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見える範囲で守るもの

 それからの数日は、目に見えて生活の形が変わった。


 大げさな変化じゃない。家を引っ越すとか、学校を休むとか、そういう派手なものではない。けれど、だからこそ神経を使う変化だった。


 朝は必ず俺が太刀川家の前まで行く。

 帰りは、アリスが一人になる時間をできるだけ作らない。

 放課後に何か予定がある時は、事前に共有する。

 夜は出歩かない。

 写真は軽く送らない。

 知らない番号や、少しでも妙な連絡は無視せずに見せる。


 ひとつひとつは小さい。誰かが見れば「それくらい普通だろ」と言うかもしれない。けれど、その“普通”を意識して毎日やるのは、意外と神経を削る。


 月曜日の朝、俺はいつもより少し早く家を出た。空気は涼しい。通学路の木々が、ほんの少しだけ色を変え始めている。


 太刀川家の門の前で待っていると、玄関が開いてアリスが出てきた。制服姿。鞄を両手で持って、少しだけ眠そうな顔をしている。


「おはよ……」


「おはよう。眠いのか」


「ちょっとだけ。昨日、いろいろ考えちゃって」


 そう言いながらも、アリスの足取りはしっかりしていた。大丈夫なふりじゃない。“不安もあるけど動く”足取りだ。


 俺たちは並んで歩き出した。いつもの道。いつもの時間。けれど、見る場所が前より増えた。曲がり角。駐車場の奥。電柱の陰。通り過ぎる人の顔まで、一瞬だけ確認してしまう。そんな自分が少し嫌だったが、今は嫌だの何だの言っている場合じゃない。


「隆太郎」


「ん?」


「そんなに警戒しなくても、まだ朝だよ」


 アリスが少しだけ苦笑して言った。


「朝でも何かあるかもしれないだろ」


「それはそうだけど……」


 アリスは少しだけ考えてから、言葉を選ぶみたいに続けた。


「私ね、守ってもらえるのは嬉しい。でも、隆太郎がずっと張り詰めてると、私まで苦しくなる」


 その言葉が胸に刺さった。


 正しい。正しすぎる。俺は守ることに意識が向きすぎると、無意識に空気まで固くする。そうすると、アリスの方が“自分が原因でそうさせている”と感じてしまう。


 それは本末転倒だ。


「……悪い」


 俺が言うと、アリスは首を振った。


「謝ってほしいわけじゃないよ。……ただ、たまに呼吸して」


 そう言って、アリスは自分の胸に手を当てて、大きく息を吸って見せた。


「ほら、一回」


 俺は少しだけ呆れながら、でも言われた通りに深呼吸した。冷たい朝の空気が肺に入る。思ったより、ちゃんと息を詰めていたらしい。吐き出した時、少しだけ肩が軽くなった。


「……ありがとう」


「うん。今日はそれでいい」


 アリスがそう言って笑う。そういう時のアリスは、年上みたいな顔をする。朝日の頃から、たまにそういう顔をした。


 学校に着くまでの道で、大きな異変はなかった。ただ、“何もない”ことにほっとするようになった自分がいた。前は何もないのが当たり前だったのに、今は一つ一つ確認してしまう。


 教室へ入ると、いつもの雑音が広がっていた。机を引く音、誰かの笑い声、先生が来る前のざわつき。こういう普通の音が、前よりありがたい。


 午前の授業は、驚くほど頭に入らなかった。黒板の文字を写しているのに、脳のどこか別の場所でずっと“周囲の音”を拾っている。教室の後ろのドアが開くたび、一瞬だけ反応してしまう。さすがに神経質すぎると思うのに、止められない。


 昼休み、アリスが弁当を持って俺の席へ来た。


「今日の隆太郎、たぶん三回くらい先生に当てられてたのに、全部反応遅かった」


「……マジか」


「マジ」


 アリスが小さく笑う。その笑い方に、心配と呆れが半分ずつ混ざっている。


「少し休んだ方がいいよ」


「休んでるつもりなんだけどな」


「つもり、になってるんだよ」


 アリスはそう言って、弁当の卵焼きをひとつ俺の方に寄せた。


「食べる?」


「お前のだろ」


「一個くらいいいよ。元気ない人には卵焼き」


「どういう理屈だ」


「栄養ありそう」


 理屈は雑だが、ありがたく受け取る。こういうやり取りで少しずつ自分を戻していくしかない。


 アリスは箸を動かしながら、ぽつりと言った。


「アイラさんから、昨日の夜に連絡きた」


 俺の手が一瞬止まる。


「……何て」


「“昨日はびっくりしました。でも、楽しかったです”って」


 その文面を聞いただけで、アイラがどれだけ丁寧に、でも無理して文章を作ったか想像できた。驚いた。でも楽しかった。驚きの方を消さずに、楽しかったも残す。あの子らしい。


「よかったな」


「うん。……それでね、“また落ち着いたらお話したいです”って」


 アリスはそこで少しだけ照れたように笑った。


「ちゃんと友達になれそう」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ複雑に揺れた。嬉しい。素直にそう思う。アリスが新しい友達とちゃんと繋がろうとしているのは、すごく良いことだ。


 でも、その友達がアイラであることが、今の俺には普通の意味だけでは済まなくなっている。


 それでも、それを顔に出すわけにはいかなかった。


「……焦らずな」


 俺がそう言うと、アリスは頷いた。


「うん。今度はちゃんと、変にびっくりさせないようにする」


 “付き合ってる”と唐突に言ってしまったあの日のことを思い出しているんだろう。少しだけ気まずそうに笑っていた。


 午後の授業を終えて、放課後になる。今日はアリスも委員の仕事は入れていなかった。放課後に一緒に帰ると決めているだけで、少し安心できる。前までは当たり前だったことが、今は意識的な選択になっている。


 校門を出たところで、俺のスマホが震えた。


 佐野からだった。


『退院はまだ。動けない。暇』


 あまりにも佐野らしい短文で、俺は思わず画面を見たまま少しだけ息を抜いた。暇、じゃないだろう。傷を縫ったばかりの人間が言うことか。


 続けてもう一件。


『けど頭は動く。今夜、少し資料整理する。健一さんにも送る』


 俺は短く返した。


『無理しないでください』


 すぐ既読がついて、返事が来る。


『無理はしてない。性格が悪いだけ』


 その文面を見て、少しだけ笑いそうになった。病院にいても佐野は佐野だ。


「佐野さん?」


 アリスが横から聞いてくる。


「ああ。まだ退院はしてないけど、頭は動いてるらしい」


「それ、佐野さんっぽい」


 アリスも少しだけ笑った。苦手な相手でも、無事だと分かると表情は和らぐ。


 帰り道、俺たちはいつもより少し遠回りをした。人通りの多い道を選んだ結果そうなっただけだが、アリスは途中で小さく言った。


「ねえ、なんかさ」


「ん?」


「前より“帰る”こと自体がイベントみたい」


 その言い方が可笑しくて、俺は少しだけ笑った。


「イベントってほどでもないだろ」


「でも、前は何も考えず歩いてたよ。今は、あっちとこっち見て、車見て、人見て、信号見て……忙しい」


「そうだな」


「でも、こういうのも慣れるのかな」


 アリスの問いに、俺はすぐには答えられなかった。慣れてほしいような、慣れてほしくないような感覚だ。危機感は必要だが、それに人生を乗っ取られるのは違う。


「……慣れるというより、形になるんじゃないか」


 俺はようやくそう言った。


「生活の一部にして、いちいち怖がりすぎないようにする感じ」


 アリスが少し考えてから頷いた。


「そっか。じゃあ、今は“形にしてる途中”なんだね」


「たぶんな」


 太刀川家の前で、アリスはいつもより少し長く俺を見た。


「今日は、昨日よりちょっとだけ普通だった」


「褒めてんのか」


「褒めてる。ちゃんと呼吸してたし」


 朝の深呼吸のことだろう。覚えていたらしい。


 アリスはそこで、少しだけ声を落とした。


「私もね、今日ちょっとだけ普通だった」


 その言葉は重かった。怖い夜のあとでも、学校へ行って、友達と話して、授業を受けて、帰ってくる。そういう一つ一つが“普通”の積み直しなんだろう。


「……よかった」


 俺が言うと、アリスは小さく笑った。


「うん。じゃあ、今日も」


「好きだよ」


 途中で遮るみたいに言うと、アリスが目を丸くして、それから照れたように笑った。


「……ずるい」


「分かってるくせに」


 俺が前に言われた言葉を返すと、アリスが少しだけ楽しそうに肩を揺らした。


「じゃあ、また明日」


「ああ」


 アリスが家に入り、俺は自宅へ向かう。


 夜、自室で宿題を広げていると、アリスから写真が送られてきた。今日の夕飯らしい。恵さんの作ったらしい和風ハンバーグ。そこに一言。


『今日はちゃんと食べれた!』


 俺はすぐ返す。


『えらい』


『子ども扱い!』


『褒めてる』


 そのやり取りだけで、少しだけ気持ちが軽くなる。


 それと同時に、別のメッセージも届いた。


 佐野からだった。


『整理したら、やっぱり変な点が増えた。近いうちに話す』

『あと、今後は白金さんの写真の扱い、ほんとに気をつけて』


 最後の一文が、やけに重かった。


 俺は画面を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。


 守り方を変えた。

 生活も少し変えた。

 それでも、警戒はまだ足りないのかもしれない。


 窓の外は、もう完全に夜だった。

 暗がりの向こうに何があるかなんて、見えない。


 だからこそ、見える範囲を守るしかない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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