警察が動く時
その夜から、空気の質が変わった。
それまでの警戒は、どこか“何かが起きるかもしれない”を前提にしたものだった。四宮ハジメという名前が出てからは違う。“何か”はもう起きていて、その中心にいる人間の輪郭まで見えている。だから、同じ不安でも重さが変わる。
見えない闇を怖がるのと、名前のついた闇を怖がるのは、まったく別の話だ。
ファミレスを出たあと、俺とアリスは人通りの多い道を選んで帰った。店の灯りが並ぶ通り。コンビニ、ドラッグストア、遅くまでやっている定食屋。人の気配がある方が、今は少しだけましだった。
アリスは珍しく、帰り道のほとんどを黙っていた。
黙っているというより、考えている顔だった。四宮ハジメの名前。アイラが撮影現場で実際に会っていたこと。佐野が言った“束の間の平和は終わりに近いかもしれない”という言葉。その全部を、自分の中で何とか並べ直そうとしている顔。
俺も似たようなものだった。
ただ、俺の場合はそこにもう一つ加わる。
――どう動くか。
怖いとか、嫌だとか、そういう感情の上に、次に何をすべきかを積まないといけない。
太刀川家の前に着いた時、アリスがようやく口を開いた。
「……ねえ、隆太郎」
「ん?」
「アイラさんにも、ちゃんと伝えた方がいいよね」
その声は、少し掠れていた。でも、逃げている声じゃない。
「うん」
俺は短く答える。
「佐野さんもそう言ってたし、俺もそう思う」
「そっか」
アリスは自分の鞄の内側を指で探り、栗のキーホルダーに触れた。あれは今や、ただの可愛い雑貨じゃない。GPSの入った、小さな現実的なお守りだ。
「……なんか、私の周りの人ばっかり巻き込まれてく感じがして、やだな」
その一言は、たぶんずっと胸の中にあった本音だろう。
佐野は刺された。
アイラは四宮に接触された。
俺ももう完全に無関係じゃない。
家族だって、全員巻き込まれている。
アリスのせいじゃない。そんなことは分かっている。分かっていても、自分を中心に波紋が広がっているように見えると、人はどうしたって自責に引っ張られる。
「アリス」
俺は少しだけ声を落とした。
「それは違う」
アリスが顔を上げる。
「四宮が勝手に他人を巻き込んでるだけだ。お前のせいじゃない」
言い切る。
ここを曖昧にすると、アリスはすぐに自分を責める。
「……うん」
小さな返事だった。でも、否定はしなかった。
完全に飲み込めたわけじゃないだろう。それでも、今はそれでいい。
「今日は早く寝ろ」
「隆太郎も」
「分かってる」
嘘だな、と自分で思う。たぶん今夜はあまり眠れない。でも、アリスの前でそこまで正直になる必要はない。
アリスは玄関に入る前に一度だけ振り返った。
「明日も迎えに来てね」
「当たり前だろ」
その言葉に、アリスはほんの少しだけ笑って家に入っていった。
※ ※ ※
その夜、佐野雪芽は自宅のソファに深く沈み込みながら、心底うんざりしていた。
退院したばかりの身体は、正直に言えばまだ本調子じゃない。脇腹の傷は浅いとはいえ、動けば鈍く疼くし、肩口の違和感も消えていない。医者には「しばらく安静」と言われた。看護師にはもっと露骨に嫌な顔をされた。
けれど、安静にしていたところで、頭の中まで静かになるわけじゃない。
むしろ家に戻ったぶん、余計に仕事のことを考える時間が増えた。
資料は広げられる。
スマホも自由に触れる。
コーヒーも飲める。
そして何より、“病人扱いされる壁”がなくなる。
それは、今の佐野にとって救いでもあり、厄介でもあった。
「……やっぱり退院って、自由だね」
誰に言うでもなく呟いて、ローテーブルの上に散らばった紙へ視線を落とす。
四宮ハジメ。
自首犯へ流れた金。
倉庫街の接触。
撮影現場への出入り。
そして、アイラから聞き出した“四宮ハジメ”の名札と、不敵な笑み。
線は、もう十分すぎるほど寄ってきていた。
だが、寄ってきた線と、警察が動ける線は別だ。
そこを繋げるための最後の整理が必要だった。
佐野はソファから少しだけ身を起こし、ノートのページをめくる。
倉庫街周辺の地図。
夜間に使われた搬入路。
四宮の仮名義での出入りの痕跡。
自首犯の口座に流れた金の、中継地点。
そして、撮影現場への臨時参加記録。
「……ここまで来て逃がしたら、趣味が悪いどころじゃない」
四宮ハジメは慎重だ。
だからこそ、追い詰められた時の危険度が高い。
佐野を消しに来た時点で、それはもうはっきりしていた。
普通の人間を装ったまま、必要なら迷わず刃物を出す。
しかも一本じゃない。
用意周到で、逃げる判断も速い。
そういう相手に対して、もう“違和感がある”だけでは足りない。
警察が本気で動くための材料が必要だった。
スマホが震える。
健一からだった。
『今日、動けるか』
短い。相変わらず無駄がない。
佐野はすぐ返した。
『動ける』
『ただし走るのは勘弁してほしい』
送ってから、ふっと小さく笑う。冗談半分、本音半分だ。傷が疼いている以上、まったくの冗談でもない。
数秒後、返事。
『了解』
『警察側の人間を一人つける』
警察側の人間。
その言い方で、佐野は小さく眉を上げた。
やっと本格的に来るか、と思う。
※ ※ ※
翌日の昼過ぎ。
佐野はコートを羽織り、いつものように気だるそうな顔のまま外へ出た。
だが、歩き方は前より少しだけ慎重だった。脇腹を庇っているのが自分でも分かる。退院したからといって、無傷に戻ったわけじゃない。
待ち合わせ場所は、駅前から少し離れた喫茶店だった。
警察と話すなら、静かすぎず、人の目もある場所がいい。そういう意味では、昼の喫茶店はちょうどいい。
店に入ると、すでに奥の席に男が座っていた。
三十代後半くらい。
短く整えた髪。
黒のジャケットに、落ち着いたシャツ。
私服なのに、座っているだけで分かる。職業が身体に染みついている人間の空気だ。
男は佐野に気づくと、軽く会釈した。
「佐野雪芽さん」
「そうだけど」
佐野が椅子を引くと、男は静かに名乗った。
「神木新田です」
一拍置いてから。
「刑事です」
想像通りだった。
健一が言っていた“警察側の人間”は、この男らしい。
「初対面の女にいきなり刑事って言うの、だいぶ雑だね」
佐野が言うと、神木は表情を変えずに返した。
「探偵に遠回しな挨拶は不要だと思いました」
「まあ、それはそう」
嫌いじゃない返し方だった。
少なくとも、余計な同情や探りを入れず、いきなり本題へ入れる人間の方が話は早い。
店員が水を置いていく。注文だけ済ませると、神木はすぐに話を切り出した。
「四宮ハジメについて、持っているものを見せてください」
その一言に、佐野はノートとクリアファイルをテーブルの上に広げた。
「まず、太刀川朝日の件と連続事件、自首犯の線は切れてない」
「根拠は」
「金」
佐野は即答した。
「自首犯に流れた金の中継が不自然。さらに、その中継地点と倉庫街の夜間接触の履歴が重なる」
神木は黙って資料を追う。視線の動きが速い。ただの読み飛ばしじゃない。必要な箇所だけを正確に掴む読み方だ。
「この倉庫街で、あなたは襲われた」
「そう」
「相手は?」
「四宮ハジメ本人の可能性が高い」
「可能性、か」
「断定できる証拠はまだない。でも、整った顔、普通の雰囲気、二本目のナイフ、逃げ足の速さ。……何より、私がそこへ辿り着いたタイミングで消しに来た」
神木は一枚のメモを指先で押さえた。
「撮影現場への出入り」
「そこが新しい材料」
佐野は続ける。
「天音アイラが実際に会ってる。撮影現場にカメラマンとして入り込んで、本人に接触した。友達の話を探るような質問もしてる」
「証言の精度は?」
「高い。名札の名前も見てる。……四宮ハジメ」
神木の目が、そこでわずかに鋭くなった。
佐野はそこで、昨日アイラから聞いた話を細かく伝えた。
撮影中の会話。
休憩中の接触。
“最近できた友達”についての探り。
そして、最後の笑み。
「主観が入る部分もある」
佐野は自分から言った。
「でも、人間の違和感は軽視しない方がいい。とくに、普段から人との距離に敏感な子の違和感は」
神木はその言葉を否定しなかった。
黙って、ただノートの上の情報を再構築している。
やがて、彼は短く息を吐いた。
「……十分です」
その一言に、佐野はわずかに眉を上げる。
もっと渋るかと思っていた。
「警察が本格的に動くには、これで足りる?」
「逮捕状の精度としては、まだ補強は欲しい」
神木は冷静に言う。
「だが、監視と保護対象の指定には足ります。四宮ハジメは、現時点で極めて危険度が高い」
その言い切り方に、佐野は少しだけ肩の力を抜いた。
やっとそこまで来た。
遅いと責める気はない。警察には警察の手順がある。証拠の重さ、誤認の危険、上への説明。そういうものが絡む組織だ。だが、それでも“危険度が高い”と警察の口から出た意味は大きい。
「今後の方針は?」
佐野が聞くと、神木は迷わず答えた。
「四宮ハジメに対して、証拠をさらに積みます。同時に、白金アリスと天音アイラを保護対象にします」
その一言が、はっきりとした現実になって落ちてくる。
「両方?」
「ええ」
神木は頷いた。
「白金アリスは明確に標的と見ていい。天音アイラは、そこへ繋がる接点として既に接触されている。無関係とは言えません」
当然の判断だった。だが、警察の口から明言されると重みが違う。
「健一さんたちには、こちらから直接説明します」
神木はそう言ってから、少しだけ声を低くした。
「ただし、四宮ハジメは追い詰めた瞬間に動く可能性が高い。あなたを襲ったのが、その証明です」
「だろうね」
「だから、動くなら一気に動く」
神木の声は冷静だった。冷静なのに、そこには現場の熱がある。机上の刑事ではなく、危険な相手を実際に見てきた人間の声だ。
「私も動く?」
佐野が半分冗談みたいに聞くと、神木は表情を変えずに言った。
「本音を言えば、安静にしていてほしい」
「本音じゃない方は?」
「必要なら協力してください。ただし、無茶はしないでください」
「探偵に向いてない条件だね」
「だから怪我をしているんでしょう」
その返しに、佐野は少しだけ笑った。
神木新田は、どうやら“ちゃんと警察”だった。
※ ※ ※
喫茶店を出たあと、佐野は駅前の風に少しだけ目を細めた。
秋の終わりの風は、乾いていて冷たい。喫茶店の中より外の方が頭は冴える。だが同時に、身体は露骨に疲れを訴えてきた。やはり病み上がりで長時間はきつい。脇腹も少し疼く。
「……ほんと、退院したてのやることじゃない」
小さく呟く。
だが、今日は収穫が大きかった。
四宮ハジメを、ようやく“ただの怪しい男”から“警察が本格的に動く対象”へ押し上げた。
それは、佐野にとっても大きな前進だった。
スマホを取り出して、短く打つ。
宛先は、健一。
『警察が本格的に動く』
『神木さんいい人だね』
次に、隆太郎にも送る。
『警察が動く』
『白金さんとアイラ、両方保護対象になると思って』
送信してから、しばらく画面を見つめる。
これで、少なくとも自分一人で追う段階ではなくなった。
四宮ハジメとの戦いは、もう“探偵の執念”だけで進む領域を越え始めている。
そして、その代わりに――たぶん次は、もっと激しく動く。
佐野は駅前の雑踏の中に立ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
「さあ、ここからだ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、歩き出す。
四宮ハジメを捕まえるための時間が、ようやく本当に動き始めた。
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