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"普通"はもう壊れている

 その日の夜、佐野雪芽からのメッセージは、思っていたより簡潔だった。


『個人的に。今夜確認したいことがある』

『健一さんにも送ってる』

『病院に来られるなら、二十時以降』


 俺は自室の机に向かったまま、その文面を何度も見返した。


 昼間の電話の声を思い出す。倉庫街で自分を消しに来たことの意味。相手が焦っている可能性。そして、アリスを今まで以上に一人にしないでほしいという警告。


 そこに加えて、この短い呼び出しだ。


 確認したいことがある。


 それはたぶん、ただの思いつきじゃない。佐野がここまで引っ張る時は、感覚だけじゃなく、いくつかの線が重なっている時だ。少なくとも、そういう人だともう分かっている。


 俺はスマホを置いて、立ち上がった。


 リビングに行くと、母さんがテレビの音を少し下げてこちらを見た。


「どうしたの」


「佐野さんから連絡」


 それだけで、母さんの表情が少しだけ引き締まる。


「今から病院に来られるかって」


「……行くのね」


「うん」


 答えながら、自分の声が少し低いのが分かった。緊張している時の声だ。


 母さんは数秒だけ黙ってから言った。


「送る?」


「いや、大丈夫。病院までなら」


「そう」


 母さんはそれ以上は止めなかった。その代わり、静かに続ける。


「帰る時間、ちゃんと連絡して」


「分かった」


 玄関へ向かう前に、アリスへも短く送った。


『佐野さんに呼ばれた。今から病院行ってくる』


 少しして、すぐ返事が来る。


『私も行く』


 予想通りだった。


 俺は画面を見つめて、一瞬だけ考える。夜だ。病院だ。危険という意味では、まだ人の多い場所ではある。けれど今日の呼び出しがどれだけ重い話になるか分からない。アリスを連れていくべきかどうか、迷う。


 だが、ここで「来るな」と言えば、今度はアリスが家で一人で待つことになる。内容も知らされず、ただ不安だけが膨らむ。それも違う。


『分かった』

『家の前で待ってる』


 送って、上着を羽織った。


 ※ ※ ※


 太刀川家の前には、すぐにアリスが出てきた。


 制服じゃない。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの格好。たぶん、メッセージを見て急いで支度したんだろう。顔に少しだけ緊張がある。


「行こ」


 アリスが言う。


「うん」


 並んで歩き出す。夜の住宅街は静かだった。街灯の白い光が地面に落ちて、家々の窓からだけ生活の灯りが漏れている。前までなら、こういう夜道もそこまで意識せず歩いていた。今は違う。曲がり角も、駐車場の奥も、自然に目に入る。


 アリスも同じらしかった。俺の袖を掴むほどではないが、いつもより半歩だけ近い距離で歩いている。意識しないとそうならない距離感だ。


「ねえ、隆太郎」


「ん?」


「佐野さん、何の話だと思う?」


 率直な問いだった。避けようとしていない。答えにくいことでも、知りたいなら知りたいと口にする。そういうところは変わらない。


「たぶん、犯人のこと」


 俺は正直に言った。


「少なくとも、その線で何か進んだんだと思う」


 アリスは小さく頷く。怖い時の癖で、指先が少しだけ自分の袖を握る。


「……怖いね」


「うん」


「でも、知らないままの方がもっと嫌」


 その言葉は、前に病院の帰りでも聞いた気がした。アリスはたぶん、もう“見ないふり”には戻れないんだろう。一度死んで、もう一度生きることになって、それでもなお狙われるかもしれないと知ってしまった今、怖いからといって何も知らないままではいられない。


「俺も」


 そう答えると、アリスは少しだけ目を上げた。


「……そっか」


「うん」


 駅へ着いて、電車に乗る。夜の車内は、昼間より静かだ。学生は減り、仕事帰りの大人たちが無言でスマホを見ている。誰も俺たちのことなんて見ていないのに、それでも少しだけ落ち着かなかった。


 病院へ向かう電車の窓に映る自分の顔は、やっぱり少し固かった。


 ※ ※ ※


 病院の受付を通り、病棟の廊下を歩く。夜の病院は、昼間より音が少ない。だから足音だけがやけに響く。アリスの歩幅がほんの少しだけ狭くなる。俺は何も言わず、ただ横にいることだけを意識した。


 病室の前に着くと、扉は少しだけ開いていた。ノックをすると、中から佐野の声がする。


「どうぞ」


 入ると、すでに健一さんが来ていた。病室の壁際の椅子に腰掛け、腕を組んでいる。表情は固いが、前回の面会より少しだけ覚悟ができている顔に見えた。


 佐野はベッドの背を上げて座っていた。昼より顔色は悪くない。だが、疲れていないわけじゃないのが目の下に出ている。それでも目だけは起きていた。むしろ、普段より焦点が鋭い。


「全員来たね」


 佐野が言う。


「白金さんも」


 アリスは小さく頷いた。


「……呼ばれると思った」


「まあ、今夜の話は君抜きじゃ進まない」


 その一言で、病室の空気が少し重くなる。


 俺とアリスはベッド脇の椅子に座った。健一さんが少しだけ姿勢を直す。誰も余計なことを言わない。


 最初に口を開いたのは、健一さんだった。


「確認したいこと、とは何だ」


 単刀直入。健一さんらしい。


 佐野は、枕元に置いてあった薄いクリアファイルを手に取った。中には紙が何枚か入っている。印刷した地図、時間のメモ、名前の書かれた一覧。探偵らしい資料だが、どれも“これが決定打です”という顔はしていない。状況を積み重ねた紙だ。


「まず結論から言う」


 佐野の声は静かだった。だから余計に、言葉が重い。


「私は、朝日の件と連続事件を繋いでいる男の輪郭を、かなり絞った」


 アリスが小さく息を呑む。

 俺の背中にも、冷たいものが走る。


 かなり絞った。

 まだ断定じゃない。けれど、“誰か”から“この辺りの誰か”にはなったってことだ。


「……どんな男なんですか」


 俺が聞くと、佐野は少しだけ目を伏せてから答えた。


「若い。二十代後半から三十代前半くらい。整った顔。物腰は普通。外から見れば、むしろ感じがいい方に見えるかもしれない」


 アリスの顔が少しだけ強張る。

 普通に見える。感じがいい。

 それが、今の俺たちには一番怖い。


「職業や生活の表向きの情報はある。でも、輪郭が薄い」


 佐野は淡々と続ける。


「人付き合いが少ないわけじゃない。なのに、親密な人間の影が妙に少ない。仕事の経歴はある。なのに、生活の匂いがしない。……そういう人間がいる」


 俺は黙って聞いていた。頭の中で、倉庫街で見た男の顔が重なる。整っていて、普通で、でも目だけが変だった男。


 佐野はファイルから一枚の紙を抜いた。印刷された地図。そこに赤いペンで丸がいくつかつけてある。


「これは、朝日の駅の周辺。こっちは連続事件の現場。こっちが倉庫街」


 赤い丸が、別々の場所に打たれている。だが、全部がバラバラというわけじゃない。点を結ぶと、同じ生活圏の縁に乗っているようにも見える。


「偶然にしては、寄りすぎてる」


 佐野が言う。


「しかも、この男に繋がる仮名義の仕事先と、移動ルートを重ねると、もっと寄る」


 紙の上に線が引かれる。

 駅。

 倉庫街。

 連続事件。

 偶然では片づけたくない一致。


 健一さんが低く聞く。


「名前は」


 病室の空気が止まる。


 佐野はすぐには答えなかった。代わりに、視線をアリスへ向けた。


「その前に」


「……何」


 アリスが、緊張した声で返す。


「もう一度、天音アイラの話を聞きたい」


 俺は思わず眉をひそめた。やっぱりそこへ繋がる。だが、どう繋がるのかがまだ見えない。


 アリスも戸惑っていた。けれど、逃げはしなかった。


「……どこを?」


「昨日会った時の様子。誰かに見られてる感じがなかったか、変な違和感がなかったか、細かいことでも」


 それは探偵の質問だった。アリスは少しだけ考えてから、ゆっくり話し始めた。


「駅前のカフェだった。最初から最後まで、人は多かった。……変な人が近くにいたとか、そういうのは覚えてない」


「写真は撮った?」


 佐野が聞く。


 アリスが少しだけ目を見開く。


「……最初に会った時は撮った。昨日は撮ってない」


「最初の写真、まだある?」


「あるけど……」


「消さないで持ってて。あと、誰に送った?」


 アリスの視線が、一瞬だけ俺に向く。俺も、その意味を理解した。あの写真は俺に送られてきた。あの衝撃は、今でも忘れられない。


「……隆太郎に送った」


 佐野は小さく頷いた。


「他には?」


「他はない」


「SNSには?」


「上げてない」


「ならまだいい」


 その“まだ”が、ひどく嫌な響きを持っていた。


 俺は聞いた。


「写真がどう関係するんですか」


 佐野はファイルを膝の上に置き、静かに言った。


「犯人は、たぶん“観察”する」


 アリスの肩がびくっと揺れる。


「標的を決める前も、決めた後も。場所、癖、行動範囲、人間関係。……だから写真は、ただの記念じゃなくなることがある」


 思い出の写真が、別の意味を持つ。

 それが嫌でたまらなかった。


「アイラと白金さんが並ぶ意味も、あの男にとっては無意味じゃない可能性がある」


 そこで、アリスがようやく真正面から聞いた。


「……どういう意味?」


 佐野は一拍だけ黙る。言うべきかどうかを測っている沈黙だ。


「まだ断定じゃない」


 その前置きが、逆に重い。


「でも、白金さんとアイラが並ぶと、“気づく人間”は気づくかもしれない」


 俺は喉の奥が冷たくなるのを感じた。

 気づく人間。

 アリスとアイラの顔の似方に。

 その不自然さに。

 その意味に。


 佐野がどこまで掴んでいるのか、まだ分からない。

 でも少なくとも、“二人が似ていること”を、この人は偶然とは見ていない。


 アリスは黙ったまま、自分の膝の上で手を握った。

 強く、でも震えないように、という握り方だ。


「……佐野さん」


 俺が呼ぶ。


「名前、教えてください」


 佐野の目がこちらへ向いた。


「今の時点で、私が一番怪しいと思ってる男の名前。……聞く覚悟ある?」


 試すみたいな言い方ではなかった。

 本当に確認している声だった。


 俺は頷いた。

 健一さんも、無言で目だけを佐野に向ける。

 アリスも、少し遅れて頷いた。


 佐野は、その三つの反応を見てから、ゆっくり息を吐いた。


「まだ断定じゃない。警察にそのまま持っていける証拠も足りない。……でも」


 そこで一度だけ区切る。


「私が今、一番濃いと見てるのは――」


 だが、その瞬間、病室のドアがノックされた。


 看護師だった。消灯前の確認らしい。あまり長い面会は困るという、柔らかい注意。タイミングが悪いのか、あるいは良すぎるのか、判断がつかなかった。


 佐野は少しだけ舌打ちしそうな顔をしたが、すぐに抑えた。


「……続きは明日」


「佐野さん」


 俺が思わず食い下がると、佐野は首を横に振る。


「今ここで焦っても、名前だけが先に独り歩きする。私もまだ、一つ確認したいことが残ってる」


 そこまで言われると、無理は言えない。怪我人で、入院中で、それでもここまで話してくれているんだ。分かっている。分かっているのに、名前が喉元まで出かかって止まったみたいな焦れ方がする。


 アリスも同じだったのか、唇を少しだけ噛んでいた。怖いのに、知りたい。今の私たちは、ずっとその繰り返しだ。


 佐野は、最後に俺たちを見て言った。


「ただ一つだけ、今夜のうちに頭に入れておいて」


 その声は、これまでで一番低かった。


「相手は、もう白金さんを“次の標的”として認識してる可能性が高い」


 心臓が一瞬で冷える。


「それを前提に動いて。……もう、“たぶん大丈夫”では考えないで」


 そこまで言って、佐野は小さく息を吐いた。痛みが走ったのか、眉がわずかに寄る。


 俺たちはそれ以上何も言えなかった。


 病室を出る時、アリスは振り返って小さく頭を下げた。


「……また来る」


「うん」


 佐野は短く頷く。その顔は疲れているのに、どこかまだ前を向いていた。あの人はたぶん、ベッドの上でも追うことをやめない。


 病院の廊下を歩きながら、アリスは何も言わなかった。俺も言えなかった。さっきの“名前が出かかった”感覚だけが、ずっと喉に引っかかっている。


 外へ出ると、夜風が少し強くなっていた。


「……明日、なんだね」


 アリスがぽつりと言う。


「うん」


「また待つの、しんどい」


 それは本音だろう。俺も同じだ。


「でも、今日よりは少し近づいた」


 俺が言うと、アリスは少しだけ目を細めた。


「近づいてるの、嫌な感じもする」


「分かる」


 真実に近づくことは、同時に危険にも近づくことだ。

 それが、今の俺たちにははっきり分かってしまう。


 帰り道、俺たちは前より少しだけ歩幅を揃えて歩いた。気づけば、アリスが自然に俺の袖を握っている。前みたいな甘え方じゃない。支えを確認するみたいな握り方だ。


「隆太郎」


「ん?」


「明日も、一緒にいて」


「いる」


 それだけは、迷わず言えた。


 病院の明かりが遠ざかる。

 名前はまだ聞けなかった。

 でも、確実に“誰か”の輪郭は見え始めている。


 その輪郭がはっきりした時、たぶん今までの“普通”は、もう一段階壊れる。


 それでも、進むしかなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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