平穏の裏に隠れてる影
警察が本格的に動き出してから最初の一週間は、静かなのに慌ただしかった。
事件そのものは、表向き何も起きていない。
ニュースで新しい報道が出るわけでもないし、学校の誰かが騒ぐわけでもない。街はいつも通りで、駅前の人の流れも、コンビニの肉まんの湯気も、何事もなかったみたいにそこにある。
けれど、その“何事もなさ”の裏側で、いくつもの線が少しずつ締まっていく。
四宮ハジメの勤務記録。
撮影現場への出入りの名目。
自首犯へ流れた金の中継。
倉庫街周辺での接触痕跡。
そして、連続事件の被害者たちの生活圏との重なり。
目に見えないところで、事件は確実に狭まっていた。
その中心にいたのは、やっぱり佐野雪芽だった。
※ ※ ※
「ほんと、警察って書類が好きだね」
平日の午後、駅近くの喫茶店の奥の席で、佐野はそう言って紙の束を机に置いた。
神木新田は、その嫌味に近い感想にも表情をほとんど変えず、コーヒーを一口飲んでから答えた。
「書類が嫌いなら、逮捕の時に困る」
「夢がない」
「夢で人は捕まらないので」
その会話のテンポは、初対面の時よりずっと自然になっていた。
仲が良いわけじゃない。馴れ合っているわけでもない。ただ、お互いの仕事の進め方が見えてきたぶん、無駄な警戒が減っただけだ。
佐野は、病み上がり特有のわずかなだるさを誤魔化すみたいに足を組み直した。まだ脇腹の傷は疼く。だが、じっとしていられるほど性格が良くない。
「で?」
佐野が顎で紙束を示す。
「そっちで固まったの、どこまで」
神木は手元の資料を一枚抜いた。
そこには、時系列と人物相関を簡潔にまとめたメモがある。警察の資料らしく、余計な感情が削ぎ落とされた紙だ。
「まず、自首犯への送金の中継口座。これはほぼ押さえられた」
「ほぼ、ね」
「口座名義の一部がダミーだった。だが、そのダミーを作る時に使われた身分証の複製元が、四宮の過去の勤務先と繋がる」
そこまで聞いて、佐野は少しだけ目を細めた。
綺麗だ。
綺麗すぎる。
四宮ハジメは、痕跡を消す時も“全部を消す”んじゃない。“普通に見える程度に薄める”ことに長けている。だからこそ、深掘りしないと出てこない。
「倉庫街は?」
「出入りしていた車両の一台に、四宮本人と断定できる映像はまだない」
神木は淡々と続ける。
「だが、レンタカーの利用履歴が繋がった。名義は別だが、受け取り時刻と返却時刻、移動距離、接触場所の時間帯が合う」
「つまり、包囲網としては十分」
「そういうことです」
佐野は小さく息を吐いた。
ここまで来ると、もう“怪しい男”では済まない。
逮捕へ向けての現実的な線になってきている。
「撮影現場の件は?」
佐野が聞くと、神木は別の紙をめくった。
「事務所側から臨時スタッフの記録を押さえた。四宮ハジメの名前で入っている。ただし本人確認は甘い。だから、そこだけでは弱い」
「でも、アイラの証言が乗る」
「ええ。本人の名札の目撃と、会話内容。さらに、過去の現場でも似たような形で外部スタッフとして入っていた形跡がある」
その言葉に、佐野の中で嫌な納得が広がる。
四宮は、ただ待つタイプじゃない。
狩りの前に、ちゃんと近づく。
相手の空気、生活圏、人間関係を、自分の目で確認したがる人間だ。
「趣味が悪いね」
佐野が呟くと、神木は短く返した。
「そういう問題じゃ済まない」
「分かってるよ」
軽口は叩く。けれど、理解していないわけじゃない。
四宮ハジメの異常性を、佐野はもう倉庫街で身体ごと知っている。
神木はそこで、声の温度を少しだけ変えた。
「もう一つ」
「何」
「四宮は、最近動きが減っている」
「減ってる?」
「表向きの、です」
神木は紙の上を指先で軽く叩いた。
「勤務先への出入り。外食。買い物。そういう生活の痕跡が急に薄くなった」
佐野の眉がわずかに動く。
それは良い兆候じゃない。
「逃げる準備?」
「もしくは、潜る準備」
神木ははっきり言った。
「追われている自覚が出た可能性が高い」
それは、つまり――早く動かなければならないということだ。
佐野は視線を窓の外へ向けた。
昼の光の中を、何も知らない人たちが普通に歩いている。普通の街。普通の秋の終わり。そこに四宮みたいな人間が紛れていて、しかも今まさに追い詰められつつある。
「……間に合うかな」
佐野がぼそりと漏らすと、神木は一拍置いて答えた。
「間に合わせるために動いている」
その言い方は、気休めじゃなかった。
断言できる材料があるわけじゃない。けれど、警察として、刑事として、そこを曖昧にしない人間の声だった。
佐野は少しだけ口元を緩めた。
「嫌いじゃないよ、そういうの」
「褒め言葉として受け取っておきます」
神木はそう言って、資料を閉じた。
「今日の夜、さらに一段階進めます」
「何するの」
「証拠の束を正式に上へ回す。逮捕に向けた稟議を急がせる」
「やっと、って感じだね」
「やっと、です」
その短い会話の中に、ここまでの焦れったさが全部詰まっていた。
※ ※ ※
同じ頃、学校では、アリスが昼休みに俺の机の横へ座っていた。
「今日、神木さんと佐野さんが会うんだよね」
「ああ」
俺は弁当箱の蓋を閉めながら答える。
最近は、警察の動きも最低限アリスと共有している。全部じゃない。全部を渡したら、逆に不安が増えるだけのこともある。けれど、何も知らないままでいさせるほど、もう状況は軽くない。
「なんか、いよいよって感じする」
アリスが言う。
「うん」
「怖いけど……終わりに近づいてる感じもする」
その感覚は、俺にもあった。
ただし、“終わりに近づく”ことは、同時に“いちばん危ない場所に近づく”ことでもある。
「放課後、まっすぐ帰るぞ」
俺が言うと、アリスは少しだけ頬を膨らませた。
「分かってる」
「ほんとか」
「ほんと。最近の私、かなり優秀だよ」
「自分で言うな」
「だって、ちゃんと寄り道我慢してるし、予定も共有してるし、知らない番号も無視しないし」
指を折りながら言うアリスに、俺は少しだけ笑った。
「たしかに優秀だな」
「でしょ」
アリスは満足そうに頷いてから、声を少しだけ落とした。
「……でも、アイラさんのことは気になる」
俺はその言葉に、少しだけ表情を戻す。
「昨日、ちょっとだけ連絡したんだけど、普通だった」
「普通?」
「うん。普通に本の話して、普通に寒いねって話して。……だから余計に、あの子も巻き込まれてるのが変な感じする」
それはそうだろう。
アイラは、モデルで、人見知りで、少しずつアリスと仲良くなっていた。ただそれだけのはずなのに、今は四宮ハジメという男の視線の端にいるかもしれない。
「神木さんが保護対象にするって言ってた」
俺が言うと、アリスは少しだけ頷いた。
「うん。それは安心。……でも、あの子、知らない大人に囲まれるの苦手そう」
「佐野さんが初手でやらかしたしな」
「それはほんとにそう」
アリスが小さく笑う。
その笑いが少しでも出るうちは、まだ大丈夫だと思いたい。
※ ※ ※
放課後、俺たちは約束通りまっすぐ帰った。
最近は、家へ着くまでの時間が前より長く感じる。実際には、迂回している日もあるから少しだけ長いのかもしれない。でも、体感だけの問題じゃない。警戒して歩くと、時間は伸びる。
太刀川家の前まで来て、アリスがふと立ち止まった。
「ねえ、隆太郎」
「ん?」
「今日、久しぶりにちょっとだけ普通だった」
「最近それよく言うな」
「だって、大事なんだもん」
アリスは鞄の内側に触れた。栗のキーホルダーの位置を確かめるみたいに。
「怖い時ほど、普通をちゃんと数えたい」
その感覚は、たぶん正しい。
全部が危険に塗り潰されると、人はどこに立っているか分からなくなる。だから、“普通だった時間”を数えることは、今の俺たちにとって足場なんだろう。
「今日の普通は?」
俺が聞くと、アリスは少し考えてから答えた。
「昼休みに卵焼き一個もらったこと」
「細かいな」
「細かいのが大事なの」
そう言って笑う顔が、ちゃんといつものアリスだった。
その顔を見て、俺はほんの少しだけ救われる。
※ ※ ※
夜。
佐野からのメッセージが来たのは、ちょうど俺が自室でノートを広げていた時だった。
『十分に集まった』
『明日、警察に正式に証拠を届ける』
その一文を読んだ瞬間、背中に冷たいものが走った。
来た、と思った。
ここから先は、もう引き返せない。
俺はすぐに返した。
『分かりました』
そのあと、少し迷ってから追加で打つ。
『アリスには俺から伝えます』
既読がつき、佐野から短く返ってくる。
『お願い』
『明日から、もっと気をつけて』
それを見た瞬間、胸の奥が重く沈んだ。
証拠が揃う。
警察が動く。
それは良いことだ。
でも同時に、四宮ハジメにとっては“追い詰められる”ことを意味する。
追い詰められた四宮が、何をするか。
その答えは、誰も口にしなくても分かっていた。
俺はアリスへメッセージを送った。
『佐野さんから』
『証拠、明日警察に正式に渡すって』
少し間があって、返信が来る。
『そっか』
短い。
さらに続けて、もう一通。
『じゃあ、ほんとにもう後戻りできないね』
その文面に、俺はしばらく返事が打てなかった。
後戻りできない。
まったくその通りだ。
だから結局、短く返すしかなかった。
『うん』
『でも、そのためにここまで来たんだろ』
既読がつく。
少しして返ってきたのは、言葉じゃなくて、ぎゅっと口を結んで頷いているようなスタンプだった。
それを見て、俺はスマホを伏せた。
明日、警察は動く。
神木が言っていた通り、本格的に。
そして、その一歩が、四宮ハジメとの戦いを次の段階へ押し出す。
静かな夜だった。
でも、その静けさの下で、何かが確実に始まろうとしていた。
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