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これからの備え

 その夜は、いつもより音が多かった。


 冷蔵庫の低い駆動音。風呂場の換気扇。外を通る車のタイヤの擦れる音。隣の家のテレビの笑い声。普段なら気にも留めない生活の音が、ひとつひとつ妙に耳につく。たぶん、静かになると余計な想像が膨らむからだ。


 アリスを太刀川家まで送り届けたあと、俺は自宅へ戻った。

 帰り道は短い。短いのに、今夜はやけに長く感じた。


 エンマちゃんの言葉が、ずっと頭の中に残っている。


 ――朝日を殺した男が、また動く。

 ――今度の標的は、白金アリス。


 その言葉を、俺はもう“変な冗談”として処理できなかった。転生のことを信じざるを得なくなった時点で、エンマちゃんの忠告だけを軽く扱う理由はない。


 だから、もう“何となく気をつける”では足りない。


 守り方を、具体的に変えなきゃいけない。


 リビングに入ると、母さんがまだ起きていた。テーブルの上にマグカップを置いて、俺の顔を見る。


「遅かったわね」


「……うん」


 それだけ返した瞬間、母さんの表情が少し変わった。いつもの疲れじゃないと分かったんだろう。


「何かあったの?」


 その問いに、俺は少しだけ迷った。


 エンマちゃんのことは、まだ言えない。いや、言っても信じられないだろうし、信じられたら信じられたで話が大きくなりすぎる。今は、必要な危機だけ共有すべきだ。


「……アリスのこと、しばらく今までより気をつけたい」


 俺がそう言うと、母さんは言い返さずに待った。続きを促す沈黙。


「佐野さんの話と……そのあと少し、嫌な感じがあって」


「嫌な感じ、ね」


 母さんはその言葉を繰り返して、短く息を吐いた。


「具体的には?」


「一人で帰らせない。ルートを固定しない。行く場所はちゃんと共有する。……そういうの」


 母さんは頷いた。冗談や考えすぎとして流さない。その代わり、すぐに過剰反応もしない。そこがありがたい。


「分かった。母さんも――じゃなくて、私もそのつもりでいる」


 母さんが自分で言い直して、小さく苦笑する。俺も少しだけ口元が緩んだ。こんな時でも、そういう小さなずれがあると呼吸ができる。


「太刀川さんたちにも話すの?」


「明日、俺から話す」


「うん。……一つだけ」


 母さんが俺をまっすぐ見た。


「守るって決めるのはいい。でも、あなた一人で全部背負わないこと」


 その言葉が、胸の真ん中に落ちた。


 俺はたぶん、一人で背負おうとする癖がある。

 守ると決めたら、なおさらだ。


 けれど、それは正しさじゃない。ひとりで背負って潰れたら、守れるものも守れなくなる。


「……分かってる」


 そう答えたが、どこまで本当に分かっているかは自信がなかった。


 ※ ※ ※


 そのあと、自室に戻ってスマホを見た。


 アリスから、短いメッセージが来ていた。


『お風呂入った。ちょっと落ち着いた』


 その一文だけで、少しだけ息ができる。

 俺はすぐ返した。


『よかった。今日は鍵ちゃんとかけろ。窓も確認して』


 送信してから、少し固すぎるかと思った。だが、今はそれでいい。優しさだけでは守れない夜もある。


 すぐに返事が来る。


『うん、もう確認した!』

『ねえ、隆太郎』


『ん?』


『今日は電話してもいい?』


 その一文を見た瞬間、胸の奥が少し熱くなった。

 怖いのだろう。眠る前に、声を聞いておきたいんだろう。


『する』


 俺がそう返すと、すぐに着信が来た。


「……もしもし」


 出ると、アリスの声が少しだけ近くなる。文字で見るより、やっぱり声の方が状態が分かる。


『もしもし……ごめんね、忙しいのに』


「忙しくない」


『ほんと?』


「ほんと」


 電話の向こうで、アリスが少しだけ息を吐く音がした。言葉より先に、呼吸が落ち着いていくのが分かる。


『なんかね、さっきまで大丈夫って思ってたのに、部屋に一人でいたら急に怖くなってきて』


「うん」


『外の音とか、窓の向こうとか、変に気になって……』


「うん」


 俺は否定しない。怖い時に「気にしすぎだ」と言われるのが一番きついと、今の俺は分かっている。


『変だよね』


「変じゃない」


 即答した。


「今日の話のあとで平気な方が無理ある」


 アリスが少しだけ黙る。たぶん、その一言で少し救われたんだろう。


『……ありがと』


「鍵、ちゃんと見たか」


『見た。窓も見た。カーテンも閉めた』


「偉い」


『えへへ……子ども扱い』


「今夜はそれでいい」


 そう言うと、アリスが小さく笑った。ほんの少しだけ、いつもの温度が戻る。


 それから俺たちは、事件とは関係ない話もした。

 文化祭の時の栗パンの話。アイラが試着で真っ赤になっていた話。アリスが買った紅葉のストラップの話。


 怖い夜ほど、普通の話が効く。


『ねえ、隆太郎』


「ん?」


『明日から、しばらく一緒に来てくれる?』


 その問いは、頼ることを選んだ声だった。

 強がりじゃない。遠慮も少ない。必要だから言う。そういう声。


「もちろん」


 俺が答えると、アリスは少しだけ笑った。


『うん。じゃあ、眠れそう』


 それを聞いて、俺も少しだけ救われた。


 電話を切ったあと、俺は机の上にノートを開いた。勉強のためじゃない。やることを書き出すためだ。


 アリスを守るために必要なこと。

 明日から変えること。


 一、登下校は必ず一緒。

 二、放課後の予定は事前共有。

 三、夜の一人歩きは禁止。

 四、帰宅ルートは複数用意。

 五、家族にも共有。

 六、知らない番号や不審なメッセージはすぐ相談。

 七、写真の扱いに注意。SNSは控える。

 八、佐野さんと健一さんとの連絡を密にする。


 書き出してみると、ようやく少しだけ頭の中が整理される。

 怖さは消えない。けれど、やることがあると人は動ける。


 最後に、ノートの端へ小さく書いた。


 ――一人で背負わない。


 母さんに言われた言葉だった。


 ※ ※ ※


 翌朝、いつもより少し早く家を出た。


 太刀川家の前に着くと、まだアリスは出てきていなかった。門の前で待ちながら、空を見る。少し曇っている。秋の朝は、晴れていてもどこか色が薄い。


 少しして玄関が開き、アリスが出てきた。制服姿。顔色は悪くない。少し寝不足っぽいけど、ちゃんと立っている。


「おはよ」


「おはよう」


 アリスは俺を見るなり、少しだけ安心したように目を細めた。


「来てくれた」


「行くって言っただろ」


「うん……でも、やっぱり実際来ると安心する」


 それを聞いて、俺は胸の奥が少し痛くなる。昨日の夜だけで、アリスの中の“安心の基準”が変わってしまったのかもしれない。


 並んで歩き出す。いつもの通学路。いつものはずなのに、今日は見る角度が違う。人通りの少ない場所、死角、信号待ちで止まる位置。全部が目に入る。


「ねえ、隆太郎」


「ん?」


「昨日のこと、お父さんたちにも話す?」


「話す」


 俺が言うと、アリスは少しだけ唇を引き結んだ。


「そっか」


「嫌か」


「嫌じゃない。……でも、心配させるよね」


 当然だ。だが、心配させないために黙っておいて、後で取り返しがつかなくなる方がもっと悪い。


「心配させる。でも、知らないままの方が危ない」


 アリスは小さく頷いた。


「うん。分かる」


 その返事に、少しだけ大人びた諦めが混ざっている気がした。守られるだけじゃなく、自分も状況を受け止めようとしているんだろう。


 学校へ着くと、昨日と同じ教室のはずなのに、急に遠く感じた。事件の話を知ってしまうと、こういう平和な場所まで薄い膜がかかる。


 それでも授業は始まる。先生は板書する。クラスメイトは眠そうにあくびをする。日常は残酷なくらい普通だ。


 昼休み、俺は健一さんにメッセージを送った。


『今日の夜、少し話したいことがあります。アリスの安全面についてです』


 返事は短かった。


『分かった。夕飯の後で来てくれ』


 その数文字だけで、父親の覚悟みたいなものが伝わってくる。きっと健一さんも、もう“ただ見守るだけ”の段階じゃないと感じているんだろう。


 放課後、アリスは委員の仕事を断った。珍しいことだったが、事情を思えば当然だ。


「今日、まっすぐ帰る」


 アリスが言う。


「それがいい」


「うん。……今は、ちょっとだけ“普通”より安全を優先したい」


 その言葉を自分で言えるのは大きい。怖さに振り回されるんじゃなく、自分で選んでいる。


 帰り道、アリスは途中で小さく笑った。


「なんかさ、私たち、急にスパイ映画みたいになってない?」


「なってない」


「なってるよ。ルート変えるとか、共有するとか」


「スパイ映画にしては地味だろ」


「地味なのがリアルなんだよ」


 そう言って笑う顔に、少しだけ昨日までのアリスが戻る。全部が怖さで塗り潰されていないのを見て、俺は少しだけ安心する。


 太刀川家に着いてから、俺は一度自宅へ戻り、夕飯を済ませてからもう一度向かった。


 リビングには、健一さん、恵さん、母さん、そしてアリスがいた。みんな、いつも通りの席にいるのに、空気だけが少し違う。話すべきことがある空気だ。


 俺は座って、昨日の病院の帰りにエンマちゃんから聞いた忠告――のうち、現実として共有すべき部分だけを話した。


「しばらく、アリスを一人にしない方がいいと思います」


 そこから、俺がノートに書いたことをひとつずつ説明した。登下校、予定共有、ルート変更、夜の外出、写真やSNSの扱い。できることは地味だ。でも、地味なことを積むしかない。


 健一さんは黙って聞いていた。途中で一度も遮らない。全部聞いたあと、短く言う。


「そうしよう」


 それだけだった。けれど、その一言で方針が決まる。


 恵さんは少しだけ顔を曇らせた。


「朝日、しばらく窮屈かもしれないけど……」


「ううん」


 アリスが首を振った。


「今は、ちゃんと守られたい」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけやわらいだ。守られることを、自分から選べる。アリスはそこまで来ている。


 母さんが静かに言う。


「じゃあ私も、帰りの時間は意識しておく。必要なら迎えにも行く」


 それぞれの役割が、ゆっくり決まっていく。


 みんなで守る。

 俺一人じゃない。


 その実感が、ようやく少しだけ胸に落ちた。


 話が終わって、帰る前。アリスが玄関まで送ってくれて、小さく言った。


「隆太郎」


「ん?」


「ありがとう」


「何が」


「ちゃんと考えてくれて」


 アリスはそう言って、少しだけ困ったように笑った。


「怖いけど、でも、怖いだけじゃなくなった。やることあるって分かると、ちょっと息できる」


 それは、昨日の夜に俺が感じたことと同じだった。


「……俺も」


 そう返すと、アリスの目が少しだけ柔らかくなる。


「明日も一緒に来てね」


「もちろん」


 俺が答えると、アリスは満足そうに頷いた。


 この日から、俺たちの“守り方”は変わった。


 言葉だけじゃない。

 気をつけよう、だけじゃない。

 日常の動きそのものを少しずつ変える。


 それがどこまで意味を持つのかは分からない。

 でも、何もしないよりずっといい。


 そう信じて、俺は夜道を自宅へ向かった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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