神様からのご加護
秋は、気づけば終わりかけていた。
ついこの前まで、金木犀の匂いが風に混じっていた気がするのに、最近は朝の空気が少しずつ尖ってきている。制服の上に羽織る上着も、もう「あるとちょうどいい」じゃなくて、「ないと少し寒い」に変わっていた。
それでも、俺たちの毎日は続いていた。
四宮ハジメという名前を知ってからも、世界が急に止まるわけじゃない。学校はあるし、授業もあるし、提出物は容赦なく出る。朝になれば起きて、アリスを迎えに行って、一緒に学校へ行く。放課後はできるだけ一人にならないようにしながら帰る。そんな日々を積み重ねるうちに、警戒も少しずつ“生活の形”に変わっていった。
もちろん、慣れたわけじゃない。
今でも曲がり角では少し周囲を見るし、アリスも帰り道でスマホを弄りながら歩くようなことはしない。写真を撮る時は背景まで気にするし、予定も前より細かく共有するようになった。
けれど、それでも最近は、ほんの少しだけ“普通”が戻ってきていた。
昼休みにアリスが俺のところへ弁当を持ってきて、卵焼きを一つ押しつけてきたり。
放課後、文化祭の話の残りみたいなくだらない雑談をしたり。
アイラとアリスが、少しずつ本の話をするようになったり。
そういう小さな日常があるから、俺たちはどうにか壊れずにいられるんだと思う。
その日の放課後も、そんな“どうにか壊れない日”の一つだった。
校門を出て、いつものようにアリスと並んで歩く。空は薄く曇っていて、夕方の色が少しだけ鈍い。風が冷たい。そろそろ肉まんとか、そういう温かいものが恋しくなる気温だ。
「ねえ、隆太郎」
「ん?」
アリスが不意に、少しだけ拗ねたみたいな声を出した。
「私、そろそろ戻りたい」
「戻る?」
「隆太郎の家」
その言葉に、俺は一瞬だけ歩く速度を緩めた。
最近のアリスは、基本的に太刀川家を拠点にしている。恵さんと健一さんの目が届きやすいし、今の状況を考えれば、その方が安全だからだ。もちろん、俺の家――宮本家にも来る。夕飯を一緒に食べることもあるし、母さんもアリスをすっかり家族みたいに扱っている。
でも、“また住むみたいに戻りたい”となると話は別だ。
「今は無理だろ」
俺が言うと、アリスはすぐに唇を尖らせた。
「なんで」
「なんでも何も、今の方が安全だからだよ。太刀川家の方が大人の目も多いし、警戒もしやすい」
「でも、窮屈なんだもん」
アリスが、あからさまに不満そうな顔をする。
「お父さんもお母さんも優しいし、嫌じゃないよ? 嫌じゃないけど……なんか、こう、ずっと“守られてる感”が強すぎて落ち着かないの」
その言い方は、すごくアリスらしかった。
実際に守られているのに、その守られ方だけが先に出てくると、自分が“危ない人”みたいに感じてしまうんだろう。日常の中でずっと警戒されると、自分自身も事件の中心であることを意識し続けることになる。
それは、たしかに息苦しいかもしれない。
「……気持ちは分かるけど」
俺が言うと、アリスはすぐに食いついた。
「じゃあ!」
「でも、分かるのと許せるのは別だ」
「むぅ……」
露骨に頬を膨らませる。分かりやすい。こういう時のアリスは、朝日の頃からまるで変わっていない。
「なんか最近、隆太郎、お父さんみたい」
「嬉しくない例えだな」
「私はちょっと嬉しいけど」
「なんでだよ」
「ちゃんと考えてくれてる感じするから」
そう言ってから、でもアリスはまた少しだけ不満そうに目を細めた。
「でも、私は宮本家の空気も好きなの。百合子さんもいるし、落ち着くし、なんか……帰ってきた感じする」
その言葉は少しだけ反則だった。
アリスにとって、俺の家もちゃんと“帰る場所”になっている。
それが嬉しいのは本音だ。
本音だけど、安全の話になると、それをそのまま通すわけにはいかない。
俺は少し考えた。
完全に戻すのは無理。
でも、アリスのこの息苦しさを全部無視するのも違う。
「……じゃあ、相談してみるか」
「相談?」
「健一さんと恵さんと、母さんに」
アリスの目が少しだけ明るくなる。
「いいの?」
「ただし、“戻る”じゃなくて、遊びに行くって形でな」
「遊びに行く……」
「夕方くらいまでとか、せめて夜までとか。その範囲なら、まだ話せるかもしれない」
アリスは一瞬で機嫌を直した。分かりやすすぎる。
「隆太郎、大好き」
「現金だな」
「こういう時に動いてくれる隆太郎は、特に好き」
そういうことを平気な顔で言うから困る。俺は視線を少しだけ逸らしながら、歩く速度を元に戻した。
※ ※ ※
その日の夜、太刀川家のリビングに、ちょっとした会議みたいな空気ができた。
健一さんは腕を組んで難しい顔をしているし、恵さんは困ったような、それでいてどこかアリスに甘い顔をしている。母さんはそんな二人を見ながら、お茶を置いて静かに座った。
アリスはソファの端で、いかにも“言いたいことがあります”みたいな顔をしている。たぶん、自分で言い出すと勢いで突っ走ると思ったのか、今回は珍しく先に俺を見た。
仕方ないので、俺が切り出した。
「……アリスが、たまには宮本家の方にもゆっくり行きたいって」
その瞬間、健一さんの眉がぴくっと動いた。分かりやすく警戒の反応だ。
「今の状況でか」
「だから“戻る”じゃなくて、遊びに行く形で」
俺は続ける。
「ずっと太刀川家にいるのも、それはそれで息が詰まるみたいで」
恵さんが、小さく「ああ……」と漏らした。母親として思い当たるところがあったんだろう。
「朝日、そうなの?」
「……うん」
アリスが少しだけ肩をすくめる。
「嫌なわけじゃないよ。ほんとに。でも、ずっと“守られてます”って感じだと、なんか私、自分がずっと危ないものみたいに思えてきちゃうの」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになる。
健一さんは難しい顔のままだったが、恵さんは目を伏せて小さく息を吐いた。
「そっか……」
母さんが、穏やかに口を開く。
「完全に移るのはまだ難しいと思う。でも、たまに行くくらいなら、逆に息抜きになるかもしれないわね」
母さんがそう言うと、健一さんは少しだけ考え込んだ。長い沈黙。たぶん、アリスの気持ちも分かるし、でも危険も分かるからこそ迷っているんだろう。
やがて、恵さんが先に折れた。
「じゃあ……夕方まで、とか?」
「夜まで!」
アリスが即座に食いつく。早い。
「朝日」
恵さんが少しだけ呆れた声を出すと、アリスはむぅと唇を尖らせた。
「でも、せっかく行くならちょっと長めがいいもん」
「……昼から夜まで」
健一さんが、重い口を開いた。
全員の視線がそちらへ向く。
「ただし、移り住むわけじゃない。遊びに行くって体で、夜までだ。それ以上はなし」
アリスの顔が、一気に明るくなる。
「ほんと!?」
「ああ。ただし条件は守れ」
「守る!」
食い気味に返事をする。分かりやすいくらい嬉しそうだ。
母さんも少しだけ笑った。
「じゃあ、明日はうちで夕飯でも食べる?」
「行く!」
今度は即答だった。ほんの数秒前まで駄々をこねていたのに、機嫌の直り方が早すぎる。
そんなアリスを見て、恵さんが苦笑し、健一さんが小さくため息をついた。呆れているのに、どこか嬉しそうでもある。アリスが“行きたい場所”をちゃんと持っていること自体は、たぶん二人にとっても救いなんだろう。
※ ※ ※
翌日。
アリスは本当に朝から上機嫌だった。
学校でも妙に軽くて、授業中ですら少しだけ機嫌が顔に出ている。放課後になった瞬間、俺の机の横へ来て言った。
「行こう」
「早い」
「だって今日は宮本家の日だもん」
言い方がもう半分住んでる人間のそれだった。俺は少し笑いながら鞄を持つ。
校門を出て、二人で宮本家へ向かう。まっすぐ帰るつもりだったのに、途中のコンビニ前で足が止まった。
理由はすぐ分かった。
コンビニの外のベンチに、小さな銀髪の少女が座っていたからだ。
肉まんを頬張りながら。
エンマちゃんだった。
街灯の下、湯気の上がる肉まんを両手で持って、もぐもぐとやっている姿だけ見れば、ただのちょっと変わった小学生だ。だが、その違和感のなさが逆に一番怖い。
アリスが先に気づいて、目を丸くする。
「……あ」
エンマちゃんは肉まんを半分口に入れたまま、俺たちを見る。そして、飲み込んでから平然と言った。
「奇遇だね」
「絶対違うだろ」
俺が即答すると、エンマちゃんは「失礼だな」とでも言いたげに目を細めた。
「偶然コンビニにいたら、そこへ偶然君たちが来ただけだよ」
「その言い方で偶然感出ると思うなよ」
アリスが少しだけ笑ってしまう。緊張感のある存在なのに、こうして会うと妙に会話のテンポだけは軽いのが腹立たしい。
エンマちゃんは肉まんを食べ終えると、手をぱんぱんと軽く払って立ち上がった。そして、そのまま俺の方へ一歩近づいてくる。
「今日はちょっと忠告に」
「またかよ」
「まただよ」
軽く返される。その軽さの裏で、俺はすでに身構えていた。エンマちゃんが“忠告”と言う時は、だいたい軽くない。
だが、その前に、俺はずっと喉の奥に引っかかっていたことを口にした。
「……なあ」
「ん?」
「無理なのは分かってるけど」
俺はエンマちゃんを見下ろした。小さい。小さいくせに、言っていることはいつも人間の尺度の外だ。
「犯人から守ってくれないのか」
言いながら、自分でも無茶を言ってると思った。神様だの転生だの言っている相手に、“守れ”と頼むのは筋が違うのかもしれない。でも、今の俺には頼れるものが少なすぎた。
エンマちゃんは、案の定、あっさり首を振った。
「無理だ」
「やっぱりか」
俺が小さく息を吐くと、隣でアリスが少しだけ意地悪そうに口を開いた。
「神様なのに?」
からかうみたいな声音だった。
エンマちゃんの頬が、ぷくーっと膨らんだ。
「神様だからだ」
その返しに、思わず俺もアリスも少しだけ目を丸くする。
「この人間界では力は制限されてる。前にも言ったでしょ。なんでもかんでも神様パワーで解決できたら、人間の世界なんかとっくに壊れてる」
その言い方は妙に説得力があるような、ないような微妙な線だった。
アリスが、わざとらしく肩を落とす。
「なんだ、能無しの疫病神じゃん」
それはだいぶ言い過ぎだろ、と思った瞬間、エンマちゃんが即座に言い返した。
「その疫病神に転生させられた哀れな小娘」
「うわっ、言い返してきた!」
「当然だよ。失礼だな」
アリスとエンマちゃんが、妙なテンポで言い合いを始める。内容だけ見ると物騒なのに、不思議と空気は少しだけ和らいでいた。エンマちゃんの存在は怖い。でも、こういうどうでもいいやり取りが挟まると、少しだけ“会話できる相手”になる。
やがて、エンマちゃんは小さく息を吐いて、少しだけ真面目な顔に戻った。
「守ることはできないが」
その前置きで、俺もアリスも自然に表情を引き締める。
「祈ることくらいはできる」
「祈る?」
アリスが聞き返す。
エンマちゃんは両手を合わせてみせた。子どもみたいな仕草なのに、妙に神様っぽく見えるのが悔しい。
「神様のご加護、ってやつ」
その言い方に、思わずアリスが吹き出しそうになるのを堪えた顔になる。俺も少しだけ口元が緩んだ。
「なんだよそれ」
俺が言うと、エンマちゃんは偉そうに胸を張った。
「侮るなよ。祈りは案外馬鹿にできない」
「急にスピリチュアル感出すな」
「神様だからね」
そのやり取りに、さっきまでの緊張が少しだけほどける。笑っていいのか分からないのに、少しだけ笑ってしまう。アリスも同じだったらしく、隣で肩を小さく揺らしていた。
エンマちゃんは、そんな俺たちを見て少しだけ満足そうに目を細めた。
「まあ、ちゃんと守りなよ」
それだけ言うと、エンマちゃんはくるりと踵を返す。
「どこ行くんだ」
「コンビニのゴミ箱に包み捨てる」
「そこはちゃんとしてるんだな」
「神様だからね」
最後までその調子だった。
エンマちゃんがコンビニの方へ歩いていく背中を見送りながら、アリスが小さく呟く。
「変な神様」
「今さらだな」
「でも……」
アリスは少しだけ考えるように間を置いてから続けた。
「祈ってくれるなら、ちょっとだけ心強いかも」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
「俺も」
守るのは、たぶん俺たちだ。
神様は直接手を出せない。
佐野は証拠を追う。
警察も動いている。
でも、それでも。
祈る、という形で味方が一人増えるのは、悪くない気がした。
俺たちは再び歩き出した。宮本家へ向かうために。
夕方までの外出。
ただ遊びに行くだけのはずの日。
それなのに、こうして途中で神様に会って、犯人の話をして、ご加護の話までしている時点で、やっぱり俺たちの日常はもう普通じゃない。
それでも、笑える時に笑っておくしかない。
そう思いながら、俺は隣を歩くアリスを見た。
アリスも、少しだけ柔らかく笑っていた。
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