞳、意志の強さを感じさせる眉。彼女はまさに、箱の中から解き放たれた本物のアイドルだった。
「福島くん、見惚れているんじゃないわよ。……行きましょう」
坂田部長が、凛とした声で言った。彼女の耳はまだ少し赤かったが、その立ち姿には、親友の夢を支えるという不退転の決意が宿っていた。
体育館の舞台袖は、まるで深海に沈んだ潜水艦の内部のような、濃密な緊張感と機械的な静寂に包まれていた。幕の向こう側からは、数百人の生徒たちが発する熱気とざわめきが、巨大な生き物の呼吸のように伝わってくる。
「……福島さん、……心臓、……口から出そう」
前髪を上げた岡先輩が、衣装の裾を握りしめて僕を見た。その瞳は、暗がりの中でも自ら光を放つ宝石のように澄んでいる。メイクを施された彼女は、もう僕が知っている「幽霊みたいな岡杏菜」ではなかった。そこには、誰にも見つからない場所で磨き続けられた、一振りの美しい剣のような輝きがあった。
「ジンタロー、あんたもこっち来なよ」
桃香先輩が、僕の腕を強引に引き寄せた。彼女たちは円陣を組もうとしていた。
「え、僕はプロデューサーですし、ステージに上がるわけじゃ……」
「関係ないし! あんたがいたから、アタシたちはここまで来れたんだよ。ほら、早く!アイドルっつったら円陣でしょ!」
桃香先輩の強引さに抗えず、僕は女子部員たちの輪の中に加わった。右手に桃香先輩の、左手に岡先輩の、それぞれ種類の違う熱を帯びた手のひらを感じる。
「さあプロデューサー、担当アイドルに勇気の出る言葉、頼むよ」
板垣先輩が僕を見つめる。その表情は、いつもの軽い感じではなく、山頂を目指す時の真剣なまなざしだった。そして、他の先輩たちも。
「わかりました。……皆さん」
僕は一度、深く息を吸った。
「僕たちは、あの槍ヶ岳の頂上に立ちました。あんなに高くて、あんなに怖くて、あんなに美しい場所を、自分たちの足で乗り越えてきました。……今日のステージなんて、あの穂先に比べればなんてことはありません。ただ、皆さんが山で見せてくれたあの強さと、あの笑顔を、あそこで待っている連中に見せてやってください。……僕が知っている最高の山岳部を、見せつけてやりましょう」
一瞬の沈黙の後、坂田部長が僕の目を見て、わずかに口角を上げた。その表情には、いつもの冷徹な論理ではなく、仲間を信頼する一人の登山家の顔があった。
「いい言葉ね。……行くわよ。北高! ファイ!」
「「オー!」」
「ファイ!」
「「オー!!」」
「ファイ!」
「「オー!!!!」」
坂田部長の凛とした号令が、舞台袖の空気を震わせた。
暗転したステージに、彼女たちが飛び出していく。
イントロが流れた瞬間、照明が爆発した。
青と白の、山岳部の誇りを象徴するような衣装がライトを浴びて輝く。
「……え、嘘。真ん中の子、誰?」
「山岳部にあんな子いたっけ? 超絶美人じゃん!」
「……あ、あれ、2年の岡杏菜……だよな?」
「嘘だろ、あの『幽霊』の岡が!?」
体育館に、どよめきが走った。前髪を上げた岡先輩が、ステージの中央で誰よりも激しく、誰よりも正確に踊っている。彼女の動きには、長年溜め込んできた熱量がすべて注ぎ込まれていた。
そして、そのどよめきを圧倒的な「熱」に変えたのは、客席の前方に陣取ったラグビー部の連中だった。
「アンナ!」「ハイ!ハイ!」「モモカ!」「ハイ!ハイ!」
佐藤をはじめとする同級生、さらには桃香先輩のファンだというラグビー部の上級生までもが、統制の取れた、雷鳴のようなコールを送り始める。
地味で目立たなかった山岳部が、体育館の空気を支配した瞬間だった。
手足の長いエビちゃん先輩が優雅に舞い、桃香先輩と板垣先輩が完璧なシンクロで脇を固める。そして、照れを捨てた坂田部長のキレのあるダンス。
僕は舞台袖の暗闇で、その光景を網膜に焼き付けていた。
僕が頭を下げて回ったラグビー部の連中が、期待以上の働きをしてくれている。感謝の気持ちで、胸の奥が熱くなった。
そして曲がクライマックスを迎える。
体育館に、岡先輩のソロパートが響き渡った。
彼女の声は、槍ヶ岳の頂上で吹いた風のように透明で、聴く者の心を真っ直ぐに射抜いた。
最後の音が体育館の天井に吸い込まれ、一瞬の真空のような静寂が訪れた。
直後、それは割れんばかりの喝采となって爆発した。ラグビー部員たちの野太いコールが、地鳴りのように床を揺らしている。
素晴らしい、素晴らしいステージだった。
手汗でびっしょりの、僕の固く握りしめた拳は、小さく震えていた。




