次なる標的
病院を出た直後の夜風は、思ったよりも冷たかった。
昼間はまだ秋の入口みたいな顔をしていたくせに、夜になると急に季節が本気を出してくる。吐いた息が白くなるほどじゃない。けれど、肌に触れる空気は確実に夏のものじゃなかった。
俺とアリスは、病院の正面玄関から少し離れた歩道を並んで歩いていた。
街灯の光が、アスファルトの上に薄い輪を作っている。車の走る音はある。遠くで信号の電子音も鳴る。人の気配が完全に消えているわけじゃない。なのに、病院を出たばかりのせいか、世界全体が妙に静かに感じた。
さっきまで病室で聞いていた話が、まだ体の中に残っている。
朝日を線路へ突き落としたかもしれない男。
普通に見える、整った顔の若い男。
狩るみたいに人を選ぶ、快楽犯。
そして、またアリスが狙われるかもしれないという現実。
アリスは隣で黙って歩いていた。肩が少しだけ上がっている。自分では平静を保とうとしているんだろう。でも、俺には分かる。怖さが体の方に先に出ている。
「……アリス」
俺が小さく呼ぶと、アリスが少し遅れて顔を上げた。
「ん……?」
「大丈夫か」
聞いてから、馬鹿なことを聞いたと思った。大丈夫なわけがない。こんな話を聞いた直後に、平気でいられる方がおかしい。
けれど、アリスは少しだけ考えるみたいに間を置いてから言った。
「……大丈夫って、言いたい」
また、アリスはそういう言い方をする。
断言できない時に、嘘をつかないための言い方。
「怖い?」
俺が聞くと、アリスは小さく頷いた。
「うん。……怖い」
その返事が真っ直ぐで、逆に少しだけ救われる。怖いのに、怖くないふりをされる方が、俺はたぶん辛い。
「でも」
アリスが続ける。
「怖いだけじゃない。……怒ってる」
その言葉に、俺は少しだけ目を見開いた。
「怒ってる?」
「うん。だって、私を一回殺しておいて、また狙うかもしれないって……意味分かんない」
アリスの声は震えていた。でも、その震えの中に確かに熱があった。怖いだけじゃない。奪われた側の怒り。生き直した今だからこそ出てきた感情なのかもしれない。
俺はその横顔を見ながら、胸の奥で小さく頷いた。
朝日は、ただ被害者のままで終わる子じゃない。
理不尽に泣いて、理不尽に怒って、それでも前を向こうとする子だ。
アリスになっても、その芯は変わっていない。
病院から駅へ向かう道の途中、小さな公園の前を通りかかった。
夜の公園は、人がいないと一気に別の場所に見える。昼間は子どもの声やベンチのざわめきで埋まっているのに、夜は遊具がただの影になる。
その公園のブランコに、誰かが座っていた。
銀色の髪が、街灯の下で淡く光っている。
俺の足が一瞬で止まった。
「……え」
アリスが小さく声を漏らす。俺の視線の先を見たんだろう。
ブランコに座っていた小さな影が、ゆっくりとこちらを向く。
小学生くらいの女の子。
銀髪。
妙に場違いなくらい整った顔立ち。
子どもみたいなのに、目だけが古い。
エンマちゃんだった。
夜の公園で一人でブランコに座っている姿は、本来なら心配される側の光景のはずなのに、見た瞬間に背筋が冷えた。心配より先に、現実の継ぎ目がずれる感覚が来る。
「こんばんは」
エンマちゃんが言った。声はいつも通り軽い。
「……お前」
俺が絞り出すように言うと、エンマちゃんは足をぶらぶらさせながら首を傾げた。
「来たよ。ちょうどよかった」
ちょうどよかった、じゃない。何がどうちょうどいいんだ。そう言いたいのに、喉が乾いてうまく声にならなかった。
アリスが俺の袖を強く掴んだ。隣で息を呑んでいるのが分かる。そりゃそうだ。夜の公園で知らない銀髪の少女が待っていたら、普通は怖い。
でも、この“知らない”は、俺にとってはもう違う意味を持っている。
「……アリス」
俺は声を落として言った。
「びっくりすると思うけど、聞いてくれ」
アリスが俺を見た。目が揺れている。不安と困惑がそのまま出ている。でも、俺が真面目な顔をしているせいか、逃げるより先に頷いた。
「……うん」
俺は一度だけ深呼吸した。
ここで隠しても意味がない。
順番がどうとか、まだ全部言うべきじゃないとか、そういうことはある。
でも、エンマちゃんという存在そのものは、もうアリスに隠せない。
「あの子は……エンマちゃん」
俺が言うと、アリスが小さく聞き返した。
「エンマ、ちゃん……?」
「俺が前に会ってた、銀髪の子だ」
アリスの表情が変わる。前に会ってた。その言葉の意味を一瞬考えたあと、そこに今つっこむ場合じゃないと判断した顔だ。
俺は続けた。
「それで……」
ここから先は、自分の口で言っても現実味がない。頭がおかしくなったと思われても仕方がない話だ。でも、俺はもうそれを信じてしまっている。
「この子は、自分で言った。……朝日を、白金アリスに転生させたって」
アリスの手が、俺の袖を掴む力を一瞬だけ失った。
次の瞬間、今度はもっと強く掴まれる。呼吸が浅くなるのが分かった。
「……え?」
小さな声。理解が追いつかない時の声だ。
エンマちゃんは、そのやり取りを見ながら、少しだけ面倒くさそうに肩をすくめた。
「そう。私が君を白金アリスにした」
子どもみたいな声で、あまりにも大きなことを言う。
アリスはエンマちゃんを見た。見たまま、数秒動けなかった。目の前にいるのは小さな女の子にしか見えない。なのに、その口から出た言葉は、自分の人生を根本から揺らすものだ。
「……うそ」
アリスが、ようやく言った。
「嘘じゃないよ」
エンマちゃんは平然と返す。
「君の未練が強すぎたから、私は君に聞いたはずだ。『もう一度チャンスをあげようか』って」
その言葉が落ちた瞬間、アリスの表情が止まった。
止まって、それからゆっくりと変わった。
驚き。
戸惑い。
記憶の底を掬い上げるような目。
アリスは口を少しだけ開いて、それから小さく息を呑んだ。
「……それ」
声が掠れる。
「……夢じゃ、なかったんだ」
俺はその横顔を見て、胸が強く鳴るのを感じた。
アリスの中にも、何かの名残があったんだ。
言葉としては思い出せなくても、感覚として引っかかっていたものが。
だから時々、遠いところを見るみたいな顔をしていたのかもしれない。
アリスはエンマちゃんを見つめたまま、数秒黙っていた。
それから、俺が驚くくらい自然に、頭を下げた。
「……ありがとう」
真っ直ぐな声だった。
エンマちゃんが、ほんの少しだけ目を丸くする。意外そうな顔。たぶん怒られるか、怖がられるか、そのどちらかだと思っていたんだろう。
「生き直したかった」
アリスが言う。
「隆太郎に、もう一回会いたかった。お父さんとお母さんにも、もう一回……」
そこで少しだけ声が震える。けれど、止まらない。
「だから、ありがとう」
その言葉を聞いて、俺の喉の奥が熱くなった。
アリスは、受け取ったんだ。
この不自然な奇跡を、自分の人生として。
苦しんだ部分も、失ったものもあるのに、それでも今の自分を“与えられたチャンス”として受け取った。
エンマちゃんは、少しだけ目を細めた。
笑ったようにも見えたし、ただ眩しそうにしただけにも見えた。
「律儀だね、君」
そう言って、ブランコから軽く飛び降りる。
着地音がほとんどしない。
「普通はもっと恨まれるかと思ってた」
「恨む理由、ある?」
アリスが顔を上げて聞いた。
エンマちゃんは少し考えるふりをして、それから言った。
「見た目変えたし、人生いじったし、設定盛ったし」
言い方が軽すぎて、俺は思わず眉をひそめた。設定盛ったって何だ。人の人生を軽く言うな。
アリスは、その軽さにも少しだけ笑ってしまったみたいだった。
「大変だったけど……でも、私、今ちゃんと幸せだから」
その答えは、強かった。
俺はその横顔を見ながら思う。
アリスは本当に、前を向く力がある。
どんなに理不尽なものを目の前に置かれても、それを“生きる理由”に変えようとする。
エンマちゃんは、そこで少しだけ表情を変えた。
さっきまでの軽さが引いて、目の奥に別の温度が宿る。
「で、今日はお礼を聞きに来たわけじゃない」
その一言で、空気が変わった。
俺の背中が自然に固くなる。アリスも分かったらしく、少しだけ表情を引き締める。
エンマちゃんは、俺たちを交互に見て言った。
「忠告しに来た」
夜風が、少しだけ強く吹いた。ブランコがきい、と小さく鳴る。
「朝日を殺した男が、また動く」
アリスの呼吸が止まるのが分かった。
「そして今度の標的は、白金アリス」
その言葉が、夜の公園の真ん中に落ちた瞬間、世界の音が一段遠くなった気がした。
俺はすぐアリスの前に半歩だけ出た。反射だった。意味がある行動じゃない。今この場に犯人がいるわけじゃない。それでも体がそう動いた。
エンマちゃんはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「いい反応」
「ふざけるな」
俺の声が低くなる。怒りと恐怖が一緒に喉を焼いた。
「また動くって、どういう意味だ。お前、何を知ってる」
「全部じゃない」
エンマちゃんはあっさり言う。
「でも、“見られてる”ことは知ってる。狙われてることも知ってる」
アリスが、俺の背中越しに小さく言った。
「……私が?」
「うん」
エンマちゃんが頷く。
「君は一度死んだ。でも戻ってきた。それを知らずとも、美しい金髪、全てが完璧な美少女の君を"男"が"面白い"と思うのも必然だ」
面白い。
またその言葉だ。
俺の中で何かが切れそうになる。人の命が、人生が、そんなふうに扱われることに、吐き気がする。
「……名前は」
俺が絞り出す。
「犯人の名前は分かるのか」
エンマちゃんは、ほんの一瞬だけ黙った。
そして、首を横に振る。
「今はまだ言えない」
「分かってるのか」
「分かってることはある。でも、今ここで君に全部渡すと、君は飛び出す」
それが否定できないのが悔しい。もし名前を知ったら、俺は本当に飛び出すかもしれない。警察より先に、理性より先に。
「だから、今は忠告だけ」
エンマちゃんは淡々と言った。
「一人にしないこと。帰り道を固定しないこと。写真を軽く扱わないこと。……あと、身近な“普通”を疑うこと」
最後の一言がやけに重かった。
身近な普通。
佐野が言っていたことと同じだ。
普通に見える人間ほど危ない時がある。
アリスが、震える声で聞いた。
「……私、どうしたらいいの」
その問いは弱さじゃない。生きるための問いだ。
エンマちゃんは、今度は少しだけ優しく見えた。
「頼ればいい」
短い言葉。
「一人で頑張らなくていい。君はもう一回生きてるんだから、今度はちゃんと人を頼って」
その言葉に、アリスの目が少しだけ潤んだ。泣きそう、というより、張り詰めていたものが少し緩んだ顔だった。
俺は、その横顔を見て決めた。
守る。
今度こそ、本当に。
言葉だけじゃない。
行動で。
日常の全部で。
エンマちゃんは最後に、俺を見た。
「君がどう守るか、見てる」
その言い方に腹が立つのに、今は返している暇がない。
アリスの肩に、そっと手を置く。強く掴まない。ただ、ここにいると伝わる強さで。
「帰ろう」
俺が言うと、アリスは小さく頷いた。
「……うん」
エンマちゃんは、俺たちが歩き出すのを見送るようにブランコのそばに立っていた。振り返った時には、もう姿がなかった。夜の公園に、銀色の気配だけが薄く残っている気がした。
駅までの道を歩きながら、アリスはずっと俺の袖を握っていた。強く、でも震えながら。
「隆太郎」
「ん」
「……怖い」
「うん」
「でも、今、さっきより少しだけ大丈夫」
その言葉に、俺は少しだけ救われる。
「俺がいる」
口にすると、あまりにも当たり前で、でも今はそれしか言えなかった。
アリスが小さく息を吐く。
「うん」
その“うん”を、今度は絶対に空振りさせない。
俺は心の中で、もう一度だけ強く誓った。
この日から、守り方を変える。
送るだけじゃ足りない。
気をつけろと言うだけじゃ足りない。
アリスの周りの全部を、見直す。
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