解明の時間まで残り……
翌日の朝、佐野雪芽は病室の白い天井を見上げながら、心底うんざりしていた。
入院というものは、身体を休めるには向いているのかもしれない。少なくとも、ベッドは勝手に逃げないし、点滴は律儀に落ちるし、看護師はこっちが嫌がっても一定の時間で体温を測りに来る。そういう意味では、人間を強制的に「回復させる側」へ押し込む装置としては優秀だ。
ただ、頭の回転まで止まってくれるわけじゃない。
むしろ身体が動けない分だけ、思考ばかりが先に進む。進んだ思考は、処理されないまま頭の中に溜まっていく。佐野にとって、じっとしている時間は回復より拷問に近かった。
「退屈……」
小さく呟いて、佐野は枕元のスマホを取った。
時刻は朝の七時二十二分。
病院の朝は早い。廊下ではすでにワゴンの音がしているし、どこか遠くで看護師同士の短い連絡も聞こえる。規則正しく整えられた生活音は、嫌いではない。嫌いではないが、自分がその管理下に置かれている事実は好きになれなかった。
画面には昨夜までに整理したメモが残っている。
倉庫街の古い法人名義口座。
自首犯に流れた不自然な金。
接触場所。
夜間だけ動いた車両の記録。
そして、あの男の顔。
「普通すぎるんだよね」
佐野は小さく言った。
整っている。若い。服装も声も普通。街を歩いていても、通勤途中でも、コンビニでアイスを選んでいても何も違和感がない。そういう“普通”の顔をしているくせに、二本目のナイフを出す瞬間だけ、まったく別の温度になる。
あれは、慣れていた。
勢いで刺す人間の動きじゃない。
怖くて震えながら振るう刃でもない。
距離、角度、重心の置き方、引き際。全部が滑らかすぎた。
だからこそ、朝日の件と繋がる。
ホームのあの瞬間に映っていた腕の入り方。
人波の中で“不自然に自然”な立ち位置。
押したあと、騒ぎに紛れるのが早すぎる身のこなし。
「同じ匂い」
それを証拠にはできない。
でも、証拠にできないことと、間違っていることは別だ。
佐野はベッドの背を少し起こして、脇腹に走る鈍い痛みに顔をしかめた。傷は浅かった。肩口も同じだ。命に別状はない。だが、痛いものは痛いし、無理に動けば看護師に怒られる程度には“患者”だった。
スマホを開き、昨夜取れた情報をもう一度見直す。
倉庫街の近くで夜間だけ使われていた搬入路。
その時間帯に停まっていた車の一部。
さらに、自首犯が金を受け取った前後で接触した人物のうち、表向きの職歴や居住地が妙に薄い男。
薄い、というのは曖昧な言い方だ。
だが、個人を調べていて時々いる。情報はある。あるのに、人間の輪郭が不自然に見えない人間。転職歴だけが並び、生活の匂いが乏しい。親しい人間の痕跡も薄く、SNSも普通すぎて、普通だからこそ逆に作り物っぽい。
その男の名前は、メモの一番下に控えてある。
まだ、断定には使えない。
だが、ここを外したら逆に不自然だと感じるくらいには、線が寄ってきていた。
病室のドアが軽くノックされる。朝の回診だろうと思って視線を向けると、入ってきたのは医師ではなく、看護師だった。
「佐野さん、痛みどうですか?」
「退屈の方が痛いです」
「そこは治療できませんね」
あっさり切り返されて、佐野は少しだけ口元を緩めた。こういう人は嫌いじゃない。
点滴の確認と体温測定が済むと、看護師は「今日は無理しないでくださいね」とお決まりの台詞を残して出ていった。無理しないで、と言われて無理をしなかったら、自分はここまで来ていない。
「まあ、今日はさすがにね……」
誰に言うでもなくそう呟いて、佐野は再びスマホへ視線を落とした。
今動けないなら、今は頭を使うしかない。
そして、そういう意味では病院は悪くなかった。移動ができない代わりに、人が会いに来る。電話も取れる。画面も見られる。動きすぎて雑になるより、傷を抱えたまま椅子に座って整理した方が、逆に見えることもある。
佐野はまず、昨夜の倉庫街周辺の防犯カメラの死角と、車両の流れを時間順に並べた。紙のメモでは足りず、スマホのメモアプリとノートを併用する。倉庫に接触した可能性のある車は全部で七台。そのうち、個人利用と断定できるものを外す。業務車両を外す。夜間のルートとして自然なものを外す。残るのは二台。そのうち一台は、法人名義口座と微妙に繋がるレンタカー会社の履歴にかかっていた。
「へえ……」
そこまで出ると、さすがに薄い霧が少し晴れる。
男は、慎重だ。
個人名義の車を使わない。
接触場所も固定しない。
金は表向き別の流れへ落としてから渡す。
自首犯は、単なる捨て駒。
なら、こいつは“最初から逃げる前提”で動いている。
そういう人間が、倉庫街で佐野を殺しかけた。
つまり――あの時点で、佐野は相手にとって“消す必要のある存在”だったということだ。
「悪くない」
探偵としては最悪だが、線の拾い方としては悪くない。
犯人側が慌てた瞬間にしか落ちない情報もある。
八時半を回った頃、佐野は太刀川健一に短く送った。
『少し進展あるかも。まだ断定はしない』
『今夜までにもう一段整理する』
続けて、宮本隆太郎にも送る。
『少し進展あるかも』
『期待しすぎないで待ってて』
送信してから、少し考える。
白金アリスのことも気にかかる。
犯人は、佐野を消しに来た。ということは、自分に嗅ぎつけられたくない何かがある。なら、その何かに最も近い位置にいる“白金アリス”は、もう一度見られていてもおかしくない。
佐野は迷った末に、もう一文だけ隆太郎へ送った。
『写真の扱い、ほんとに気をつけて』
『背景も含めて場所が読まれる』
過保護だと思われても構わない。
実際、今はそれくらい言っておいた方がいい。
メッセージを送り終えたところで、佐野は小さく息を吐いた。傷が引きつれて、すぐ顔をしかめる。自業自得だ。自覚はある。あるが、反省して止まれるなら探偵なんてやっていない。
午前の時間は、いくつかの照合で消えた。
連続事件で“たまたま”目撃証言が薄かった場所。
その周辺で“たまたま”電波の記録が弱い時間帯。
そして、自首犯と接触していた男の仮名義の仕事先。
ばらばらだったものが、少しずつ同じ方向を向く。
昼前になって、佐野はようやく一つの名前をノートの中央へ書いた。
まだ、ここでは声に出さない。
出すと、それだけで形が固まりすぎる気がした。
その代わり、名前の横に短くメモする。
『顔が良すぎる』
『普通に見えすぎる』
『演技がうまい』
『刃物二本』
『追い詰めると逃げる判断が早い』
その五つのメモが、ひどく嫌な一致を見せていた。
昼過ぎ、病室のドアが開いて、医師が短く傷の具合を確認していった。「明日か明後日には退院できるでしょう」と言われ、佐野は表情を変えなかったが、内心では少しだけほっとした。動けるようになれば、やることが増える。増えることが、今はありがたい。
医師が出たあと、佐野はスマホを取り、ためらいなく発信した。
相手は、宮本隆太郎。
『もしもし』
出るまでの間が短い。警戒している人間の反応だ。
「病人の声が聞けて嬉しい?」
佐野が言うと、電話の向こうで小さく息を呑む音がした。
『……佐野さん』
「生きてるよ」
『それは昨日聞きました』
「そうだっけ」
軽く返してから、佐野は少し真面目な声に戻す。
「今、学校?」
『帰り道です』
「白金さんは一緒?」
『今は隣にいます』
良い。少なくとも一人じゃない。
「聞こえないようにしなくていい。後で二人にまとめて言うことと、今、君だけに釘を刺したいことがある」
数秒の沈黙。おそらく隆太郎は、言葉を選んでいる。
『……何ですか』
「白金さんを一人にしないで。今までより徹底して」
電話の向こうの空気が少し固くなるのが分かる。
『何か分かったんですか』
「断定はまだ。でも、倉庫街で私を消しに来たってことは、相手が焦ってる可能性がある」
佐野はベッドの上で姿勢を変え、脇腹の痛みに一瞬だけ息を止めた。
「焦る相手は、予定を早めることがある」
『……アリスが、ですか』
「可能性の話。でも、可能性で止められるうちに止めた方がいい」
隆太郎は少しの間、何も言わなかった。だが、沈黙の向こうにあるのが恐怖だけじゃないのも分かった。あの少年は、怖がりながら動こうとするタイプだ。
『分かりました』
声は低かったが、揺れてはいなかった。
「あと、君」
『はい』
「一人で飛び出さないで」
佐野がそう言うと、今度は電話の向こうで明らかに間ができた。
『……努力します』
「努力じゃなくて約束して」
『……約束します』
その返答に、佐野は少しだけ満足した。守れるかどうかは別だ。だが、口にさせること自体には意味がある。
「じゃあ、今日はそれだけ。白金さんにも、後で会えたら話す」
『分かりました』
通話を切ってから、佐野は目を閉じた。
隆太郎は危うい。
でも、危うい人間ほど、守るものが定まると強い。
あとは、その強さが暴走しなければいい。
夕方まで、佐野はさらに資料を詰めた。
断定の精度を上げるために、削れる可能性を全部削る。違うルート、違う人物、違う接触。消して、残す。消して、残す。最後に残るものだけが価値を持つ。
そして日が傾き始めた頃、病室の窓の外が薄い橙に染まる中、佐野はようやくノートを閉じた。
「……これだね」
小さく呟く。
まだ証拠じゃない。
でも、真実に最も近い線だ。
スマホを開き、二つの宛先を選ぶ。
太刀川健一。
宮本隆太郎。
件名は同じにした。
『個人的に。今夜確認したいことがある』
本文は、まだ名前を出さない。名前を出すには、最後の一押しが必要だ。だが、場所と時間は送る。もし戻らなければ、そこで全部が繋がるように。
送信ボタンの上で、指が一瞬止まった。
病室の静けさの中で、佐野は自分の鼓動を聞いた。怖くないわけじゃない。むしろ、こういう時ほど怖い。怖いのに行くのは、性格が悪いからだ。自覚はある。
「……ほんと、やだ」
呟いて、送信する。
夜が来る前に、最後の確認をしなければならない。
そしてその先で、たぶん――相手の顔と名前が、ようやく一致する。
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