束の間の休息
アリスとアイラが二人で会う約束をした、と聞いた夜から、俺の中に小さな緊張が居座るようになった。
不安、と言い切るには少し違う。
嫉妬でもない。
もちろん、アリスを疑っているわけでも、アイラを疑っているわけでもない。
ただ、今の俺は“二人が会う”という行為を、普通の友達同士の約束としてだけ受け取れなくなっていた。
アリスにとってアイラは、少しずつ仲良くなり始めた友達だ。
アイラにとってアリスは、眩しくて、優しくて、でもまだ少し距離の測り方が難しい相手なんだと思う。
その二人の間に、俺だけが知っている“別の意味”が横たわっている。
エンマちゃんの言葉。
転生体のコピー元。
白金アリスと天音アイラ。
だからといって、二人を引き離す理由にはならない。
ならないのに、胸の奥で何かがざわつく。
結局その夜、俺は寝る前にアリスへ一つだけ送った。
『会う場所決まったら教えて』
『人が多いところな』
少しして、アリスからすぐ返ってくる。
『うん! 駅前のカフェにするって送った』
『心配しすぎ』
最後の一文の後に、困った顔の絵文字がついていた。からかわれているのか、呆れられているのか、その中間みたいな文面だ。
俺は短く返す。
『仕事です』
『何の仕事?』
『見守り係』
送ると、アリスから笑っているスタンプが返ってきた。
そのスタンプを見ただけで、少しだけ肩の力が抜ける。
重くなりすぎると、たぶんアリスは息が詰まる。
だから、こういう軽さを残しておかないといけない。
※ ※ ※
翌日の朝、空はよく晴れていた。
秋の晴れは、夏の晴れと違って輪郭がくっきりしている。雲の形がはっきり見えて、空気の薄さまで目で分かるような気がする。歩いているだけで少しだけ気持ちが整う。整うからこそ、余計なことまで考えてしまう日でもある。
太刀川家の前でアリスと合流すると、アリスは開口一番に言った。
「今日、放課後会うことになった」
「今日か」
「うん。アイラさんも今日なら大丈夫だって」
思ったより早い。
いや、アリスが動く時はいつもわりと早いか。
「場所は?」
「駅前のカフェ。前に二人で話したところ」
それならまだ安心材料はある。人が多くて、開けていて、逃げ場もある。少なくとも“変なこと”が起きにくい場所だ。
そう思った瞬間、佐野の言葉が頭をよぎる。
普通に見える場所だから安心、とは限らない。
普通に見える人間ほど危ない時がある。
俺は一度だけ息を吸って、その考えを押し戻した。今の段階で全部を危険認定していたら、アリスは何もできなくなる。警戒と束縛は似ているようで違う。そこを間違えたくなかった。
「終わったら連絡してくれ」
「うん」
アリスは頷いて、それから俺の顔を少し覗き込むように見た。
「……怒ってない?」
「何に」
「私が二人で会うの」
その問いに、俺は少しだけ言葉を選んだ。
「怒ってない」
本音だ。怒ってはいない。
ただ、少しだけ落ち着かないだけだ。
「心配はしてる。でも、それはいつも通り」
そう言うと、アリスは少しだけ安心したように笑った。
「よかった。……なんか、ちゃんと友達になれそうだから」
その言葉に、俺も小さく頷いた。
そこを否定したくはない。否定した瞬間、たぶん全部が歪む。
学校へ向かう道の途中で、アリスが小さく言った。
「ねえ、隆太郎」
「ん?」
「アイラさん、最初に会った時より、少しだけちゃんと笑うようになったんだよ」
「そうか」
「うん。あの子、たぶんずっと人に気を遣ってる。嫌われないように、迷惑にならないように、って」
アリスの言葉は、たぶん的確だった。
俺も、アイラのそういう遠慮を何度か見たことがある。
「だから、私といる時くらい、“いていい”って思ってほしい」
その言い方が、いかにもアリスらしかった。
友達になりたい、仲良くしたい、というより、“ここにいていいと思ってほしい”。
アリスは、そういう風に人を拾う。
だから人が寄ってくるんだろうし、だからこそ傷つくこともあるんだろう。
「……お前らしいな」
俺が言うと、アリスは少し照れたように笑った。
「褒めてる?」
「褒めてる」
そう返すと、アリスは少しだけ胸を張った。
※ ※ ※
その日の授業は、どうにも集中しきれなかった。
黒板の文字は写す。先生の声も聞いている。けれど、頭のどこか別の場所で、ずっと時計を気にしている。アリスとアイラが会うのは放課後だ。たったそれだけのことなのに、変に気になる。
昼休み、アリスはいつも通り俺の席の近くへ来て、弁当を広げた。表情は明るい。緊張していないわけじゃないだろうが、それ以上に楽しみが勝っている顔だ。
「今日ね、何話そうかなって考えてた」
「何話すんだ」
「うーん……学校のこととか、本のこととか、あと、服のこと」
「服」
「うん。今度、この前見たカーディガン似合いそうって言おうかなって」
あの試着の時のことを思い出す。アイラは真っ赤になっていた。ああいうタイプは、褒められ慣れていないのが分かる。
「また真っ赤になるぞ」
「可愛いからいいの」
アリスが即答する。そういうところだぞ、と思うが、たぶんそこがアリスのいいところでもある。
放課後が近づくにつれて、アリスの落ち着きのなさが少しずつ出てきた。授業の終わり、ノートをしまう手が少し早い。髪をさりげなく整えている回数が多い。緊張しているのに、楽しみで仕方ない時の顔だ。
ホームルームが終わり、クラスメイトたちが一斉に立ち上がる。アリスも鞄を持って、俺の方へ少しだけ寄ってきた。
「行ってくる」
「ああ」
「終わったら連絡する」
「必ず」
「うん」
そこで少しだけ間が空く。
アリスは何か言いたそうにして、それから小さく言った。
「……大丈夫だよ」
その“大丈夫”は、たぶん俺に向けたものだった。自分に言い聞かせるだけじゃなく、俺を落ち着かせようとしている。
「分かってる」
そう返すと、アリスは少し笑って教室を出ていった。
扉が閉まったあと、俺はその場に少しだけ立ち尽くした。追いかけるわけにはいかない。いや、追いかけようと思えばできる。でも、それをした瞬間に、アリスの“自分で友達と会いに行く”という時間を壊すことになる。
だから、ここで待つしかない。
教室が少しずつ空いていく。俺はわざとゆっくり帰る準備をした。ノートをしまい、机の中を確認し、筆箱を閉じる。必要もないのにそんなことをして時間を潰す。
スマホを見ても、まだ連絡はない。
当たり前だ。会ったばかりの時間に、わざわざ途中報告なんてしない。そう分かっているのに、画面を見てしまう。
結局、俺はまっすぐ帰らず、学校近くの書店へ寄った。人のいる場所で時間を潰したかったのもあるし、家に帰っても余計に落ち着かない気がしたのもある。
書店の中は静かだった。新刊のコーナー、文庫の棚、雑誌の平台。紙の匂いは落ち着く。けれど今日は、本のタイトルが頭に入ってこない。視線だけが滑って、内容が残らない。
そんな状態で十分ほど時間を潰した頃、ようやくスマホが震えた。
アリスからだった。
『今ちょっと休憩してる』
『アイラさん、前よりいっぱい話してくれる!』
その二文だけで、胸の奥の固さが少しだけほどけた。
大丈夫そうだ。
少なくとも今のところは。
俺はすぐ返す。
『よかった』
『終わったら連絡して。迎え行く』
少しして返事。
『うん!』
『でも、駅前だし、そこまで大げさじゃなくていいよ?』
その文面に、俺は少しだけ苦笑した。大げさかどうかを決めるのは、今はたぶん俺の役割だ。
『迎えに行く』
短く返す。
しばらくして、アリスから笑っているスタンプが来た。
※ ※ ※
約束の時間より少し早めに、俺は駅前へ向かった。
夕方の駅前は、人が多い。仕事帰りの大人、学生、買い物帰りの人。人の流れが絶えない。こういう場所なら、少なくともあからさまな危険は起きにくい。
カフェの外から中を覗くと、奥の席に二人の姿が見えた。
アリスは身振りを少し大きくしながら話している。アイラは最初の頃みたいに固まってはいない。カップを両手で持ちながら、ちゃんと相槌を打っている。時々、ほんの少しだけ笑う。その笑いが、前より自然だった。
ああ、本当に仲良くなっているんだな、と思った。
同時に、胸のどこかが少しだけ苦しくなる。理由は分からない。たぶん、エンマちゃんの言葉を知っているからだ。そうじゃなければ、きっともっと素直に“よかった”だけで済んでいた。
店に入らず、少し離れた柱のそばで待つ。アリスは俺が来たことに気づいていない。アイラもだ。今はそれでいい。
十分ほどして、二人が店を出てきた。
アリスが先に俺に気づいた。
「あ、隆太郎!」
ぱっと笑って手を振る。その声でアイラもこちらを見る。目が合うと、アイラは少しだけ驚いた顔をして、それから小さく会釈した。
「……こんばんは」
「こんばんは」
俺も返す。
アリスは上機嫌だった。分かりやすいくらいに。
「ねえ、アイラさんね、今日は本の話いっぱいしてくれたの!」
「アリスさんが、聞き上手なんです……」
アイラが小さく言う。その声に、前より少しだけ柔らかさがある。アリスと二人きりで話したことが、ちゃんと効いているんだろう。
「あとね、今度は本屋さんめぐりしようって話になった!」
アリスが言う。
アイラは少し照れたように目を伏せたが、否定しなかった。
「……もし、よければ……」
その“もし、よければ”がアイラらしい。前置きがないと、まだ自分の希望を出せないんだろう。
「いいんじゃないか」
俺がそう言うと、アイラが一瞬だけこちらを見る。目の中に、安堵みたいな色が混じる。俺が反対しないか、どこかで気にしていたのかもしれない。
駅前の広場で少しだけ立ち話をしてから、アイラと別れることになった。
「……今日は、ありがとうございました」
アイラが言う。最初の頃に比べると、礼の言葉に余裕がある。習慣みたいに謝る感じじゃなく、ちゃんと“楽しかった”の延長として出ている礼だった。
「こちらこそ!」
アリスが笑う。
「また連絡するね」
「……はい」
アイラは頷いて、それから俺にも小さく頭を下げた。俺も会釈を返す。
前みたいな居心地の悪い間は、少し薄くなっていた。
アイラが改札へ向かっていく背中を見送りながら、アリスが小さく言った。
「今日、すごく楽しかった」
「顔見れば分かる」
「そんなに?」
「そんなに」
アリスが嬉しそうに笑う。こういう笑顔を見ると、やっぱり友達って大事なんだと思う。恋人じゃ埋められない部分が、人間関係にはある。そこを埋められる相手ができるのは、すごく良いことだ。
「アイラさんね、最初より全然話してくれるようになった」
帰り道、アリスはずっとその話をしていた。
「でも、まだやっぱり自分のこと後回しにするの。私が“これ食べたい”って言うと、“じゃあ私は何でもいい”ってすぐ言うし。本当は食べたいものあるのに」
「遠慮が強いんだろ」
「うん。だから、ちょっとずつ“自分の好き”を言えるようになってくれたらいいなって思った」
アリスはそう言って、少しだけ真面目な顔をした。
「……私、アイラさんのこと、ちゃんと友達になりたい」
その言葉は、まっすぐだった。
ちゃんと友達になりたい。
“仲良くしたい”より、少しだけ責任のある言い方だ。
俺は頷いた。
「なれるよ」
そう言うと、アリスは少しだけ目を細めた。
「隆太郎がそう言うなら、なれる気がする」
そんなことを言われると、余計な責任まで背負いそうになる。だが、今はそれでよかった。
太刀川家の前に着いて、アリスが立ち止まる。
「今日はね、怖いより楽しいが勝った」
その言葉に、俺は少しだけ救われた。
毎日そうはいかないだろう。けれど、そういう日が一日でもあるなら、人は前に進める。
「よかった」
「うん。……今日も」
「好きだよ」
先に言うと、アリスが少しだけ笑って頬を染めた。
「最近、先に言うね」
「お前が待ってる顔するからな」
「してる?」
「してる」
アリスが少し照れながら笑って、それから小さく手を振って家に入っていった。
俺はその背中を見送り、自宅へ向かった。
今夜は少しだけ気持ちが軽かった。
それは、アリスが笑っていたからだ。
アイラとちゃんと友達になれそうだと、嬉しそうだったからだ。
けれど、その軽さの下に、まだ沈んでいるものもある。
エンマちゃんの忠告。
佐野の警戒。
普通に見える危険。
そして、まだ名前のない犯人。
日常は戻ってきたように見える。
でも、本当は戻っていない。
ただ、俺たちが“戻すように生きている”だけだ。
その夜、寝る前に佐野から短いメッセージが届いた。
『明日、少し進展あるかも』
『期待しすぎないで待ってて』
期待しすぎないで、という言い方が逆に期待を煽る。俺は少しだけ眉をひそめながら、短く返した。
『分かりました』
スマホを伏せる。
明日、また何かが動く。
少しずつ、確実に、事件は俺たちの方へ歩いてきている。
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