第16話 槍と記念写真とギャル先輩②
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
その思考だけが、純度の高い恐怖となって脊髄を駆け抜けた。心臓が、まるで冷たい氷を直接握られたかのように凍りつく。僕が積み上げてきた数ヶ月のトレーニングなんて、大自然のほんの一吹きの悪戯の前では、蟻が築いた砂の城と変わらなかった。
「ジンタロー!」
「福島さん!」
鋭い声が響くと同時に、僕の腕を強い力が捉えた。
小林先生が、驚異的な反応速度で僕のザックのショルダーベルトを掴み、そのまま岩場へと引き寄せたのだ。
「……落ち着け。呼吸しろ、福島」
先生の低く、静かな声が耳に届く。
僕は岩にしがみついたまま、激しく喘いだ。手のひらは擦り切れ、全身の震えが止まらない。さっきまで自分を包んでいた「自信」という名の安っぽい皮が剥がれ落ち、そこにはただの、臆病で無力な16歳の少年が晒されていた。
「……すみません。……すみません」
「謝る必要はないわ。ただ、自分の無知を刻みなさい」
坂田部長が、厳しい、けれどどこか安堵したような響きを含んだ声で言った。
岡先輩が、震える僕の隣にそっと寄り添い、水筒を差し出してくれた。
「……大丈夫。……ゆっくり、……行こう」
「あーあ、ジンタロー、顔色真っ青じゃん」
桃香先輩が、心配そうに、けれど努めて明るく笑いかけてきた。彼女のザックで、宇宙服の熊がチリンと鳴る。
「山はさ、アタシたちのことなんてこれっぽっちも気にしてないんだよね。だから、こっちがちゃんと気を遣ってあげなきゃ。ね?」
彼女は本当に、この場所を愛しているようだった。厳しい岩場でも、薄い空気の中でも、桃香先輩は一番生き生きと、そして楽しそうに笑っている。その姿は、聖明館高校の冷たい廊下で俯いていた彼女とは、全く別の生き物のようだった。
僕たちは再び歩き出した。
双六岳の広大な稜線を越え、ようやく双六小屋に辿り着いたとき、僕の体力は完全に枯渇していた。
「福島さん、これ。……ご褒美ですよー」
エビちゃん先輩が、小屋で買ってきたという一個のリンゴを差し出した。
一個、500円。下界のスーパーなら、最高級のブランド品が買える値段だ。
エビちゃん先輩は、その高価なリンゴを器用にナイフで切り分け、僕たちに配ってくれた。
口に含んだ瞬間、驚きで目が眩んだ。
冷たくて、瑞々(みずみず)しくて、暴力的なまでに甘い。
「……美味しい。……何だこれ、世界一美味しいです」
「でしょうー? 高い場所で食べるものは、標高の分だけ味が凝縮されるんですよねー」
エビちゃん先輩は、ニコニコと微笑みながら、レトルトの牛丼に乾燥ネギと紅生姜をたっぷりと添えていく。
「さあ、明日は西鎌尾根よ。槍の懐に飛び込むわよ」
坂田部長の声に、板垣先輩が「よっしゃ、気合入れよー!」と拳を突き上げた。彼女の明るさが、僕の中に澱んでいた恐怖を少しずつ散らしていく。
僕は、薄い寝袋の中で、自分の手のひらの傷を見つめた。
深夜、不意に目が覚めた。
双六山荘のテント場の静まり返った空気の中で、僕は理由もなく外の空気が吸いたくなった。寝袋を這い出し、ジャケットを羽織り、テントのファスナーをそっと開けて外に出る。
そこに広がっていたのは、僕が知っている「夜」ではなかった。
「……!」
声が、喉の奥で形を失って消えた。
空には、巨大な白い傷跡のような、あるいは零れ落ちた発光する砂の奔流のような、
圧倒的な光の帯が横たわっていた。天の川だ。
これまで、パソコンのディスプレイや、誰かの加工されたインスタグラムの写真で、それは何度も見てきた。美しく、整えられた、静止した風景として。
けれど、今僕の目の前にある「本物」は、それらとは全く別の生き物だった。
星たちは瞬き、蠢き、三次元的な深みを持って僕の視界を押し潰そうとしていた。銀河の渦は冷たい炎のように燃え、宇宙という名の巨大な真空の空洞が、そこにあることを生々しく主張している。
それは感動というよりは、畏怖に近かった。
「……綺麗だね、ジンタロー」
すぐ傍らに、影がふっと現れた。
桃香先輩だった。彼女は岩の上に腰を下ろし、僕と同じように首を限界まで反らせて、その光の深淵を見つめていた。
「本物はさ、画面越しに見るのと全然違うよね。なんか、吸い込まれて消えちゃいそう」
桃香先輩の声は、いつもの元気なトーンを脱ぎ捨てて、夜の闇に溶け込むような静かな響きを帯びていた。彼女の横顔を、数十億年前の星の光が淡く照らしている。聖明館のあの冷たい廊下で言われた言葉も、姉の完璧な成績も、この光の洪水の中では一粒の塵ほどの意味も持たないように思えた。
僕たちはそれから長い間、一言も交わさずに空を見上げ続けた。
沈黙は気まずいものではなく、むしろ僕たちの間にある不必要な言葉を、星の光が丁寧に洗い流してくれているようだった。
僕はふと、自分の手のひらを見た。
昼間の岩場を掴んだときの傷が、微かに痛む。
この広大な宇宙から見れば、僕が山を登ることも、高校デビューに失敗したことも、昼間に死かけたことも、全ては誤差のような出来事かもしれない。
けれど、僕の足が感じている岩の冷たさと、隣で静かに呼吸をしている彼女の気配だけは、間違いなく「ここ」にある真実だった。
「明日、あの先に行くんだね」
桃香先輩が、暗闇の中にそそり立つ槍の穂先を指差した。
漆黒のシルエットとなったその巨躯は、星空を鋭く切り裂き、神話の武器のように鎮座している。
「はい。行きましょう、先輩」
僕は答えた。
恐怖はまだそこにある。けれど、その恐怖さえも、この美しい銀河の一部なのだと思えば、少しだけ愛おしく感じられるような気がしていた。
明日、僕はあの槍の穂先に立つ。
傲慢さを捨て、ただ一歩を積み重ねるために。




