生活の形
警戒を“生活の形”にしようとしても、最初のうちはどうしても不格好になる。
朝は必ず俺が迎えに行く。
帰りはなるべく二人で帰る。
寄り道は人の多い場所だけ。
写真は不用意に送らない。
家に着いたら連絡する。
夜は窓と鍵を確認する。
やること自体は単純だ。単純なのに、ひとつ増えるたびに“前は考えなくてよかったこと”が増える。そうなると、普通の生活をしているはずなのに、生活の輪郭だけが少し硬くなる。
火曜日の朝、俺は家を出る前に自分のスマホを確認して、それから玄関の鍵を閉めた。
空は薄く曇っていた。日差しがないぶん、朝の空気は少し冷たい。制服の上に羽織った薄手の上着がちょうどいいくらいの気温だ。通学路の木々も、昨日よりほんの少しだけ色づいて見えた。
太刀川家の前に着くと、アリスはもう門のところで待っていた。
「おはよ」
「おはよう」
アリスは小さく手を上げたあと、俺の顔をじっと見た。
「今日は少しだけマシ」
「何が」
「顔」
朝から失礼だなと思うのに、たぶんその評価は正しい。昨日よりは呼吸が浅くない。緊張はあるけど、神経だけで立っている感じではない。
「お前は」
俺が聞くと、アリスは少しだけ胸を張った。
「今日はけっこう大丈夫」
「“けっこう”なのか」
「昨日よりは、ね」
その言い方に少しだけ安心する。怖さが消えたわけじゃない。でも、怖さに全部を持っていかれていない。
並んで歩き出す。朝の道は、夜よりずっとマシだ。人がいる。車も多い。視界も開けている。なのに俺はやっぱり、交差点や細い脇道の入口を見る癖が抜けない。
それに気づいたのか、アリスが少しだけ苦笑した。
「隆太郎」
「ん?」
「見張りすぎ」
「見張ってない。確認してるだけだ」
「言い換えが佐野さんみたい」
その一言に、俺は少しだけ顔をしかめた。否定しづらい。最近の俺はたぶん、前より“違和感を探す目”になっている。
「嫌そうな顔した」
「実際、あんまり嬉しくない」
「でも、私を見てくれてるのは嬉しいよ」
アリスがそう言って、ほんの少しだけ笑った。照れた笑いじゃない。落ち着かせるための笑いに近い。
こういう時、アリスは強い。自分も不安なはずなのに、こっちの張り詰めもちゃんと見ている。俺一人だけが守っているつもりになっていたら、たぶん痛い目を見る。守られている側も、ちゃんとこちらを支えてくれている。
学校へ着くと、いつもの雑音が俺たちを包んだ。
教室のざわめき、椅子を引く音、誰かの眠そうなあくび。事件のことも、警戒のことも、教室の中に入るといったん薄くなる。薄くなるだけで消えはしないが、それでもこの空間にはまだ“普通”が残っている。
午前の授業をどうにか終えて昼休みになると、アリスが弁当を持って俺の席の近くへ来た。
「ねえ、見て」
小声で言ってスマホを差し出してくる。
画面には、アイラからのメッセージが表示されていた。
『昨日は、ありがとうございました。
今日は少しだけ忙しいので、また落ち着いたら連絡します』
短い。控えめ。けれど、前より少しだけ自然だ。前なら“すみません”がもっと多かった気がする。今はちゃんと“また連絡します”と書いている。それは、関係を終わらせるつもりがないってことだ。
「来たんだな」
「うん」
アリスが嬉しそうに頷く。
「でも、無理に返しすぎない方がいいよね」
「そうだな。普通に返せばいい」
「普通、難しい」
アリスが唇を尖らせる。そういう顔を見ると、少しだけ笑ってしまう。
「難しく考えすぎると変になる」
「それは分かる」
アリスは少し考えてから、短く返信を打った。
『ううん、大丈夫だよ!
また落ち着いたら話そうね』
送って、俺の方を見る。
「どう?」
「いいと思う」
「よし」
アリスは満足そうにスマホをしまった。アイラとの関係は、少なくとも今のところ切れていない。それがアリスにとっては救いなんだろう。
けれど、その“救い”がいつ危険と繋がるか分からないのが、今の状況の嫌なところだった。
午後の授業が終わり、放課後になる。
今日はアリスも俺もすぐ帰るつもりだった。委員の仕事も入れず、寄り道もしない。少し過剰なくらいでいい。まだそういう時期だ。
校門を出たところで、俺のスマホが震えた。
佐野からだった。
『退屈すぎて死にそう』
それを見た瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。病院で寝ている人間の第一声がそれかと思うが、逆に言えばそれくらいの余裕はあるってことだ。
すぐ次のメッセージが来る。
『今、昨日の倉庫街周辺の地図と、接触時間帯の車の流れを見てる』
『同じルートを続けない方がいい。特に今週』
俺は立ち止まりそうになった。アリスがすぐ隣で「どうしたの?」と聞いてくる。
「佐野さん」
俺が答えると、アリスの表情も少し引き締まる。
「なんて?」
「今週、同じルート続けない方がいいって」
アリスはほんの一瞬だけ黙ってから、すぐ頷いた。
「じゃあ、今日は遠回りしよう」
そういう切り替えができるようになったのは大きい。怖がって固まるんじゃなく、怖さに対して行動を変えられる。
「うん」
俺も頷いた。
いつもの帰り道を外れて、少し大通り側へ回る。時間はかかるが、人通りは多い。店も多い。見られている側にとっては動きづらい道だ。そう信じるしかない。
歩きながら、俺は佐野へ短く返した。
『分かりました。ルート変えます』
既読がつく。
それから、少し間を置いて返信。
『えらい』
『あと、白金さんが写真撮る時は背景も気にして』
そこまで言うかと思う。でも、言われてみると確かにそうだ。場所が特定できるような背景は危ない。前はそこまで意識していなかった。
アリスが横からスマホの画面を見て、小さく言った。
「……ちょっと、スパイっぽい」
「お前まだ言うのか」
「だって背景まで気にするとか、映画みたい」
「映画ならもっと格好いいだろ」
「現実の方が地味で面倒なんだよ」
アリスが言って、俺は少しだけ笑った。確かにその通りだ。現実の警戒は、格好よくない。地味で、細かくて、面倒だ。だから続けるのが難しい。
大通りを歩いていると、交差点の向こう側でスーツ姿の男が立ち止まっているのが目に入った。年齢は二十代後半くらいか。髪型も服装も普通。どこにでもいそうな顔。
俺の足が一瞬だけ止まる。
普通の人間ほど危ない。
佐野の言葉が、勝手に脳の奥で鳴った。
「隆太郎?」
アリスが不思議そうに俺を見る。
「……いや」
信号が変わる。その男は、何でもない顔で歩き出して、人混みに混ざって消えた。たぶん、本当に何でもない。ただの通行人だ。そう思うのに、胸の奥のざわつきだけが少し残る。
俺は自分に言い聞かせる。
疑いすぎるな。
でも、見逃すな。
その中間が、今は一番難しい。
太刀川家の前に着いた時、アリスは少しだけ疲れた顔をしていた。精神的な疲れだろう。何も起きなくても、警戒して歩くだけで人は疲れる。
「今日は、ちょっと疲れた」
「だろうな」
「でも、ちゃんと帰れた」
アリスはそう言って、自分で小さく頷く。言葉にして達成を確認している。
「ちゃんと帰るって、大事だね」
「大事だ」
俺は即答した。
アリスは俺の顔を見て、少しだけ笑う。
「今日の隆太郎、昨日より余裕ある」
「そうか?」
「うん。たぶん、やることが増えたから」
それは、たしかにそうかもしれない。怖さそのものは消えない。でも、やることがあると、人は少しだけ自分を保てる。
「……今日も言って」
アリスが小さく言う。
「好きだよ」
俺がそう言うと、アリスは目を細めて「うん」と頷いた。
家に入っていく背中を見送り、自宅へ戻る。
夜、自室で机に向かっていると、窓の外で風が木を揺らす音がした。前なら気にもしなかった音だ。今は、ほんの少しだけ耳が向く。慣れたくないのに、慣れていく感覚がある。
スマホが震える。
今度は、アイラからだった。
『白金さんから、また連絡きました。
……今度、もしよければ三人じゃなくて、二人で少しだけお話してみたいです』
画面を見て、俺は少しだけ息を止めた。
アリスと二人で。
アイラの方から。
その意味を、どう受け取るべきか。
すぐには返信できない。俺は画面を閉じて、自分の考えすぎに少しだけ苦笑した。
数分後、アリスからメッセージが来る。
『アイラさんから、今度二人で話したいって来た!』
嬉しそうな文面だった。迷いより、喜びの方が勝っている。
俺はしばらく画面を見つめてから、返した。
『よかったな』
『ただ、場所は人の多いとこにしろ』
少し間があって、アリスから返事が来た。
『うん、そうする!』
『でも、ちょっとだけドキドキする』
その一言に、俺は胸の奥が少しざわついた。
アリスとアイラの距離は、また一歩進む。
それはきっと良いことだ。
良いことのはずなのに、今の俺には簡単に“よかった”だけで済ませられない。
エンマちゃんの言葉。
佐野の警告。
普通に見える男。
写真の扱い。
そして、アリスとアイラの繋がり。
全部が少しずつ、同じところへ向かっている気がした。
俺はスマホを伏せ、ノートの端に新しく一行書き足した。
――アリスとアイラが会う時も、事前共有。
守るべきものは、一つの形じゃない。
それを、最近ようやく分かり始めていた。
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