第19話 文化祭とアイドルとギャル先輩②
そこには、練習を終えたばかりの桃香先輩がいた。彼女の周りには、2、3人の男子生徒がいた。おそらく先輩と同じ2年生で、いわゆる「一軍」と呼ばれるような、制服を崩して着こなしたイケメンたちだ。
「マジで? 桃香、アイドルやるの? 超ウケるんだけど」
「うるせーな、アタシ真面目にやってんだから!応援しろよな」
「今度さ、打ち上げとかしようぜ。俺らも行くからさ」
彼らと談笑する彼女は、僕の前で見せる「優しい先輩」でも「山岳部員」でもなく、紛れもなくその華やかな世界に属する、一人の眩しい少女だった。
彼らの軽妙なやり取り、共通の知人の話題、そして何より、その場に流れる「同等」の空気。
僕の足は、一瞬、コンクリートに根を張ったように動かなかった。
僕がどれだけ山を登り、どれだけ青いジャージを着て奔走したところで、僕は「後輩のジンタロー」でしかない。
彼女が隣に並び、肩を並べて笑い合うのは、あんな風に光を放つ側の人種なのだ。
槍ヶ岳の頂上で共有したあの時間は、希薄な酸素が見せた一時的な幻影だったのではないか。
僕は逃げるようにその場を去った。
夕暮れの校舎に、僕の靴の音が虚しく響く。
階段を下りるたびに、胸の奥に溜まった冷たい鉛のような感覚が、重く、深くなっていく。
彼女と僕は、同じ学校にいて、同じ部活にいて、同じジャージを着ている。
なのに、どうしてこんなに遠いのだろう。
その日の合同練習中、僕の指示はどこか上の空だった。
桃香先輩が僕の方を何度もチラチラと見ていたことに、僕は気づかないふりをし続けた。彼女の鋭い直感は、僕の心のなかに生じた小さな亀裂を、すでに嗅ぎ取っているようだった。
その日の練習が終わった後も、僕の胸の奥には、出口のない地下駐車場に閉じ込められたような、ひどく冷たくて淀んだ空気が溜まっていた。
「an'ner-Z」の練習は佳境に入っていた。岡先輩の歌声は、防音室の壁を震わせるほど熱を帯び、坂田部長のステップもようやく「正解」の形を捉え始めていた。プロデューサーとしての僕は、タイムテーブルをチェックし、板垣先輩と演出の最終確認を行い、事務的な言葉を淡々と口にしていた。
でも、僕の意識は、昼間に見たあの光景のなかに置き去りにされたままだった。
体育館の裏、午後の陽光を浴びて笑い合う、桃香先輩とあの男たち。
彼らの纏う空気は、あまりにも軽やかで、あまりにも自然だった。僕が槍ヶ岳で必死に肺を焼いて手に入れた「連帯感」なんて、彼らが日常の何気ない会話で共有している磁場に比べれば、どこまでも脆い砂の城のように思えた。
練習が解散になり、部員たちがそれぞれの帰路につこうとした時、桃香先輩が僕の隣に音もなく並んだ。
「ジンタロー、ちょっといい?」
彼女の香水と、微かな汗の匂いが混ざり合った独特の香りが鼻をくすぐる。僕は「はい」と短く答え、片付けの手を止めた。他の部員たちが気を利かせたのか(あるいは単に空腹に負けたのか)、足早に部室を出ていく。
二人きりになった部室に、夕暮れのオレンジ色の影が長く伸びていた。
「あんたさ、今日ずっと変だよ。アタシのこと、一度もちゃんと見なかったでしょ」
「……そんなことはありません。演出の全体像を見ていただけです」
僕は努めて事務的な、乾燥した声を出した。
「嘘。ジンタローが嘘つくときって、鼻の横がピクって動くんだよ。……昼休み、アタシがクラスの連中と話してたの、見てたんでしょ」
心臓が大きく跳ねた。僕は自分の顔の筋肉が、これほどまでに無防備だったのかと絶望した。
「……見ていました。でも、それがどうしたんですか。先輩が誰と話そうが、僕には関係のないことですし、それを制限する権利もありません。……住む世界が違うのは、最初から分かっていたことです」
自分でも驚くほど、可愛げのない言葉が口を突いて出た。
僕は、彼女が「何言ってんの、バカじゃない?」と笑い飛ばすのを期待していたのかもしれない。あるいは、決定的な拒絶を望んでいたのかもしれない。
でも、桃香先輩は笑わなかった。彼女は僕のすぐ前まで歩み寄ると、僕の青いジャージの袖をぎゅっと掴んだ。
「世界なんて、一つしかないでしょ。アタシたちが一緒に槍ヶ岳に登って、一緒にエビちゃんのカレー食べて、一緒にan'ner-Z作ってる、この世界だよ」
彼女の大きな瞳が、まっすぐに僕を射抜いた。
「あの連中は、アタシが夜中にジンタローに電話することなんて知らない。アタシがこんな恰好してるけど、ホントは仮面をかぶってるなんてことも知らない。……アタシのこと、本当に知ってるのは、あの時アタシを助けて、一緒に山に登ってくれたジンタローだけでしょ」
彼女の声は少し震えていた。
「後輩だから、とか、住む世界がどうとか、そんなつまんない理由でアタシを遠ざけないでよ。……アタシ、ジンタローにだけは、ちゃんと見ててほしいんだよ」
窓の外では、秋の訪れを告げる虫の声が響き始めていた。
僕は、自分がどれほど傲慢で、そしてどれほど臆病だったかを思い知らされた。彼女が必死に守り、僕にだけ見せてくれた「自由」という名の宝物を、僕は勝手に引いた境界線の向こう側に押し戻そうとしていたのだ。
「……すみませんでした、桃香先輩」
僕は深呼吸をし、喉の奥にある鉛を吐き出した。
「プロデューサー失格ですね。……これからは、ちゃんと見てます。誰よりも近くで、誰よりも真剣に」
「……ホントに? 調子いいんだから」
彼女はパッと手を離すと、いつものように茶目っ気のある笑みを浮かべた。でも、その頬は夕焼けのせいだけではなく、ほんの少し赤らんでいるように見えた。
「よーし! 仲直りの印に、明日までに照明のパターン、もう一つ増やしといてね。ジンタローならできるでしょ?」
「……それはプロデューサーへのパワハラじゃないですか?」
「あはは、アタシ副部長だもん、命令でーす!」
彼女はスキップするように部室を出ていった。扉が閉まる間際、部室に置いてある彼女のザックに取り付けられた宇宙服の熊が、チリン、と澄んだ音を立てて鳴った。
僕は一人、静まり返った部室で自分のネイビーの登山靴を見つめた。
恋は、山登りによく似ている。
一歩進むたびに、新しい不安と、新しい絶景が交互にやってくる。
僕はまだ、この険しいルートの途中にいる。でも、その足取りは、数分前よりもずっと確かなものになっていた。




