黒幕の名前
その夜は、眠れたようでほとんど眠れていなかった。
目を閉じても、病室の白い光と佐野雪芽の言葉が頭の中に残り続ける。
“まだ断定じゃない”。
“でも、かなり絞った”。
“相手はもう白金さんを次の標的として認識してる可能性が高い”。
名前は聞けなかった。なのに、名前の輪郭だけが喉元に引っかかったまま動かない。いっそ昨日のうちに全部言ってくれた方が楽だったんじゃないか、とさえ思う。けれど、名前だけが先に独り歩きするのは危険だと佐野が言った意味も、頭では分かる。
分かるのに、感情が追いつかない。
朝、いつもより少しだけ早く起きて、顔を洗っても、鏡の中の自分はあまり冴えなかった。リビングへ下りると、母さんが朝食の準備をしていて、俺の顔を見るなり静かに言った。
「ちゃんと寝てない顔」
「……少しだけ」
「少しじゃないでしょ」
そう言われても否定できない。食パンを口に入れても味が薄い。コーヒーの苦みだけがやけに残る。
「今日も病院?」
母さんが聞く。
「たぶん、放課後」
「そう」
それ以上は聞かなかった。聞けば俺の方が余計に重くなると分かっているんだろう。
家を出て太刀川家の前へ向かう。朝の空気は昨日より少し冷たくて、制服の上着がちょうどいい。季節は待ってくれない。どんなに胸の中が落ち着かなくても、秋は淡々と深くなっていく。
太刀川家の門の前には、もうアリスが立っていた。
今日はいつもより少し静かな顔だ。無理に笑っているわけじゃない。ただ、内側に考えごとを抱えたまま表面だけ整えている感じ。俺もたぶん同じ顔をしている。
「おはよう」
「おはよ」
アリスはそう言って、すぐに俺の顔を見た。
「……寝てない」
「お前もだろ」
「私はちょっとだけ」
「それ、俺が今朝言ったのと同じ」
そう返すと、アリスがほんの少しだけ口元を緩めた。笑うほどじゃない、でも会話の形にはなる程度の柔らかさ。
並んで歩き出す。朝の通学路。車の音、人の足音、信号待ちのざわめき。こういう“普通”の音に混ざっていると、少しだけ自分が日常へ繋がれる。
「ねえ、隆太郎」
「ん?」
「今日、佐野さんから連絡来るかな」
その問いには、不安と待ちきれなさが両方あった。知りたい。でも知るのが怖い。そんな時の声だ。
「来ると思う」
俺は正直に言った。
「昨日のあの言い方で、何も送ってこない方が不自然だ」
「だよね……」
アリスは頷いてから、少しだけ俯いた。
「私、名前聞くの怖い」
「うん」
「でも、聞かないままだともっと怖い」
その繰り返しだ。最近の俺たちは、ずっとその二択の間にいる。知らない怖さと、知る怖さ。そのどっちも選びたくないのに、どちらかに足を出さないと前へ進めない。
「聞く時は、一緒に聞く」
俺がそう言うと、アリスは少しだけ目を上げた。
「うん」
短い返事だったけど、それで十分だった。
学校へ着いても、やっぱり落ち着かなかった。授業の内容は頭に入るようで入らないし、昼休みのざわめきも少し遠く感じる。教室は平和で、何も起きていなくて、みんな文化祭の次の小テストの話なんかしているのに、俺たちだけが別のところにいるみたいだった。
昼休み、アリスは俺の席の横に来て、弁当箱を開く前に小声で言った。
「アイラさんから、おはようって来てた」
「そうか」
「普通に返した。……なんか、ちゃんと普通の友達っぽかった」
その言い方に、少しだけ救われる。アリスとアイラの関係が、少なくとも今のところは“ちゃんと普通”として進んでいる。それは大事なことだ。
「よかったな」
「うん」
アリスは頷いてから、でもすぐに真顔に戻った。
「でも、昨日の話を聞いた後だと、何でもないやり取りでも少しだけ変な感じする」
それはそうだろう。俺も同じだ。アリスとアイラが並ぶだけで、頭の中に余計な言葉が割り込んでくる。
それでもアリスは、そこから目を逸らしていない。変な感じがする、と言いながら、でもやり取り自体をやめようとはしていない。そこが強い。
「変な感じは、しばらく消えないと思う」
俺が言うと、アリスは卵焼きを箸でつつきながら、小さく笑った。
「隆太郎、最近そういう“しばらく消えない”系の言い方増えたね」
「現実的だろ」
「現実的すぎて、高校生っぽくない」
そう言われて、少しだけ苦笑する。たしかに、最近の俺たちは高校生らしい悩み方から少し外れているのかもしれない。文化祭がどうとか、友達がどうとか、そういう日常の中心に、いつの間にか事件が入り込んでいる。
放課後のホームルームが終わる直前、俺のスマホが一度だけ震えた。マナーモードの短い振動。それだけで心臓が一瞬強く打つ。
画面を見ると、佐野からだった。
『今日、面会できる』
『二十時までに来て』
短い。それだけだ。でも、昨日の“続きは明日”を考えれば十分すぎる。
俺はすぐにアリスへ画面を見せた。アリスの目がほんの少しだけ揺れて、それから頷く。
「行こう」
「ああ」
その一言だけで決まる。
※ ※ ※
病院へ向かう道中、昨日より会話は少なかった。
何を話しても、最後には“名前”のところへ戻ってしまいそうだったからだ。だから俺たちは、途中でコンビニに寄って佐野への差し入れを買って、それについてだけ少し話した。
「ゼリーと、あと飲み物」
「甘いの好きそうだよね」
「好きそうっていうか、好きだろ」
「たしかに」
そんな短いやり取りだけでも、無言で歩くよりは少し楽だった。
病院の受付を済ませ、病室へ向かう。昨夜より静かだ。夜の病院は、みんなが息を潜めているみたいに見える。廊下の白さまで冷たい。
ドアを開けると、今日は健一さんだけじゃなく、恵さんも来ていた。ベッドのそばの椅子に座って、佐野と低い声で話していたらしい。俺たちが入ると、二人ともこちらを見た。
「来たね」
佐野が言う。
昨日より顔色は少し良かった。けれど、その代わりに目の方が鋭くなっている。身体が休んだぶん、頭だけが先に仕事へ戻っている目だ。
「来た」
俺が答えると、佐野は軽く頷き、枕元のクリアファイルを手に取った。
「じゃあ、今日は引っ張らない」
その一言で、病室の空気が一段変わった。
俺とアリスは椅子に座り、アリスは自分の膝の上で手を組んだ。健一さんは立ったまま腕を組み、恵さんは静かに呼吸を整えている。誰も“軽い話”だとは思っていない。
佐野はまず、一枚の紙を取り出した。名前と、簡単な経歴が印刷されたメモだ。
「ここ数日で絞った候補の中で、一人だけ、異常なくらい全部に近い男がいる」
声は静かだ。静かだから余計に響く。
「朝日の駅に近い生活圏。連続事件の現場に寄った移動履歴。自首犯に繋がる金の線。倉庫街周辺での接触可能性。……そして、私を消しに来た男の外見と一致する特徴」
俺は喉が乾くのを感じた。アリスの隣で、彼女の手が少しだけ強く握られるのが見える。
「まだ証拠は足りない。けど、ここまで一致するなら、私はもう“偶然”とは呼ばない」
佐野は、そこで一度だけ息を吐いた。
「名前は――」
病室が、しんと静まる。
俺は息を止めて、佐野の口元を見た。
アリスも、健一さんも、恵さんも、誰一人動かない。
そして佐野は、はっきりと言った。
「四宮ハジメ」
その名前が空気に落ちた瞬間、病室の時間が一拍だけ止まった気がした。
「四宮……」
俺が無意識に繰り返す。
佐野は頷いた。
「四宮ハジメ。表向きは普通の職についてる。身元もある。顔も整ってる。人当たりも悪くない。……だからこそ、隠れる」
四宮ハジメ。
名前がついた途端、それまで輪郭だけだったものが急に現実になる。知らない男のはずなのに、その名前があるだけで“どこかに本当にいる人間”になる。
アリスが、小さく息を呑んだ。
「その人が……」
最後まで言えなかった。言葉にした瞬間、本当に“私を殺した人”になってしまうからだろう。
佐野は淡く言った。
「断定はまだ。でも、私が今いちばん濃いと見てるのはこの男」
恵さんが、膝の上で手を重ねる。健一さんの顎の筋肉が僅かに強張る。怒りを噛み殺している顔だった。
「何者なんですか」
俺が聞くと、佐野はファイルの別の紙をめくった。
「快楽犯。たぶん、かなりの確率で」
その言葉に、胸の奥が冷える。
「狙う相手は、自分の中で“意味づけ”してる。完全な無差別じゃない。観察して、選んで、近づいて、壊す。その過程ごと楽しんでるタイプ」
アリスの表情が白くなる。俺は何も言わず、ただ隣にいることだけ意識した。
「四宮ハジメは、普通の人間の顔をしてる。でも、普通の人間のまま快楽のために人を壊せる」
佐野は淡々と話す。感情で言えば吐き捨てたくなるような内容を、あくまで“事実の積み上げ”として話す。その冷静さが逆に怖い。
「そして、私を消しに来た」
病室の空気がまた一段重くなる。
「つまり、私が辿り着いた線が、四宮にとって触れられたくないものだった可能性が高い」
健一さんが低く言った。
「警察には」
「今すぐ持っていっても弱い」
佐野は即答した。
「疑いの濃さはある。でも、現行で押さえられる材料がない。……だから、今は名前を知った上で警戒するしかない」
それが悔しい。たまらなく悔しい。名前まで出たのに、今すぐ掴めない。目の前にいるみたいに感じるのに、法の形に乗るだけの重さがまだ足りない。
「白金さん」
佐野がアリスへ視線を向けた。
「四宮は、もう一度君を見つけてる可能性がある」
アリスがゆっくり顔を上げる。怖い顔じゃない。怖いのに、それを押し込んで聞こうとする顔だ。
「だから、今日からは“狙われてるかもしれない”前提で動いて」
その言葉は厳しい。けれど、嘘の慰めよりずっとましだった。
「はい」
アリスは、小さいけれどはっきりと答えた。
それを聞いて、佐野の目がほんの少しだけ和らぐ。
「あと、四宮は写真を集める可能性がある。観察対象の記録としてね。……白金さんの写真、今まで以上に注意して」
「分かりました」
アリスはもう一度頷いた。
話はそこで終わらなかった。佐野はさらに、四宮の行動パターンとして考えられることをいくつか話した。接触しやすい時間帯。帰宅ルートの読み方。人の多い場所からどうやって狙いを絞るか。話している内容は、聞くだけで吐き気がするものだったが、聞かなければもっと危ないのも分かる。
やがて看護師が見回りに来て、「今日はこのくらいで」とやんわり釘を刺した。さすがに全員、そこで立ち上がるしかなかった。
病室を出る前、佐野が俺を呼んだ。
「宮本くん」
「はい」
「四宮は、たぶん“普通”に見える」
その言葉は、病室の中で一番刺さった。
「だから、君が今後見る“違和感のなさ”を、逆に疑って」
違和感のなさを疑う。
普通に見えることを疑う。
それはもう、日常そのものを少しずつ壊す考え方だ。
「……分かりました」
そう答えるしかなかった。
病室を出たあと、アリスはしばらく何も言わなかった。名前が出たことで、怖さの質が変わったんだろう。さっきまで“誰か”だったものが、“四宮ハジメ”になった。知らないのに、知ってしまった存在になる。それは、想像以上に現実味が強い。
病院の外へ出て、秋の夜風に触れた時、アリスがようやく小さく言った。
「……四宮ハジメ」
自分の口で確かめるみたいに、ゆっくりと名前を繰り返す。
「名前、ついちゃったね」
その言い方が、妙に切なかった。
「うん」
俺も短く答える。
「今まで、ただ怖いだけだったのに……名前がついたら、もっと怖い」
それはそうだ。名前は現実を固める。輪郭だけだった恐怖が、人間の形になる。だから怖い。
俺はアリスの歩幅に合わせて歩きながら、心の中でその名前を繰り返した。
四宮ハジメ。
朝日を線路へ突き落としたかもしれない男。
連続事件の裏にいるかもしれない男。
そして今、白金アリスを次の標的にしているかもしれない男。
その名前が、これから俺たちの日常に入り込んでくる。
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