第14話 雨と聖明館とギャル先輩④
8月。槍ヶ岳への出発を目前に控え、夏休みに入ってもトレーニングの強度は限界を超えて加速していった。
僕の日常は、アスファルトの上で飛び散る汗と、重力との終わりのない交渉だけに集約された。ランニングの距離は伸び、階段昇降の往復回数は数えるのを止めたくなるほどに増えた。
「福島くん、フォームが乱れているわ。体幹を意識しなさい。意識の欠如は、山では命取りになる」
坂田部長の言葉は、真夏の熱気の中でも常に冷たく、正確だった。彼女は相変わらず非の打ち所のないペースで走り続ける。その背中は、どんなに手を伸ばしても届かない、遠い山の頂のようだった。
「……は、はい。……意識は、……さっき、……成層圏まで、……飛んでいきました」
僕は喘ぎながら答えた。少しは体力がついた自覚はある。以前の僕なら、今の半分も走れば道端でうずくまっていただろう。
けれど、桃香先輩や坂田部長の背中は、近づくどころか、その距離さえ正確に測らせてくれない。彼女たちは、別の物理法則の中で生きている存在のようだった。
そんな過酷な日々の中、部室での30分だけが僕の酸素ボンベだった。
「……あ、あの、福島さん。……文化祭の、出し物、……決まったよ」
ザックの影で、岡先輩が小刻みに指を動かしながら言った。彼女のゲーム画面では、かわいらしい少女が歌ったり踊ったりしている。今までの格闘ゲームやFPSのゲームとは違い、カラフルな色彩が画面を明るく彩っている。
「……見て、……アイドル育成ゲーム。……わたし、最近、これ、はじめたの。……そしたら」
岡先輩はちょっとだけ目線を上げて小さく言葉を紡いだ。
「……わたしの、昔の夢、思い出して」
9月末の文化祭。山岳部は例年、登山の写真展示や装備の紹介という、地味極まりない出し物をしていたらしい。だが、今年は違った。
「……アイドルステージ、……やるんだって。……ももちゃんが、……言い出して」
「アイドル、ですか?」
僕は驚いて聞き返した。あの硬派な部長が、そんな浮ついた企画を許すはずがない。
「……前にももちゃんが言ってたでしょ。……私、昔、……アイドルになりたかったの」
岡先輩が、ゲーム機の電源を切って顔を上げた。前髪の隙間から覗く彼女の瞳は、これまでに見たことがないほど真っ直ぐで、そして切実だった。
「……でも、自信がなくて。……誰にも言わずに、……ずっと、箱の中に、……閉じ込めてた」
その時、部室の扉が開き、桃香先輩と凛さんが入ってきた。
「だから提案したんだよ! 杏菜の夢、叶えようよ! ジンタロー、あんたがプロデューサーね!」
桃香先輩は、自分の抱える鬱屈を吹き飛ばすかのように明るく言った。
一方、部長はブランドもののパーカーのフードを深く被り、ひどく不機嫌そうな、あるいはひどく羞恥心に耐えているような顔をしていた。
「……私は反対よ。そんな非合理的な活動、山岳部の本分とはかけ離れているわ。……けれど」
部長は一度言葉を切ると、親友である岡先輩をチラリと見た。
「……杏菜がどうしてもと言うなら、一肌脱がないわけにはいかないわね。これも一種の、……精神修養だと思えばいいのだから」
「坂田部長、耳まで赤くなってますよ」
「うるさいわね。階段、もう5往復追加させるわよ」
こうして、僕たちの夏は、槍ヶ岳への登頂と、文化祭のアイドルステージという、二つの巨大な山を目指すことになった。
槍への出発前夜。僕たちは最後のミーティングを終えた。
エビちゃん先輩が、とっておきの羊羹を切り分けてくれた。先輩のおばあちゃんが、地元の有名な和菓子屋さんの羊羹を送ってくれたそうだ。
「これを食べれば、槍の穂先まで一気に登れますよー」
彼女の穏やかな声に、張り詰めていた僕たちの心が少しだけ解けた。
僕の目の前には、泥に汚れ、僕の足の形に馴染んだネイビーの登山靴がある。
明日、僕たちは空に最も近い場所へと向かう。




