撮影の傍に潜む影
朝の空気は冷たかった。
吐く息が白くなるほどじゃない。でも、指先に触れる風は確実に季節が変わったことを教えてくる。秋はもう終わりかけていて、街の色も、空の高さも、何もかもが少しずつ冬の方へ傾いていた。
私は駅のホームでマフラーを少しだけ引き上げながら、小さく息を吐いた。
今日も撮影がある。
最近は少しだけ慣れてきたはずなのに、撮影の日の朝はどうしても胃のあたりが落ち着かない。知らない人が多い場所。大きな照明。カメラ。視線。褒められることも、見られることも、いまだに得意じゃない。
それでも、前よりは少しだけマシになったと思う。
白金さん――アリスさんと話すようになってから、たぶん少しだけ。
あの人は明るい。まぶしい。けれど、ただ明るいだけじゃなくて、ちゃんとこちらの間合いを見てくれる。無理やり引っ張るんじゃなくて、「ここにいていいよ」と言うみたいに笑う。
そういう人と会ったあとだと、世界の全部が怖いわけじゃないと少しだけ思える。
もちろん、そう思ったからって、急に人見知りが治るわけじゃない。
今だって私は、ホームの端に寄りすぎないように気をつけながら、それでもできるだけ人の少ない位置を選んで立っていた。電車が来て、扉が開く。人の流れに逆らわないように乗り込んで、座席の隅に身体を収める。
今日の撮影は、都心寄りのスタジオだった。
雑誌の冬号向け。少し落ち着いた服。ニットとか、コートとか、そういう季節のもの。派手すぎない雰囲気の企画だと聞いていたから、それだけは少しだけ救いだった。あまりに華やかすぎる衣装だと、自分が着ていること自体が恥ずかしくなってしまう。
電車の窓に映る自分の顔は、いつも通り少し固かった。
「……大丈夫」
誰にも聞こえないように、小さく呟く。
大丈夫。
行ける。
今日もちゃんと終わる。
そうやって、言葉で自分の背中を押すしかない。
※ ※ ※
スタジオは、相変わらず忙しかった。
搬入の音。スタッフさん同士の短いやり取り。メイク道具の開く音。どこかで鳴るカメラの試し撮りのシャッター。最初に来た頃は、その全部に圧倒されていた。今も圧倒はされる。けれど、少しだけ“知っている音”になった。
「天音さん、おはようございます」
メイクさんが笑顔で声をかけてくれる。
「……お、おはようございます」
まだ少し声は小さい。でも、前よりは詰まらずに返せるようになった。そういう小さな変化を、誰も気にしていないようで、たぶん少しは気づいている。
メイクをしてもらいながら、私は鏡越しにスタジオの中を見ていた。
今日はスタッフさんの数が少し多い気がした。照明担当の人、スタイリストさん、編集さん、カメラの補助の人。撮影ごとに微妙に顔ぶれが違うから、毎回少しだけ新しい場所みたいに感じる。
その中に、一人、見慣れない男の人がいた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。背は高すぎない。低くもない。黒っぽい服に、首から名札を下げている。髪型も整っていて、清潔感がある。すごく目立つわけじゃない。でも、いわゆる“感じのいい人”に見える顔立ちだった。
スタッフさんと自然に話していて、スタジオの空気にも馴染んでいる。新人のぎこちなさもない。だから、最初はたぶん、ただの関係者なんだろうと思った。
「今日、新しいカメラマンさん入るみたいですよ」
メイクさんが、ふと思い出したみたいに言った。
「……カメラマン、さん」
「ええ。前の方が別件で来られなくなって、急遽。けど、もともと同じチームの人らしくて」
その説明を聞いて、私は少しだけ安心した。急な変更は苦手だ。けれど、同じチームの人なら、少なくとも全然知らないわけじゃないんだろう。
でも、その安心は長く続かなかった。
実際に撮影が始まって、カメラの向こうに立ったのが、その見慣れない男の人だったからだ。
「よろしくお願いします」
男の人は穏やかに頭を下げた。
「今日、途中から担当します。四宮です」
四宮。
その名字を、私はその時ただの音として聞いた。
珍しくもないし、特別な印象もない。
なのに、なぜか耳には残った。
「……よろしく、お願いします」
私が小さく返すと、四宮さんはにこやかに頷いた。
「大丈夫。緊張しなくていいですよ」
声も普通だった。むしろ、少し優しいくらいだった。
「天音さん、写真で見るより雰囲気が柔らかいですね」
その言葉に、私は少し戸惑った。
撮影の現場で褒められることはある。あるけれど、いまだに慣れない。どう返すのが正解か分からなくて、少しだけ目を伏せる。
「……ありがとう、ございます」
四宮さんはそこで無理に言葉を重ねなかった。だから、少しだけ話しやすい人なのかもしれないと思った。
撮影が始まる。
照明が入って、背景が整えられて、私は言われた位置に立つ。冬物のコート。柔らかい白のニット。手元に小物として渡された本。今日の企画は「静かな冬の街角」みたいなテーマらしくて、動きより空気感を大事にするものだった。
「もう少し肩の力抜いてみましょうか」
四宮さんがカメラ越しに言う。
「そうそう、そんな感じ。目線は少しだけ外して……うん、いい」
指示は的確だった。きつくない。急かさない。こちらが固くなっても、責めるみたいな言い方をしない。だから、私は少しずつ呼吸を整えることができた。
シャッターの音が何度も鳴る。
たぶん、撮れている。
スタッフさんたちの空気で分かる。
良くない時は、なんとなく空気が重くなる。今日はそうじゃない。
「いいですね」
四宮さんが言う。
「作ってる感じがない。そこがすごくいい」
その褒め方は、少しだけ変わっていた。ただ綺麗とか可愛いじゃなくて、そこを見てくるんだ、という感じの褒め方。私はまた戸惑って、でも小さく会釈だけした。
撮影は午前の分を順調に終えた。
休憩に入ると、スタッフさんたちが慌ただしく動き出す。衣装の確認。次の背景の準備。飲み物。小さな話し声。私は人の流れの邪魔にならない場所を探して、壁際の椅子に座った。
温かいお茶を一口飲んで、ようやく息を吐く。
「お疲れさまです」
声をかけられて顔を上げると、四宮さんが紙コップを片手に立っていた。
「……お疲れさま、です」
「少し話しても大丈夫?」
急にそう聞かれて、私は一瞬だけ固まった。
でも、仕事の延長の雑談くらいなら不自然じゃない。そう思って、小さく頷く。
「……はい」
四宮さんは、少しだけ離れた位置に立った。近すぎない距離。そこが妙に自然だった。距離感の上手い人なんだと思う。
「天音さん、こういう撮影、もう慣れてます?」
「……まだ、あんまり」
「そうですか。でも、見てる限りは変な硬さがない」
「それは……たぶん、固まってるのが分かりにくいだけで……」
私が小さく言うと、四宮さんは少しだけ笑った。
「正直でいいですね」
そういう返しをされると、どう反応していいのか分からない。私は結局、お茶の入った紙コップを両手で持ったまま黙ってしまった。
四宮さんも、無理に会話を埋めようとはしなかった。少し間があってから、穏やかな調子で別の話題を出す。
「天音さん、最近少し雰囲気変わりました?」
「……え」
「前より表情が柔らかいというか。いい意味で、誰かと話すことに慣れた感じがする」
その言葉に、私は思わず白金さん――アリスさんの顔を思い浮かべた。
たしかに、最近少しだけ変わったかもしれない。
前より、人と話した後に“疲れた”だけで終わらない日が増えた。
少しだけ“楽しかった”が残る日がある。
「……友達が、できたので」
気づいたら、そう言っていた。
自分から“友達”という言葉を出したことに、少しだけ驚く。
「友達」
四宮さんがその言葉をゆっくり繰り返す。
「女の子の?」
「……はい」
「へえ」
穏やかな声。何気ない相槌。なのに、なぜかその一音だけが少し耳に残った。
「どんな子なんですか」
自然な流れみたいに聞こえた。
友達ができた、と言えば、普通はそう返すかもしれない。
なのに私は、なぜか一瞬だけ言葉に詰まった。
どうしてだろう。
警戒する理由なんてない。
ただの雑談だ。
そう思うのに、胸の奥で何かが小さく引っかかった。
「……明るい、子です」
それでも私は答えた。ふんわりと。具体的すぎない言い方で。
「すごく。……優しくて、まぶしい感じの」
四宮さんが少しだけ目を細める。
「まぶしい、ですか」
「……はい」
「いいですね」
その返事は普通だった。普通なのに、どこか含みがあるようにも聞こえる。考えすぎかもしれない。たぶん、考えすぎだ。私はそう自分に言い聞かせた。
「その子も、モデルとかやってる子ですか?」
次の質問は、ほんの少しだけ踏み込んでいた。
私はまた少しだけ迷う。白金さんのことを、どこまで説明していいのか。別に隠すようなことじゃない。でも、なんとなく、細かく言うのは嫌だった。
「……違います」
「一般の子?」
「……はい」
「へえ」
また、その“へえ”が少しだけ耳に残る。
四宮さんの表情は崩れていない。穏やかなままだ。カメラマンとしてモデルに雑談を振っているだけ。そう見える。そう見えるのに、私は少しずつ落ち着かなくなっていた。
何が変なんだろう。
距離感は自然だ。
声も優しい。
質問も、仕事のついでの雑談に見える。
でも、何かが引っかかる。
「今度、その友達の話、もう少し聞かせてくださいよ」
四宮さんが軽く言った、その時だった。
「天音さん、戻れますかー!」
スタッフさんの声がスタジオの向こうから飛んでくる。
私は反射みたいに立ち上がった。助かった、と思ったのかもしれない。そんな自分に少し驚く。
「……すみません、呼ばれたので」
「どうぞ」
四宮さんは、あっさり引いた。
「また後で」
また後で、という言葉が少しだけ嫌だった。
嫌なのに、その理由を説明できない。
それがいちばん困る。
撮影が再開する。
次は少し場所を変えて、窓際のセットだった。冬の午後の日差しみたいな照明が入る。私は立ち位置につき、呼吸を整えようとした。けれど、さっきまでより少しだけ難しかった。
視界の端に、四宮さんがいる。
カメラを構えて、こちらを見ている。
それ自体は普通だ。撮影なんだから、見ているのは当たり前だ。
「天音さん、もう少しだけ顎を引いて」
声は穏やかだった。
「そう。……その表情、いいですね」
何もおかしくない。おかしくないのに、私はさっきより少しだけ緊張していた。胸の奥の違和感が消えない。
シャッター音が続く。
私は自分に言い聞かせる。
考えすぎ。
ただの仕事。
ただのカメラマンさん。
たぶん、私が人に慣れていないから、普通の雑談まで変に感じるだけだ。
そう思って、なんとか表情を整える。
けれど、撮影の最後、四宮さんがカメラを少しだけ下ろして、こちらに向けてほんの一瞬だけ笑った時、私はその違和感の正体が少しだけ分かった気がした。
笑顔が、綺麗すぎた。
優しい笑顔、の形をしているのに、どこか底が見えない。
人に見せるための笑顔として、完成しすぎている。
ほんの一瞬のことだった。
次の瞬間には、また普通の穏やかな顔に戻っていた。
だから余計に、自分の気のせいかもしれないと思ってしまう。
「はい、いいです」
四宮さんが言う。
「お疲れさまでした」
「……お疲れさま、でした」
私はそう返しながらも、その笑顔の残像を頭の隅から追い出せなかった。
違和感なんて、たぶん大したものじゃない。
たぶん、ただの気のせい。
そう思うのに、胸の奥に小さな棘みたいに残る。
帰り支度をしながら、私は一度だけ名札の文字を思い出そうとした。
四宮。
たしか、そう書いてあった。
四宮――。
そこでスタッフさんに呼ばれて、思考が途切れる。
けれど、撮影を終えてスタジオを出る時まで、その違和感だけはずっと消えなかった。
駅へ向かう帰り道、夕方の風はさらに冷たくなっていた。
私はマフラーを少しだけ引き寄せながら、スマホを取り出す。アリスさんに、今日の撮影が終わったことを送ろうとして、指が止まる。
文面が思いつかないわけじゃない。
ただ、さっきの違和感を言うべきか迷った。
でも、こんな曖昧なものを送っても困らせるだけかもしれない。
だから、結局いつも通りの短い文だけ打った。
『撮影終わりました。今日は少し疲れました』
送信してから、私は小さく息を吐いた。
ホームへ向かう階段を上りながらも、ふとさっきの笑顔が浮かぶ。
不敵、というほど露骨じゃない。
でも、なんだか、見透かされたみたいな笑い方だった。
「……変なの」
誰にも聞こえないように呟いて、私は改札を抜けた。
その違和感が、後で名前を持って自分の前に戻ってくるなんて、この時の私はまだ知らなかった。
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