第15話 槍と記念写真とギャル先輩①
第5章 槍と記念写真とギャル先輩
8月上旬の夜、僕は自室のベッドの上で、深海を漂う一匹の魚のような気分で天井を眺めていた。
明日から、北アルプスの槍ヶ岳へ向かう。
標高3180メートル。その尖った穂先は、まるで地上のあらゆる些末な出来事を拒絶するように空を突き刺している。これまで僕が見てきた山々とは、明らかに次元の違う存在だ。
部屋の隅には、パッキングを終えた大きなザックが、沈黙を守る巨大な岩のように鎮座している。中には、エビちゃん先輩が用意した軽量化された食料や、坂田部長に「魂を研げ」と言われて磨いたナイフ、そして僕の人生を少しだけ変えてしまったネイビーの登山靴が詰まっている。
心臓の鼓動が、静かな部屋の中で不規則なリズムを刻んでいる。眠らなければならないことは分かっていた。だが、意識は既に松本行きの特急列車に乗っているかのように、落ち着きなく先を急いでいた。
すると、枕元でスマートフォンが震えた。メールだ。
画面には「堀越桃香」の名前。
時刻は深夜零時を少し回ったところだ。
僕が返事を返すと、すぐに電話がかかってきた。
「……もしもし」
『眠いところゴメンネ、ジンタロー、起きてた?』
受話器の向こうから、夏の夜風をそのまま切り取ったような彼女の声が届いた。
「眠れなくて。……遠足の前の小学生みたいで、自分でも情けないんですけど」
『あはは、アタシも一緒だよ。なんかさ、槍ヶ岳のことを考えると、心臓がチリンチリンって鳴るんだよね』
彼女はそう言って、僕が贈ったあの熊の鈴のことを仄めかした。
『ジンタロー、いろいろ大変なこともあると思うけどさ。……がんばろうね。アタシ、あんたと一緒にあの頂上に立ちたいんだ』
「……はい。頑張ります」
短い会話だった。けれど、その言葉は僕の胸の奥にある「不安」という名の冷たい水溜まりを、一瞬で温かなお湯に変えてくれた。電話を切った後、僕は吸い込まれるように深い眠りに落ちた。
翌朝、僕たちは駅のホームに集まった。
お揃いの青いジャージを着た僕たちの集団は、始発の早朝の駅の中で、そこだけ切り取られた異世界のように見えた。
「福島くん、忘れ物はないわね? 山では忘れ物は『致命的な欠落』に直結するわよ」
坂田部長が、凛とした声で確認する。彼女の目は、昨日よりさらに鋭く、山を迎える戦士のようだった。
今は長野まで新幹線がある。そこから松本まで電車に揺られ、それからバスを乗り継ぎ、僕たちは北アルプスの懐へと入り込んでいった。
車窓から見える景色が、コンクリートの灰色の世界から、深い緑と残雪の白が交差する圧倒的な自然へと塗り替えられていく。
公共交通機関を使っての移動は、日常から非日常へと少しずつピントを合わせていく作業のようでもあった。
入山初日。僕たちは烏帽子小屋を目指して歩き出した。
裏銀座縦走コースという高瀬ダムをスタートして、烏帽子岳・野口五郎岳・水晶岳・鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳などを経て槍ヶ岳へと至るコースだ。
登山口に一歩足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。
「さあ、行くわよ。槍の穂先は、待ってはくれないわ」
坂田部長の号令と共に、僕たちの槍ヶ岳への長い旅が始まった。
小林先生は最後尾から、まるで古い記録映画の監督のような穏やかな眼差しで僕たちを見守っている。
「福島、自分のペースを守れ。山は逃げないが、焦りは自分を追い越していくぞ」
僕は深く息を吸い込み、175センチの体を少しだけ前傾させて、一歩を踏み出した。
北アルプスの空気は、麓のそれとは明らかに組成が違っていた。
都会の空気が、誰かが使い古した後の生ぬるい微熱を孕んでいるのだとしたら、標高2500メートルを超えるこの場所の空気は、磨き上げられたばかりの冷たい水晶のようだった。吸い込むたびに、肺の奥が清潔な痛みで満たされていく。
二日目。僕たちは烏帽子小屋を出発し、三俣蓮華岳へと足を進めていた。
これまでの数ヶ月、僕は自分を「鍛えられた存在」だと思い始めていた。毎日の八キロのランニング、地獄のような階段昇降。かつての、焼きそばパンを一人で齧っていた猫背の僕とは違う。筋肉は意志を持ち、呼吸はリズムを刻む。講習会に行って知識もついた。その自負が、僕の足取りを少しだけ軽く、そして少しだけ傲慢にしていた。
「福島くん、浮ついているわよ。足元の石の一つひとつに、地球の重力が宿っていることを忘れなさい」
先頭を行く坂田部長が、振り返らずに釘を刺した。彼女の背中は、まるで動く要塞のように堅実だ。
「……あ、あの、福島さん。……ここ、……滑るから」
すぐ後ろを歩く岡先輩が、消え入りそうな声で注意を促した。彼女は小柄な体に似合わない大きなザックを背負いながらも、一歩一歩を慎重に、まるで爆弾を処理するような丁寧さで踏みしめている。
「大丈夫ですよ、岡先輩。このくらいの斜面なら……」
その慢心が、僕の視界を反転させた。
三俣蓮華岳の山頂付近、真夏だというのに居座り続けている雪渓の縁だった。
不意に、登山靴の底から確かな抵抗が消えた。
「あ――」
声にならない声が漏れたときには、僕はもう斜面を滑り落ちていた。
雪と泥が混じった斜面を、制御不能の質量となって加速していく。視界が激しく揺れ、空の青と岩の茶色が乱暴にかき混ぜられる。数メートル下には、口を開けたような切り立った崖が見えた。
死ぬ。
僕は、終わる。
そう直感した。




