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秋の王様

 翌日の午後、宮本家のリビングには、久しぶりに少しだけ懐かしい空気が流れていた。


 別に何か特別なことをしているわけじゃない。ただ、アリスがソファの端じゃなくて自然に真ん中に座っていて、テーブルの上には母さんが淹れた紅茶があって、窓の外から西日の薄い色が差し込んでいる。それだけだ。


 それだけなのに、アリスは朝から妙に機嫌が良かった。


 学校が終わってから真っ直ぐうちに来て、玄関で靴を脱いだ瞬間から「落ち着く……」と大げさなくらい息を吐いていたくらいだ。母さんも苦笑しながら「そんなに違う?」と聞いていたが、アリスは真顔で「違います」と答えていた。


 太刀川家が嫌なわけじゃない。むしろ今のアリスにとって、あそこは大事な家だ。健一さんも恵さんも、必要以上に干渉しないように気をつけながら、それでもちゃんと目を配ってくれている。


 ただ、それとは別に、宮本家には宮本家の空気がある。


 俺にとっては生まれてからずっとそこにあるだけの当たり前の空気だ。けれどアリスにとっては、朝日の頃から積み重なってきた“いつもの先”みたいな場所なんだろう。


「なんかさ」


 ソファに座ったまま、アリスがクッションを抱えて言う。


「ここにいると、ちゃんと“帰ってきた”感じがする」


「何回も聞いた」


「何回でも言う」


 アリスはそう言って、少しだけ頬を緩めた。

 その顔を見ると、今日ここへ来ることを認めてもらってよかったと思う。


 もちろん、安全面の不安が消えたわけじゃない。


 健一さんたちと約束した通り、今日は“遊びに来ているだけ”だ。移り住むわけじゃない。帰る時間も決めているし、夜には太刀川家へ戻る。その線引きはちゃんとしている。


 それでも、こうして一時的にでも息をつける場所があるのは大事だと思った。


 アリスは紅茶を一口飲んでから、ふいに辺りを見回した。


「ねえ、隆太郎」


「ん?」


「私の席、まだある?」


「席?」


「前みたいに、なんとなく私が座る場所」


 言われて、少しだけ笑ってしまった。


「今お前が座ってるそこだろ」


「あ、ほんとだ」


 アリスが真顔で言ってから、自分で吹き出す。

 そういうどうでもいい会話ができるだけで、部屋の空気が少し軽くなる。


 母さんがキッチンから顔を出した。


「夕飯までまだ時間あるし、二人とも何か食べる?」


「おやつ!」


 アリスが即答する。反応が早すぎる。


「さっき肉まん食べたばっかだろ」


「肉まんは別腹」


「どういう理屈だよ」


「肉まんは秋から冬への橋渡しなの」


 意味が分からない。だが、母さんは面白そうに笑って「じゃあ軽いのね」と言って戸棚を開けた。少しして、皿にクッキーを載せて持ってくる。アリスはそれを見て素直に嬉しそうな顔をした。


 こういう時間を、守りたいと思う。


 何度目か分からないが、最近はその思いが少しずつ具体的になっていた。前は“アリスを守りたい”という感情だけだった。それが今は、“こういう時間を守りたい”“こういう表情を残したい”へ変わってきている。


 守るというのは、誰かの命だけじゃなく、その人の日常ごと抱えることなんだと、最近やっと分かり始めた。


 アリスがクッキーを食べ終わった頃、俺は自室へ上がって机の引き出しを開けた。


 中に、小さなキーホルダーがある。


 栗の形をした、茶色いフェルトの小物。アリスが以前、商店街の雑貨屋で「可愛い」と言っていたやつを、文化祭の準備の頃にもう一つ買っておいた。その中身を少しだけ改造して、佐野から渡されていたGPSの発信機を入れた。


 何も知らなければ、ただの小さなお守りにしか見えない。

 でも、今の俺たちには、その“ただのお守り”くらいがちょうどいいのかもしれない。


 俺はそれを手に取って、リビングへ戻った。


「アリス」


「ん?」


 ソファでクッションを抱えていたアリスが顔を上げる。俺はその前に立って、手の中のキーホルダーを差し出した。


「これ、持っとけ」


 アリスが目を瞬かせる。


「……栗?」


「栗」


「可愛い」


「そこかよ」


 いや、そこも大事なんだけど。俺は軽く息を吐いて、できるだけ何でもないことみたいに説明する。


「佐野さんから預かってたGPS、あっただろ」


 その言葉で、アリスの表情が少しだけ引き締まる。

 最近は“佐野”とか“GPS”とか、そういう単語に自然に反応するようになった。嫌な慣れ方だと思う。


「あれを入れた」


 俺がそう言うと、アリスはもう一度キーホルダーを見た。

 栗の形の中に、小さな発信機。

 見た目は可愛いのに、役割は重い。


「……そっか」


 アリスは両手でそれを受け取った。


「お守り、みたい」


「そうだな」


「GPS入りの?」


「現実的なお守りだろ」


 そう言うと、アリスが少しだけ笑った。

 そして、その栗のキーホルダーを掌の上でそっと転がしながら、優しく言った。


「大切にするね」


 その笑い方が柔らかくて、胸の奥が少し熱くなる。


 ただの機械じゃない。

 ただの対策でもない。

 ちゃんと“想いを込めて渡したもの”として受け取ってくれたのが分かる笑い方だった。


 アリスはその場で、自分の鞄の内側の金具に栗のキーホルダーをつけた。表からは見えにくい場所。落としにくくて、でも必要な時にはすぐ見つけられる位置。


「これで、栗がお守りに昇格した」


「よく分からん分類だな」


「秋の王様から守護神へ」


「栗、忙しいな」


 アリスがくすっと笑う。

 その笑いを見て、少しだけ気持ちが落ち着く。重くなりすぎないように、わざとどうでもいい言い方をする。そういうやり取りが、今の俺たちには必要だった。


 ※ ※ ※


 同じ頃。


 佐野雪芽は、退院したばかりの身体で街を歩いていた。


「退院当日に歩かさないでくれ……」


 誰に言うでもなく小さく呟く。

 脇腹の傷はまだ鈍く痛むし、肩口の違和感も残っている。医者には“無理をしないで”と念押しされたばかりだ。だが、病院のベッドの上でじっとしているより、外の空気を吸った方が頭は回る。


 それに、今日はどうしても動いておきたかった。


 四宮ハジメの件で洗い直した情報の中に、雑誌の撮影現場へ一時的に入っていた“応援スタッフ”の名前があった。そこに四宮の名前が混じっていたのは偶然かもしれない。だが、偶然というにはタイミングが良すぎる。


 さらに、隆太郎から短いメールも来ていた。


『佐野さんから渡されたGPSはアリスに渡しました』


 それ自体は予定通りだ。

 予定通りだが、だからこそ余計に思う。

 白金アリスの周囲で、今何が起きているかを一歩でも早く拾わなければならない。


 佐野は人通りの多い駅前通りをゆっくり歩いていた。

 目的地があるような、ないような速度。

 見たいのは“情報”じゃなく“偶然”だ。こういう時、探しているものは意外と向こうから顔を出す。


 そして、本当に顔を出した。


 駅前の信号が変わるのを待つ人混みの中に、見覚えのない少女が一人いた。


 正確には、見覚えのない“はず”なのに、顔の輪郭だけが妙に引っかかる。

 地味な服装。やや俯きがちな視線。人の流れに対して、少しだけ身体を引き気味に置く立ち方。


 そして、その顔立ち。


「……あ」


 佐野は足を止めた。


 雑誌で見たことがある。

 白金アリスと、並べるとおかしいくらい似る少女。

 天音アイラ。


 なるほど、と佐野は胸の内で呟く。

 こういう形で会うのか。


 信号が青になる。人の流れが動き出す。アイラもそれに乗って歩き始めた。佐野は躊躇なく、その後を追う。


「ちょっといい?」


 声をかけると、アイラの肩がびくっと跳ねた。

 振り向いた瞬間、明らかに“知らない人に話しかけられた”顔になる。いや、知らない人なんだから当然だ。


「……え」


「天音アイラさん?」


 佐野が確認すると、アイラは一歩だけ後ろへ下がった。警戒が速い。逃げる体勢に入るのも速い。


「……ち、違っ」


 言い終わる前に、アイラは本当に逃げた。


「は?」


 佐野が思わず素で漏らす。

 予想よりずっと速い。


「ちょ、待っ……退院当日に走らせないでくれ!」


 誰に向けた文句か分からないまま、佐野は痛む脇腹を押さえそうになるのを堪えて走った。アイラは人の隙間を縫うのが上手い。慣れているというより、人とぶつからない動きが染みついているんだろう。小柄で身軽だから、余計にするりと抜けていく。


「待って! 白金アリス!」


 佐野が半ばやけくそでその名前を出すと、アイラの足が一瞬止まった。


 佐野はその隙に追いつき、息を整えながら言う。


「……宮本隆太郎」


 今度は、アイラがはっきり振り向いた。

 目に浮かぶのは怯えだけじゃない。戸惑いと確認の色だ。


「……知り合い、ですか?」


「知り合いだよ、嫌われてるけど」


 佐野が言うと、アイラはきょとんとした顔をした。追われた直後なのに、その反応だけは少し可笑しかった。


「……嫌われてる?」


「まあね」


 佐野は肩で息をしながら壁際にもたれた。

 走ったせいで傷が少し疼く。ほんとに退院当日からやることじゃない。だが、ここで逃すわけにはいかない。


「ごめん。いきなり詰めすぎた」


 佐野がそう言うと、アイラはまだ警戒したままだったが、完全には逃げなくなった。


「……白金さんと、宮本さんの知り合い、なんですか」


「知り合い。あと、ちょっと面倒くさい探偵」


 佐野が答えると、アイラの目が少しだけ丸くなる。


「……探偵」


「うん。だから逃げ足の速さも、ちょっと褒めたい」


 その言い方に、アイラがどう反応していいか分からない顔をした。たぶん今までの人生で、知らない大人にそんなふうに声をかけられたことがあまりないんだろう。


 佐野はそこで一度、無理に踏み込まないことにした。

 距離を詰めるのは癖みたいなものだが、相手が逃げるなら意味がない。


「少しだけ、話せる?」


 今度はちゃんと聞く。


 アイラは迷ったあと、小さく頷いた。完全に信用したわけじゃない。でも、“白金アリスと宮本隆太郎の知り合い”という一点だけで、ぎりぎり止まってくれたらしい。


 駅前のベンチまで移動して、少しだけ距離を取って座る。


「撮影帰り?」


 佐野が聞くと、アイラはこくりと頷いた。


「……はい」


「疲れた顔してる」


「……よく、言われます」


「だろうね」


 そこから少しずつ、世間話みたいな形で会話をつないでいく。好きな飲み物。今日はどんな撮影だったか。寒くなってきたこと。アイラは相変わらず声が小さいが、ちゃんと返してくれる。隆太郎やアリスと話す時よりは固いだろうが、それでも完全な初対面にしては十分だ。


 やがて、話題が自然に撮影のことへ流れた。


「今日は、スタッフ多かった?」


 佐野が何気ない口調で聞く。


 アイラは少し考えてから言った。


「……はい。途中で、カメラマンさんも代わって」


 佐野の目がわずかに細くなる。


「へえ。どんな人だった?」


「……普通の、感じの……」


 その答えに、佐野の中で何かがひっかかった。

 普通。最近、その言葉がやたらと重い。


「優しかった?」


 興味本位を装って聞く。


 アイラは小さく頷いて、でもそのあと少しだけ首を傾げた。


「……優しかった、です。たぶん」


「たぶん?」


 そこでアイラは、自分の中の違和感をどう言葉にするか迷う顔になった。


「なんか……ちょっとだけ、変で」


 佐野は表情を変えなかったが、内側では神経が一気に起きる。


「どんなふうに?」


「……撮影の休憩中に、友達のこと、聞かれて」


「友達」


「……はい。最近できたって話したら、どんな子かって」


 そこまで聞いて、佐野の頭の中で線が一気に近づく。


「名前は出した?」


「……名前は、言ってないです。たぶん」


 たぶん、という答え方がアイラらしい。全部を自信満々に言えるタイプじゃない。だが、その曖昧さの中にある不安は本物だ。


「それで?」


 佐野が促す。


 アイラは指先を少しだけ握ってから、言った。


「撮影の最後に、笑ったんです」


「笑った?」


「……不敵、っていうのかな。変な笑い方で。ほんの少しだけ」


 佐野の視線が鋭くなる。


「名札、見た?」


 問いかけた瞬間、アイラは少しだけ目を見開いた。そこを聞かれると思っていなかったんだろう。


「……た、確か、名札に……」


 言いながら、自分の記憶を辿るみたいに眉を寄せる。


「し、四宮ハジメ、って書いてた」


 その名前が出た瞬間、佐野の目が大きく見開かれた。


 偶然じゃない。

 もはや、偶然で片づける方が無理だ。


 四宮ハジメが、撮影現場に入り込んでいた。

 アイラに近づいた。

 “友達”について聞いた。


 そして、たぶん――白金アリスに繋がる線を探っていた。


 背筋に冷たいものが走る。


 佐野はベンチから少しだけ身を乗り出した。


「……それを詳しく」


 声が、自分でも分かるくらい低くなっていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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