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犯人のしっぽ

 その日の夜、宮本家のリビングには久しぶりに穏やかな空気が流れていた。


 事件のことを考えれば、穏やかなんて言葉は場違いかもしれない。四宮ハジメの名前が出て、警戒は前より濃くなっている。「「」」それでも、目の前にある時間だけ切り取れば、たしかに穏やかだった。


 母さんが作ったシチューの匂いが、部屋の中にゆっくり広がっている。

 窓の外はすっかり暗い。

 テレビはつけていない。

 食卓を囲むのは、俺と母さんとアリスの三人。


 少し前まで当たり前だったこの光景が、今は妙に貴重に感じられた。


「おいしい……」


 アリスが、スプーンを持ったまま素直に言った。


「ほんとに、百合子さんのシチュー好き」


「ありがとう。朝日ちゃん、昔からシチュー好きだったものね」


 母さんがそう返すと、アリスは少しだけ照れたように笑う。


 こういう時だけ、時間が少し戻ったみたいに感じる。

 朝日だった頃から変わらない好物。

 変わった顔。

 変わらない笑い方。

 変わってしまった世界の中で、変わらないものが少しだけ残っている。


 その感じが、俺には救いだった。


「隆太郎、なんで無言なの」


 アリスが俺を見る。


「食ってるからだろ」


「さっきから二口ごとに私見てる」


「見てない」


「見てる」


 即答された。母さんまで少しだけ笑っている。否定したいのに、たぶん事実だから否定しきれない。今日は一段と、こういう何でもない時間を目に焼きつけるみたいに過ごしている自覚があった。


 アリスはシチューをもう一口食べてから、小さく肩を揺らした。


「でも、なんかいいね」


「何が」


「普通」


 その一言が、食卓の真ん中に静かに落ちた。


 普通。

 アリスは最近その言葉をよく使う。

 取り戻したいものとして。

 守りたいものとして。

 時には、もう戻らないものを惜しむみたいにも。


「こうやってご飯食べてるだけなのに、なんか落ち着く」


 アリスが言う。


「太刀川家も落ち着くよ? ちゃんと。でも、こっちはまた別の落ち着き方する」


 母さんが、その言葉を静かに受け取るみたいに頷いた。


「帰る場所が複数あるのは、悪いことじゃないわ」


「うん」


 アリスが素直に頷く。


「私、今それにすごく助けられてる気がする」


 その言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。

 助けられている。そう言えるなら、少なくとも今夜ここに来た意味はあったんだと思う。


 夕飯が終わって、母さんが片付けを始めると、アリスは当然みたいに立ち上がった。


「手伝います」


「今日はお客さんなんだからいいのに」


「でも、ここだとお客さんって感じしない」


 そう言ってエプロンまでつけようとするから、母さんが苦笑しながら「じゃあお皿だけお願い」と役目を渡した。アリスはそれで満足そうに皿を運ぶ。こういうところが妙に生活感に馴染む。


 リビングに一人残された俺は、テーブルの上のコップを少しずらしながら、その光景をぼんやり見ていた。


 守りたいと思う。


 命もそうだ。

 でも、今の俺が守りたいのは、それだけじゃない。

 こうして台所に立つアリスの後ろ姿とか、母さんと当たり前みたいに会話をしている時間とか、そういう細かいもの全部だ。


 その時、スマホが震えた。


 画面を見る。

 佐野雪芽からだった。


『四宮ハジメのしっぽを掴んだ』


 短い一文。

 でも、その一文だけで空気が変わるには十分だった。


 心臓が、どくっと大きく鳴る。


 しっぽを掴んだ。

 つまり、今まで輪郭だけだったものが、ようやく手の届くところまで来たということだ。


 俺はすぐに立ち上がりかけて、でもそこで止まった。

 台所ではアリスが母さんと笑っている。

 ほんの数秒前まで、ここはただの穏やかな夜だった。


 それを壊したくない、と思った。

 でも、壊れる前に動かなければならないとも分かっていた。


 結局、俺はスマホを握ったまま、台所の方へ歩いた。


「アリス」


 俺が呼ぶと、アリスが皿を持ったまま振り向く。


「ん?」


 その笑顔を見ると、一瞬だけ言葉が詰まる。

 でも、言わないわけにはいかない。


「佐野さんから」


 それだけで、アリスの表情が少しだけ変わった。

 楽しさが消えるんじゃない。ちゃんと切り替わる。そういう変わり方だった。


「……何て?」


 俺は画面を見せた。


 アリスがメッセージを読み、息を小さく呑む。


「しっぽを……」


「掴んだ、って」


 母さんも、手を止めてこちらを見た。何が起きたかは分からなくても、空気の変化だけで十分伝わる。


「行くの?」


 母さんが静かに聞く。


 俺は少しだけ迷って、すぐに決めた。


「たぶん、話を聞きに」


「私も行く」


 アリスが、ほとんど間を置かずに言った。


 俺はアリスを見る。アリスの顔は真っ直ぐだった。怖がっていないわけじゃない。でも、そこから逃げる顔ではない。


「……分かった」


 そう言うと、母さんは小さく息を吐いて頷いた。


「なら、気をつけて。帰る時間は連絡して」


「うん」


 アリスが返事をする。

 その返事の仕方が、少し前より大人びて聞こえた。守られるだけじゃなく、自分も状況の一部として動こうとしている声だった。


 コートを羽織り、玄関へ向かう。

 アリスは鞄の内側につけた栗のキーホルダーを一度だけ指で確かめた。中にGPSが入っている。小さなお守りみたいな形をした、現実的な命綱。


「行こう」


 アリスが言う。


「ああ」


 夜の外気は、さっきより少し冷たく感じた。


 ※ ※ ※


 佐野と待ち合わせたのは、駅から少し離れたファミレスだった。


 病み上がりであまり動けないから近場で、でも話し声が紛れる程度には人がいる場所がいい。そういう理由なんだろう。たしかにこういう時、静かすぎる場所よりは、生活音のある場所の方が話しやすい。


 店内に入ると、奥の席に佐野がいた。


 私服。黒っぽいコート。顔色はまだ万全じゃない。だが、目だけははっきり起きていた。テーブルの上にはドリンクバーのコーヒーと、開いたノート。病み上がりの人間の過ごし方じゃない。


「来た」


 佐野が短く言う。


「来た」


 俺が返し、アリスも軽く頭を下げる。


 席に着くと、佐野は前置きをほとんど入れずに言った。


「天音アイラが当たりだった」


 その一言で、空気が一気に研ぎ澄まされる。


「どういう意味ですか」


 俺が聞くと、佐野はノートのページを一枚めくった。


「今日、偶然アイラに会った。撮影帰り。で、話を聞いた」


 偶然、という言い方をしたが、この人の偶然は半分くらい執念でできている気がする。


「四宮ハジメは、撮影の現場に入ってた」


 アリスが息を呑むのが分かった。


「アイラに接触して、雑談の流れで“友達”の話を聞き出そうとした」


「……私のことを?」


 アリスが小さく聞く。


「どうだろうね」


 佐野は頷いた。


「直接名前を出させたわけじゃないらしい。でも、“最近できた明るい友達”の存在までは掴んだ可能性が高い」


 俺の喉の奥が冷たくなる。

 四宮が、アイラを入口にしてアリスへ近づこうとしている。

 ただの推測じゃない。行動として、もうそこまで来ている。


「で、その時のカメラマンの名札に、四宮ハジメって書いてあった」


 佐野が言い切る。


「これは大きい。少なくとも、四宮がアイラの前に実在した証拠になる」


 証拠。

 その言葉で、少しだけ現実味が増す。

 今までは佐野の推理や状況証拠だったものが、アイラという第三者の目撃で補強される。


「まだ逮捕までは届かない」


 佐野は淡く続ける。


「でも、四宮の動きが“白金アリスへ向いている”ことの裏づけにはなる」


 アリスは黙って聞いていた。

 目は逸らさない。けれど、膝の上で握った手は少しだけ強くなっている。


「……じゃあ、四宮は今」


 俺が言いかけると、佐野が先に答えた。


「焦ってる」


 短い断定。


「私に近づかれて、アイラにまで触れた。ここで止まるタイプなら、とっくにやめてる。……でも四宮はたぶん、そういう人間じゃない」


 佐野の声が少し低くなる。


「追い詰められたら、むしろ予定を早める可能性がある」


 その言葉で、アリスの肩が目に見えて固くなった。


 俺はテーブルの下で、拳を握った。

 分かっていたことだ。分かっていた。でも、はっきり言葉にされるとやっぱり重い。


「今夜から、さらに一段警戒を上げる」


 佐野が言う。


「健一さんにも連絡する。警察に渡す材料も整理する。……もう次は、“怪しい”だけで終わらせない」


 その目には、静かな怒りがあった。

 倉庫街で殺しかけられたことも、朝日の件も、全部まとめて燃えている目だ。


 アリスが、小さく言った。


「……佐野さん」


「ん?」


「アイラさん、大丈夫かな」


 その質問に、佐野は少しだけ目を細めた。


「今のところは、まだ四宮の視線の先にいるだけだと思う。でも、白金さんに近い人間として認識された以上、無関係とも言えない」


 そこで一度区切ってから、はっきりと言う。


「だから、アイラにも近いうちに警告は必要」


 アリスはゆっくり頷いた。

 自分だけじゃない。アイラも巻き込まれ始めている。

 それが分かるからこそ、顔つきが少しだけ変わる。


 佐野は最後に、コーヒーを一口飲んでから言った。


「束の間の平和は、もう終わりに近いかもしれない」


 その一言が、やけに重かった。


 ファミレスの中では、別の席の家族が普通に食事をしていて、ドリンクバーの機械はいつも通りの音を立てている。その普通の中で、俺たちだけが別の夜に座っているみたいだった。


 話が終わって店を出る時、スマホが震えた。

 佐野からの追加の短文。


『四宮ハジメのしっぽを掴んだ』


 さっきのメッセージを、改めて確認するみたいに。


 俺は画面を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。


 本当に、もう戻れないところまで来ている。

 そうはっきり思った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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