決着の準備へ
警察が本格的に動き出すと、日常は静かに形を変える。
大きな音を立てて何かが変わるわけじゃない。朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、放課後に帰る。その流れ自体は今までと同じだ。けれど、その流れの中に“確認”が増える。誰といるか。どこへ行くか。何時に帰るか。知らない番号からの着信はないか。見慣れない人間が近くにいないか。
変化は、そういう細いところから始まる。
翌日の夕方、太刀川家のリビングには、張り詰めた静けさがあった。
ソファには健一さんと恵さん。対面の椅子に俺とアリス。机の上には湯気の立つお茶が置いてあるのに、誰もほとんど手をつけていない。玄関のチャイムが鳴ったのは、その空気がちょうど固まりきった頃だった。
健一さんが立ち上がり、少しして二人を連れて戻ってくる。
一人はもう見慣れた、気だるそうな顔の佐野雪芽。
もう一人は、昨日名前を聞いたばかりの刑事――神木新田だった。
神木は家に上がると、無駄な愛想を振りまかず、かといって高圧的でもないちょうど中間みたいな会釈をした。
「神木新田です。警察の者です」
低く、通る声だった。
私服なのに、立ち方だけで警察だと分かる。部屋に入った瞬間から、視界と人の位置を把握している感じがある。
「率直にお話しします」
席につくなり、神木はそう言った。
「四宮ハジメに関して、こちらも本格的に捜査を始めます」
その一言だけで、リビングの空気が少し変わる。
佐野がいくら動いていても、どこかでは“個人の追跡”の匂いが残っていた。そこへ警察が“捜査”という言葉を持ち込むと、事件は急に現実になる。
「同時に」
神木の視線が、アリスへ向いた。次に、俺へ。最後に、健一さんと恵さんへ戻る。
「白金アリスさん、天音アイラさん、この二人を保護対象として扱います」
保護対象。
昨日、佐野から聞いていた言葉なのに、警察の口から改めて出ると重さが違った。
アリスの背筋が少しだけ伸びる。
怖がって縮こまるんじゃない。受け止める時の伸び方だ。
「具体的には」
神木が続ける。
「当面の間、単独行動を極力避けていただきたい。帰宅時のルートは固定しない。学校や関係先にも最低限の共有をこちらで進めます。必要なら巡回も増やします」
「必要なら、じゃなくて増やしてよ」
アリスが思わず口を挟んだ。
その言い方は半分本音で、半分やけっぱちだった。
神木は表情を変えずに頷く。
「増やします」
即答だった。
冗談で流さない。その感じに、俺は少しだけ安心する。
恵さんが、静かに聞いた。
「朝日だけじゃなくて、アイラさんもなんですね」
「はい」
神木は短く答える。
「四宮ハジメは、天音アイラさんの撮影現場に実際に接触しています。これは重要です。白金さんへ繋がる接点として、彼女を“入口”にしようとしていた可能性が高い」
その言葉に、アリスの顔が少し曇る。
やっぱり気にしているんだろう。アイラを巻き込んでしまったかもしれないことを。
佐野が、その空気を読んだみたいに口を開いた。
「巻き込んだのは四宮だよ」
淡い声だったが、はっきりした音だった。
「そこは履き違えないで」
アリスは小さく息を吐いて、頷いた。
分かっていても、言葉にしてもらわないと揺らぐ部分だ。
神木はそこで、持ってきた資料を机の上に置いた。写真や地図そのものではなく、家庭向けに整理した概要だけの紙だ。行動の注意点、緊急時の連絡、共有すべき事項。警察らしく実務的にまとまっている。
「こちらにも協力をお願いします」
健一さんが、その紙を見ながら低く言った。
「四宮は、今どの段階にいる?」
神木は一拍だけ置いた。
「追い詰められている自覚は持ち始めていると思います」
その答えは、嬉しいものではなかった。
「だからこそ危険です。証拠が積み上がる前に動く可能性もある」
俺は奥歯を軽く噛みしめる。
ここ数日、ずっと聞かされている話だ。なのに、何度聞いても慣れない。慣れていい話でもない。
「こちらでも証拠を詰めています」
神木が続ける。
「佐野さんの情報、自首犯への金の流れ、撮影現場への出入り、倉庫街の接触。この複数の線を一つずつ固めていきます」
佐野は、横でコーヒーに口をつけながら淡く言った。
「四宮って、人間の輪郭が薄いんだよね」
全員の視線が集まる。
「表向きの職歴はある。身元もある。けど、“生活してる匂い”が薄い。友達も、恋人も、家族も、全部が遠い。代わりに“感じのいい人”の顔だけはちゃんと作ってる」
「演技してるってことか」
俺が聞くと、佐野は少しだけ首を傾げた。
「演技というより、それしかないのかもね」
ぞっとする言い方だった。
普通を装っているのではなく、普通の皮しか持っていない人間。
中身が空洞だからこそ、外側だけが不自然に整っている。
神木がそこで言葉を継ぐ。
「四宮の周辺を固めるのと並行して、こちらで天音アイラさんにも接触します」
アリスがすぐ顔を上げる。
「……優しくしてください」
真っ先にそこを言うのが、アリスらしかった。
事件のことより、アイラが知らない大人に囲まれることの方を先に心配する。
神木は一瞬だけ目を細め、静かに頷いた。
「配慮します」
「ほんとに?」
「本当に」
そのやり取りを見て、佐野が小さく息を吐く。
「私は逃げられたけどね」
「佐野さんは距離の詰め方が雑なんだよ」
俺が言うと、佐野は不満そうな顔をした。
「結果的に話せたからいいじゃない」
「それ途中まで完全に不審者だった感じだろ」
「それは認める」
認めるのかよ。そう思うのに、その一言で少しだけ空気が緩んだ。
こういうどうでもいい会話が混ざると、全員が張り詰めすぎずに済む。
話は一時間近く続いた。
学校への連絡はどうするか。
アイラの事務所への共有は警察経由でやること。
アリスの帰宅ルートは数日ごとに微妙に変えること。
太刀川家の周辺も、必要なら巡回区域に入れること。
決めることが多い。多いが、こうして一つずつ現実的に決めていくと、不安が少しだけ“やるべきこと”に変わる。
最後に神木が立ち上がる時、アリスへ真っ直ぐ言った。
「白金さん」
「……はい」
「無理に強がらなくていいです。ただし、違和感は小さくても必ず共有してください」
その言い方は、ただの警告じゃなかった。
“あなたの感覚を軽く見るな”という意味も含まれていた。
アリスは小さく頷いた。
「分かりました」
神木と佐野が帰る頃には、外の空気はすっかり冷えていた。
玄関まで見送ったあと、リビングへ戻ると、全員が少しだけ疲れた顔になっていた。話している間は気が張っていたんだろう。
恵さんがお茶を淹れ直しながら、ぽつりと言う。
「やっと、ちゃんと動き始めたのね」
「うん」
健一さんが短く答える。
「だが、ここからだ」
その言葉は重かった。でも、たぶん一番正しい。
※ ※ ※
翌日から、また少し生活が変わった。
校門の近くには、時々見覚えのない大人が立っているようになった。制服じゃない。けれど、立ち方が普通の通行人じゃない。たぶん神木の言っていた巡回だろう。
アイラの方にも、事務所経由で警察から連絡が入ったらしい。
アリスは昼休みにそのことをアイラからメッセージで短く聞いて、少しだけ心配そうにしていたが、『でも、ちゃんと話してくれる人だった』と知って少しだけ安心していた。
そして佐野は、退院したばかりだというのに相変わらず止まらなかった。
自首犯への金の中継口座。
四宮が出入りした撮影現場の記録。
過去の被害者と四宮の生活圏の重なり。
倉庫街で使われたレンタカーの履歴。
そういうものを神木と共有しながら、少しずつ“偶然”を潰していく。
週の後半になる頃には、もう誰の目にもはっきりしていた。
事件は動いている。
しかも、かなり本気で。
放課後、アリスと並んで帰る道で、俺はふと空を見上げた。
夕焼けの色が薄い。秋の終わりの夕方は、綺麗なのに少し寂しい。
「隆太郎」
「ん?」
「最近、前より怖いのに、前より逃げたくない」
アリスがそう言った。
俺はその横顔を見る。
怖さに慣れたわけじゃない。むしろ、名前がついて、輪郭がはっきりしたぶん、前より怖いだろう。
それでも逃げたくない。
たぶん、それは戦う準備が少しずつ整ってきたからだ。
「俺も」
そう答えると、アリスは少しだけ目を細めた。
「そっか」
その返事だけで十分だった。
警察が動き、佐野が追い、神木が加わり、家族も知った。
四宮ハジメは、もう“遠い誰か”ではいられなくなっている。
そして、その先に来るものが“決着”だということを、俺たちはもう何となく感じ始めていた。
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