第17話 槍と記念写真とギャル先輩③
西鎌尾根は、巨大な龍の背中のようだった。
左右を鋭く切り落とされた細い稜線が、空に向かって緩やかに、しかし執拗に続いている。一歩踏み外せば、そこには昨日僕を飲み込もうとしたあの「死」が、口を開けて待っている。
僕は、ネイビーの登山靴の底が岩を掴む感触だけに全神経を集中させた。昨日の雪渓での一件以来、僕の心の中にあった「自分への過信」という名の騒がしい音楽は鳴り止み、代わりに静かで重い慎重さが居座っていた。
「いいリズムよ、福島くん。山を征服しようと思わないこと。ただ、山に許されて歩かせてもらっていると考えなさい」
坂田部長の声が風に乗って届く。彼女の歩みは、まるで測量士が引いた一本の線のように正確だった。彼女がそこにいるだけで、この険しい尾根道が確かな「道」としての意味を持つ。
「ジンタロー、見て! 槍がどんどん近づいてくるよ!」
前を歩く桃香先輩が、歓喜に満ちた声で叫んだ。
視線の先には、ついにその全貌を現した槍ヶ岳がそびえ立っていた。天を衝く鋭利な矛。それは、地上のあらゆる論理を拒絶し、孤高という概念を物質化したような姿をしていた。
桃香先輩は、まるで翼を得た鳥のように生き生きとしていた。岩場を跳ねるように進み、時折立ち止まっては、深く、深く北アルプスの空気を吸い込む。
「アタシ、やっぱりここが好き。パパの説教も、お姉ちゃんの成績も、ここまでは追っかけてこれないもん。ここは、アタシだけの場所なんだ」
彼女のザックで、宇宙服を着た熊が誇らしげにチリンと鳴った。
槍ヶ岳山荘に辿り着いたとき、僕の体力は予備タンクすら空になりかけていた。だが、本当の「戦い」はここからだった。
ザックを山荘前の広場にデポ──一時的にザックを置いていくこと──し、僕たちは身軽になる。
目の前には、垂直に近い岩壁。そこを這うように続く、何段もの鉄はしごと鎖。
「……あ、あの、福島さん。……大丈夫。……わたしが、後ろにいるから」
岡先輩が、僕の背中にそっと手を添えた。彼女だって怖いはずなのに、僕をサポートするために懸命に恐怖を抑え込んでいるのが分かった。
「……一段ずつ、……ゲームの、コンボを繋げるみたいに、……行こう?」
僕は頷き、最初の鉄はしごに手をかけた。
冷たい鉄の感触が、手のひらを通して心臓にまで伝わってくる。
一段、また一段。
下を見れば、吸い込まれるような高度感に眩暈がする。足が震え、腕の筋肉が悲鳴を上げる。昨日の恐怖がフラッシュバックし、指先が硬直しかけたその時。
「ジンタロー! 上見て、上! アタシがここで待ってるから!」
はるか上方、霧の切れ間から桃香先輩の顔が見えた。彼女は岩に身を乗り出すようにして、僕を呼んでいた。
桃香、先輩…!彼女の声は、荒れ狂う嵐の中で進むべき方向を示す灯台の光のようだった。
僕は再び、足を動かした。
最後の一段を登り切り、狭い山頂の平らな岩の上に足をついた瞬間。
世界が、爆発した。
360度、遮るもののない大パノラマ。
幾重にも重なる青い山並み。遠くで白く輝く雪渓。足元を流れる雲海。
それは、教科書やテレビで見るどんな景色とも違っていた。そこには圧倒的な「沈黙」があり、そして同時に、全宇宙が呼吸しているような巨大な「音」があった。
「……着いた。本当に、着いたんだ」
気がつくと、頬に熱いものが伝っていた。
それは、恐怖からの解放でも、単なる疲労の産物でもなかった。
友達もいなくて、自分を嫌いで、冷笑することでしか世界と関われなかった僕が、自分の足でここまで来た。自分を変えたいと願って、泥にまみれて、呼吸を乱して、そうしてたどり着いたこの場所の美しさが、僕の心の奥底に溜まっていた澱を、一気に洗い流していくようだった。
僕は声も出さずに、ただ子供のように泣いた。
坂田部長も、桃香先輩も、岡先輩も、エビちゃん先輩も、そして板垣先輩も。
誰も僕を笑わなかった。
「よく頑張ったね、ジンタロー」
桃香先輩が、優しく僕の肩を叩いた。彼女の目も、少しだけ潤んでいるように見えた。
小林先生は、少し離れた場所でそんな僕らを優しく見守りながら、満足げに目を細めていた。
「福島。これが、お前が解いた答えだ。苦手な数学よりは、少しばかり実感を伴うだろう?」
僕は涙を拭い、目の前に広がる青い世界を、網膜に焼き付けるように見つめた。
槍の穂先を吹き抜ける風は、驚くほど冷たく、そしてどこまでも自由だった。
山頂の風は、あらゆる虚飾を剥ぎ取っていく砥石のようだった。
3180メートルの岩の尖端に立つと、僕のなかに残されたのは、ただ「呼吸をしている」という純粋な事実だけだった。
「ほらジンタロー、いつまでも泣いてないの。顔、ぐちゃぐちゃじゃん」
桃香先輩が笑いながら、僕の肩を小突いた。彼女の瞳も潤んでいたけれど、その声は、槍の穂先に差し込む陽光のように明るかった。彼女は自分のジャージのポケットから、少し年季の入ったスマートフォンを取り出した。
「せっかくここまで来たんだからさ、記念写真撮ろうよ。アタシたちの『制覇』の記録!」
「賛成! あたしもインスタ用のネタが欲しかったんだよねー」
板垣先輩が、僕の青いジャージの背中をバシバシと叩きながら賛同した。
山頂の限られた平坦なスペースに、僕たちは身を寄せ合った。
坂田部長が「並びなさい。これは山岳部としての公式な記録でもあるのだから」と、
照れ隠しのような厳格な口調で指示を出す。エビちゃん先輩が「ですねー、みんなで笑いましょうー」と、僕の隣にふわりと並んだ。
岡先輩は、僕の反対側で、まだ震える手で僕のジャージの袖を少しだけ掴んでいた。
彼女は前髪を風になびかせ、今まで見たこともないような、穏やかで強い眼差しをカメラに向けていた。
「小林先生、祠が映るようにお願いしまーす!」
桃香先輩がスマートフォンを先生に託した。小林先生は「いやー、顧問としてまた槍に来る日が来ようとはなぁ」と微笑みながら、カメラを構えた。
「撮るぞー。3、2、1、……山!」
シャッター音が響いたその瞬間、僕たちの時間は永遠に切り取られた。
背後には、紺碧に近い青空と、地上のあらゆる重力から解き放たれたような雲海。
その真ん中で、泥に汚れ、汗にまみれ、それでも誇らしげに青いジャージを着た6人の若者。
僕はその時、確信していた。
この一枚の写真は、これから先の僕の人生において、どんな高級な絵画や、どんな複雑なビデオゲームのエンディング画面よりも価値を持つものになる。
狭い屋上で一人、焼きそばパンを食べていた僕に教えてあげたかった。お前の世界は、こんなにも高くて、こんなにも広い場所に繋がっているんだと。
「……よし、完璧だわ」
画面を確認した坂田部長が、満足げに頷いた。
「さあ、下山を始めるわよ。山は登るよりも、無事に帰るまでが本当の試練なのだから」
「えー、もうちょっとだけこの景色見てたいよー」
桃香先輩が不満げに唇を尖らせたが、その手はしっかりと僕の腕を掴んでいた。
「ジンタロー。次は文化祭だね。あんた、アタシたちのプロデューサーなんだから、手加減しないからね?」
「……分かってます。槍ヶ岳より高いハードルになりそうですね」
僕は苦笑いしながら、もう一度だけ、世界を見下ろした。
ネイビーの登山靴は、しっかりと岩を掴んでいる。
僕の夏は、まだ終わらない。むしろ、本当の「祭り」はここから始まるのだ。




