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ゲームの始まりだ

 四宮ハジメ、という名前は、病院を出たあともずっと耳の奥に残り続けていた。


 ただの音の並びのはずなのに、不思議なくらい重い。知らない男の名前なのに、その四文字を聞いた瞬間から、そいつがどこかで息をしている人間になってしまった。今までは輪郭だけだった。普通に見える若い男。整った顔。快楽犯。写真を集めるかもしれない男。そういう、現実味の薄い恐怖だった。


 でも、名前がついた。


 それだけで、恐怖は急に手触りを持つ。


 病院から駅へ向かう夜道で、アリスはほとんど喋らなかった。黙っているというより、頭の中で繰り返している顔だった。たぶん俺と同じだ。四宮ハジメ、という名前を自分の中に落とそうとしている。


 駅前の横断歩道で信号待ちをしている時、アリスが小さく言った。


「……四宮ハジメって、普通の名前だね」


 その言い方が、妙に胸に残った。


「普通だな」


「もっとこう……見るからに怖そうな名前ならよかったのに」


 アリスは自分で言って、少しだけ苦そうに笑った。


「そんなの、意味ないって分かってるけど」


「分かる」


 俺もそう思った。もっと分かりやすく異常なら、まだよかった。見た目も名前も空気も、全部が“普通”からずれていれば、警戒のしようがある。けれど四宮ハジメは、たぶんそうじゃない。普通に見えるから怖い。普通の顔で近づいてくるから、余計に怖い。


 信号が青に変わり、俺たちは並んで渡る。人通りはある。コンビニも開いている。駅前の店はまだ明るい。それなのに、四宮の名前が頭にあるだけで、さっきまで何でもなかった風景が少しずつ違って見えた。


 この中に、こういう顔の男が紛れていてもおかしくない。

 すれ違っても、気づけないかもしれない。

 そう考えるだけで、肩に力が入る。


「隆太郎」


「ん?」


「今、考えてることたぶん一緒」


 アリスが前を向いたまま言う。


「……普通に歩いてる人、みんなちょっと怖く見える」


 俺は少しだけ息を吐いた。


「うん」


「これ、嫌だね」


「嫌だな」


 嫌だ、で済む話じゃないと分かっている。それでもまずは嫌だと言葉にしておかないと、感覚の方が壊れそうだった。


 電車の中でも、俺たちは大きな声では話さなかった。隣同士で座って、時々小さく言葉を交わすだけ。沈黙の方が長かったけれど、嫌な沈黙じゃなかった。今は無理に埋めない方がいい空白もある。


 ホームから外へ出ると、夜の風が少し強くなっていた。季節が進んでいる。こんな時に、と思う。だが季節はこっちの事情を待たない。


 太刀川家までの帰り道で、ようやくアリスがもう一つだけ口を開いた。


「……ねえ」


「ん」


「もし、もしだよ」


 アリスは少しだけ躊躇った。そこで一度息を吸って、続けた。


「もし、その四宮って人が本当に私をまた狙ってるなら……私、どうしたらいいんだろ」


 その問いは弱音じゃなかった。現実的な確認だ。どう怖がるかではなく、どう動くかを聞いている。


 俺はすぐには答えず、一度だけ考えた。

 簡単に“俺が守る”と言うだけなら、今までだってできた。

 でも、もうそれだけじゃ足りない。四宮という名前が出た以上、守るには具体性がいる。


「まず、一人にならない」


 俺はゆっくり言った。


「それと、予定を曖昧にしない。帰る時間も、会う相手も、なるべく共有する。あと……」


 そこで少しだけ言葉を探す。


「怖いと思ったら、遠慮しないで言う」


 アリスが俺を見る。


「遠慮?」


「俺とか、おじさんとか、おばさんとか、母さんとか。……誰でもいい。変に“これくらいで言っていいのかな”って思わないこと」


 それは、たぶん一番大事だった。

 危険に慣れてしまうのが一番まずい。

 これくらいなら大丈夫、が一番危ない。


 アリスは少しだけ黙ってから、頷いた。


「……うん」


「あと、四宮のことを一人で考えすぎないこと」


「それ難しい」


「難しいけど」


 俺は言ってから、少しだけ笑った。


「難しいから、今こうして二人で考えてる」


 アリスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「……そうだね」


 太刀川家の前に着くと、玄関の灯りがやけに温かく見えた。家の灯りは、こういう時に救いになる。ただ帰る場所があるというだけで、人は少しだけ落ち着ける。


 アリスは門の前で立ち止まり、俺を見た。


「今日、言ってほしいの、好きってやつじゃない」


「じゃあ何だ」


 アリスは少しだけ唇を引き結んで、それから言った。


「大丈夫って言って」


 それは、いつもの“好き”とは違う種類の足場を欲しがる声だった。


 俺はその顔を見て、簡単に嘘をつくわけにはいかないと思った。

 全部が大丈夫だなんて、今は言えない。

 四宮がいて、佐野がいて、エンマちゃんまで出てきたこの状況で、無責任に“大丈夫”と断言するのは違う。


 だから、少しだけ言い方を変えた。


「……大丈夫にする」


 アリスの目が少しだけ揺れた。


「今すぐ何もかも大丈夫とは言えない。でも、俺がそうする」


 自分で口にして、その言葉の重さに少しだけ息が詰まりそうになる。大きすぎる約束かもしれない。けれど今の俺には、これ以外に言えることがなかった。


 アリスは数秒だけ黙って、それから小さく頷いた。


「うん」


 その“うん”は、昨日までより少しだけ強かった。


「じゃあ、それ信じる」


 そう言って、アリスは玄関へ向かった。途中で一度だけ振り返って、小さく手を振る。俺も手を上げて返した。


 その背中が見えなくなるまで、俺は門の前で立っていた。


 ※ ※ ※


 自宅へ戻ると、母さんはまだ起きていた。時計を見ると二十二時を少し回っている。リビングのテーブルには、俺の分の温かいお茶が置いてあった。


「おかえり」


「ただいま」


「どうだった?」


 聞かれる前から話すつもりだった。ここまできて、家の中にだけ何も伝えないのは無理がある。もちろん全部は話せない。だが、今夜病院で聞いたことのうち、現実として共有すべきことは共有しないとまずい。


 俺は椅子に座って、お茶を一口飲んでから言った。


「名前が出た」


 母さんの表情が固くなる。


「……犯人の?」


「まだ断定じゃないけど、いちばん濃い人」


「名前は?」


 そこで一瞬だけ迷った。でも、もう共有しない方が不自然だ。


「四宮ハジメ」


 母さんはその名前を小さく反芻するように繰り返した。


「四宮……ハジメ」


 それから静かに言った。


「知らない名前ね」


「俺も知らない。でも、普通に見える若い男らしい」


 普通に見える。その説明が、今は何より嫌だ。


「それと、アリスは……また狙われる可能性が高いって」


 そこまで言うと、母さんの手が一瞬だけ止まった。お茶の湯気が、その沈黙の間を埋めるみたいに揺れている。


「そう」


 母さんの声は低かった。でも、取り乱さない。


「じゃあ、今まで以上に徹底しないとね」


 その返事に、少しだけ救われる。怖がって終わりじゃなく、すぐ“何をするか”に行ってくれるのがありがたい。


「俺もそう思ってる」


「隆太郎」


「ん」


「あなたが全部一人でやろうとしないこと。昨日も言ったけど、それ本当に大事よ」


 母さんはまっすぐ言った。


「四宮って人が本当に危ないなら、家族単位で動いた方がいい。あなただけが張り詰めてても限界が来る」


「……分かってる」


 そう答えながらも、どこまで本当に分かっているかは怪しい。守ると決めた瞬間から、どうしても自分の肩に乗せすぎる癖がある。分かっているのに、直せるわけじゃない。


 母さんはそれ以上は何も言わず、ただ「お茶飲みなさい」とだけ言った。


 ※ ※ ※


 深夜。


 街の音がだいぶ薄くなった頃、四宮ハジメは暗い部屋の中で一人座っていた。


 照明は、机の上のスタンドだけ。部屋の隅はほとんど闇に沈んでいる。家具は少ない。整頓されているのに、生活の温度が薄い。誰かが住んでいる部屋というより、誰かが“隠れている”部屋みたいだった。


 机の上には、何枚もの写真が広げられている。


 連続事件の被害者たち。

 街角で撮られた、他人の後ろ姿。

 雑誌の切り抜き。

 駅前。

 カフェ。

 通学路。


 そして、その上に重ねるように、一枚の写真が置かれていた。


 白金アリス。


 街で撮られた横顔。笑っているわけでもない、ただ誰かと話している瞬間の写真。だからこそ自然で、だからこそ見ていて気持ちが悪い。本人が知らないところで切り取られた“生”の断片だった。


 四宮はその写真を指先で撫でるでもなく、ただ眺めていた。


「きれいだな」


 呟く声は、ひどく普通だった。

 電車の中で誰かに話しかける時と同じような、普通の若い男の声。


 机の端には、別の写真が何枚か伏せてある。そこには過去の被害者が写っている。四宮は白金アリスの写真を、その一番上に重ねるように置いた。


 順番を決めるみたいに。

 次を選ぶみたいに。


 その横には、もう一枚別の写真があった。


 天音アイラ。


 駅前のカフェから出てきたところを、少し離れた場所から撮った写真。白金アリスと並んでいない、アイラ単体のもの。四宮はそちらにも視線を落とす。整った横顔。控えめな表情。どこか、白金アリスと重なる輪郭。


「不思議だ」


 四宮は小さく笑った。


「似てる」


 部屋の静けさの中で、その一言だけがやけに鮮明に響く。


 白金アリスと天音アイラ。

 違うように見えて、どこか似ている。

 四宮はその“似ている”こと自体に、ひどく興味を持っていた。


 机の引き出しを開ける。中には整理された封筒、ペン、薄い手袋、そして小さなナイフが二本。四宮はその一本を取り出し、刃を確認してから、また静かに戻す。


 焦らない。

 前回は少し近づきすぎた。

 あの探偵女は、想像よりしぶとかった。


 だが、それでも一つ分かったことがある。

 自分に近づいてくる人間はいる。

 そして、その中心には白金アリスがいる。


 四宮は椅子の背にゆっくり体を預け、天井を見た。


「ゲームの始まりだ」


 嬉しそうでもなく、ただ確認するみたいに言った。


 その声だけが、ひどく子どもじみていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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