第13話 雨と聖明館とギャル先輩③
桃香先輩の指先が白くなるほど、彼女はジャージの裾を強く握りしめていた。呼吸は浅く、まるで酸素の薄い高山地帯で道に迷った遭難者のように、出口のない沈黙の中で立ち尽くしている。
僕は一歩、前へ出た。
僕の視界が、教師の老眼鏡越しにある傲慢な瞳と重なる。僕の心臓は、8キロのランニングの時よりも冷たく、そして正確なリズムを刻んでいた。
「……空虚で、滑稽、ですか?」
僕の声は、自分でも驚くほど乾いた響きを立てて、静まり返った廊下に響いた。
「先生。僕はまだ山を始めたばかりの初心者ですが、一つだけ学んだことがあります。山には、誰かが用意した『正解』なんてどこにもないんです」
教師が怪訝そうに眉を寄せた。
「なんだね、君は。部外者は黙っていなさい」
「部外者ではありません。僕は彼女の後輩です」
僕は言葉を選び、重力を持たせるようにゆっくりと続けた。
「お姉さんが登ったのが偏差値という名の整備された階段だとしたら、桃香先輩が登っているのは、もっと不確かで、もっと残酷で、けれど言葉にできないほど美しい本物の岩壁です。そこでは、誰かの期待や過去の成績なんて、1グラムの重みも持ちません。ただ、自分自身の足で一歩を踏み出す意志があるかどうか。それだけが全てなんです」
僕は隣に立つ先輩の、震える肩に視線を落とした。
「他人の物差しで測った空虚さを、彼女に押し付けないでください。この人は、先生が一生かかっても辿り着けないような高い場所で、誰よりも自由に、自分の人生を肯定しようとしているんですから」
「……、何を、私は君のためを思って……」
教師がさらに何かを言いかけたが、僕はそれを無視して、桃香先輩の手を取った。
「行きましょう、先輩。あなたに僕たちが学ぶべきことは何もありません」
僕たちは、逃げるようにではなく、意志を持ってその場を離れた。
講習会の会場である視聴覚室へ向かう途中、桃香先輩はずっと俯いたままだった。
非常階段の踊り場で、先輩が足を止めた。
「……ジンタロー」
その声は、消え入りそうなほど微かだった。
「……ありがと。でも、アタシ、やっぱりダメだ。お姉ちゃんと比べられると、自分がすごく、中身のないガラクタみたいに思えちゃう。パパも、お姉ちゃんも、ここ聖明館の人間はみんな、アタシのこと『失敗作』だと思ってるんだよ」
彼女の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。金髪のギャルという、彼女が必死に作り上げた武装が、古いインクのように剥がれ落ちていく。
「先輩は失敗作なんかじゃありません。少なくとも、僕にとっては」
僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「槍ヶ岳に登るとき、お姉さんの成績は何の助けにもなりません。先生の説教も、お父様の期待も、一歩も足を前には出してくれない。あの日、両神山の雨の中で僕の手を引いてくれたのは、他の誰でもない、桃香先輩です。その事実だけで、十分じゃないですか」
桃香先輩は、鼻をすすり、僕の胸元を弱々しく拳で叩いた。
「……生意気。ジンタローのくせに」
彼女は無理に作るような笑みではなく、少しだけ寂しそうで、けれど柔らかな、ありのままの表情で僕を見た。
「ねえ、ジンタロー。槍ヶ岳、絶対登ろうね。アタシが、アタシであるために」
「はい。そのために、僕はもっと鍛えます」
窓の外には、夏の終わりのような積乱雲が、圧倒的な質量を持ってそびえ立っていた。槍の穂先はまだ遠い。けれど、僕たちの前には、誰にも汚されていない、僕たちだけの道が確かに続いていた。
講習会からの帰り道、僕たちは駅前の牛丼屋で遅い昼食を摂った。腹の立つこともあったけど、さすがに県が主催するだけあって講習会自体は、夏山での歩行技術や生活技術、緊急時対策などといったかなり実践的なもので、決して悪いものではなかった。むしろ、これに関しては行ってよかったとさえ思える。
先輩は「アタシ、お寿司が良かったなー」といつもの調子で文句を言っていたが、運ばれてきた並盛りの牛丼を、まるで遭難者が最後の一食にありつくような真剣さで口に運んでいた。
彼女の横顔には、もう先ほどの涙の跡はない。けれど、彼女が自分のザックに付けた熊の鈴にそっと触れる回数が、心なしか増えていることに僕は気づいていた。




