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お見舞い

 翌日の放課後、空は妙に高く見えた。


 秋が深まり始める時期の空は、青いのにどこか遠い。手を伸ばしても届かない感じが強くなる。そんな空を見上げながら、俺は校門の前でアリスを待っていた。


 今日、俺たちは佐野雪芽の見舞いに行く。


 昨日の夜、太刀川家で「行きたい」と言った時のアリスの声は、思っていたより強かった。苦手意識はある。怖い気持ちもある。それでも、自分の目で“生きている”のを確かめたい。そういう意思だった。


 俺も同じだった。


 佐野は助かった。けれど、助かったという事実だけで全部が終わるわけじゃない。あの人は何を見たのか。何を掴んだのか。そして、なぜあのタイミングで「アイラのことも含めて」と言ったのか。


 その全部が、今の俺には重い。


「隆太郎」


 呼ばれて顔を上げると、アリスが小走りでこっちへ来るところだった。今日は少しだけ暗い色のカーディガンを羽織っていて、いつもより落ち着いた雰囲気に見える。見舞いに行くから、そのあたりも少し考えたのかもしれない。


「待った?」


「いや」


 アリスは俺の顔を見て、小さく息を吐いた。


「……今日も、ちょっと硬い」


「そうか」


「そうだよ。私も緊張してるけど」


 そう言って、アリスは自分の胸の前で手を握って見せた。無理に元気な顔を作っているわけじゃない。ただ、緊張していることをちゃんと言葉にしている。その方が、たぶん強い。


「……行くか」


「うん」


 病院までは電車で少しだ。並んで歩き、ホームで待ち、電車に乗る。平日の夕方だから車内は混んでいたが、座れないほどではない。俺たちは並んで座った。


 発車してしばらく、アリスは何も言わなかった。窓の外を見ながら、指先だけが落ち着かなさそうに動いている。俺はその手の動きを横目で見て、少しだけ声を落とした。


「無理に話さなくていいぞ」


 アリスがこちらを向く。


「……うん。でも、一つだけ聞いていい?」


「何だ」


「佐野さん、痛そうだった?」


 その質問が、アリスらしかった。事件の話を先に聞くんじゃない。まず、怪我をした人間としてどうだったかを聞く。


「痛そうだった」


 俺は正直に答えた。


「でも、意識ははっきりしてた。喋る余裕もあった」


 アリスは小さく頷いた。それから、少しだけ肩の力を抜く。


「なら、よかった……」


 よかった、の中にいろんな感情が混ざっているのが分かった。苦手な相手でも、死んでほしいわけじゃない。当たり前のことなのに、人は時々そこを見失う。アリスは見失っていない。


「ねえ、隆太郎」


「ん?」


「……私、ちゃんと話せるかな」


 アリスが小さく言う。いつもの強気な響きが薄い。


「何を」


「ごめん、って言われた時。……ちゃんと受け取れたつもりなんだけど、まだ少しだけ怖いから」


 雑誌を見せられた時のことだ。あの時のアリスの顔は、俺も忘れられない。だから、今の不安は当然だ。


「怖いなら、無理に近づかなくていい」


 俺は言った。


「ただ会って、様子見て、帰ってきてもいい」


 アリスは少し考えてから、頷いた。


「……うん。そうする」


 それでいい。全部を一日で整理する必要なんてない。怖さが残っているなら、それを認めたまま会えばいい。


 病院へ着く頃には、日がだいぶ傾いていた。受付の白い光、消毒液の匂い、静かな靴音。昨日の夜にも来たはずなのに、昼間の病院はまた別の場所みたいに見える。夜の病院は“非常事態の場所”だが、昼の病院は“回復の場所”に見えるからかもしれない。


 受付で病室を確認して、エレベーターに乗る。アリスの肩が少しだけ強張る。俺は何も言わずに、ただ隣に立った。


 病室の前で一度立ち止まってから、軽くノックをする。


「どうぞ」


 中から聞こえたのは、思ったより普通の声だった。


 扉を開けると、佐野雪芽はベッドの背を少し上げた状態で座っていた。病衣姿。脇腹と肩の傷のせいで動きは少し慎重だが、顔色は昨日よりずっとましだ。目の下には疲れが残っている。けれど、あの人特有の“気だるいのに起きている目”は戻っていた。


「来たんだ」


 佐野が言う。


「来た」


 俺が答えると、佐野の視線がアリスへ移る。アリスは少しだけ身を固くして、それでもちゃんと頭を下げた。


「……お見舞い、来ました」


「見れば分かる」


 佐野がいつものように淡く返す。少しだけ空気が軽くなる。アリスもその返しに、ほんの少しだけ緊張を緩めた。


 ベッド脇の丸椅子を二つ借りて、俺たちは腰を下ろした。病室は静かだ。外の足音が時々通るだけで、中は三人の呼吸が聞こえるくらいの静けさだった。


「死にそうには見えないですね」


 俺が言うと、佐野は少しだけ口角を上げた。


「見えないようにしてる」


「そういうの、病人は言わなくていい」


「病人って言われるの嫌い」


 言い返す元気があるなら、確かに昨日よりはだいぶいい。


 アリスが、小さな紙袋を差し出した。


「……これ、よかったら」


「何」


「ゼリー。食べやすいかなって」


 佐野は目を細めた。受け取る時の手つきが少しだけ慎重になる。


「ありがとう」


 その“ありがとう”は、意外なくらい普通だった。アリスも少しだけ驚いた顔をして、それから小さく頷く。


 数秒の沈黙のあと、俺は本題に入った。


「佐野さん」


「うん」


「犯人のこと、聞かせてください」


 佐野はすぐには答えなかった。代わりに、俺とアリスを見て、それから意外な質問をした。


「その前に、一つ確認」


「何ですか」


 佐野の視線がアリスへ向く。


「白金さん。天音アイラに会った?」


 アリスが目を瞬かせた。


「……会った」


「どんな子だった」


 その聞き方は、情報を取る時のものだった。でも、急かす感じはない。アリスもそれを感じたのか、少しだけ呼吸を整えてから言った。


「最初は、すごくおどおどしてた。声も小さくて、目もあんまり合わなくて。……でも、ちゃんと優しい子だった」


 アリスの言葉は、思ったより迷いがなかった。


「頑張ってる感じがした。怖いのに、逃げないで話そうとしてくれる感じ。あと、ちょっと可愛い」


 最後の一言で、佐野の目がほんの少しだけ和らいだ気がした。


「仲良くなった?」


「……うん。たぶん」


 アリスは少し照れたように笑った。


「連絡先も交換したし、また話したいって思ってる」


 そこまで聞いて、佐野は小さく「そうか」とだけ言った。短い相槌なのに、何かの確認が終わったみたいな響きがあった。


 俺はそれを聞いて、胸の奥がざわつく。


 やっぱり、アイラの存在はただの偶然じゃない。佐野もそこを気にしている。そして、この人は俺やアリスが知っている以上のことを掴んでいる。


「佐野さん」


 俺がもう一度呼ぶと、佐野は視線を俺へ戻した。


「……話すよ」


 その一言で、病室の空気がまた少し重くなった。


「まず、結論から言う。朝日の件と連続事件の線は、やっぱり切れてない」


 喉が乾く。アリスの隣で、彼女の指先が膝の上で少しだけ動いた。緊張の動きだ。


「自首した男は、表に出た駒。たぶん金で動かされた。少なくとも、自分一人の犯行として処理するには出来すぎてる」


「やっぱり……」


 俺が絞り出すと、佐野は頷いた。


「倉庫街の接触場所も当たりだった。あそこで会った男は、自首犯とは別。……そして、朝日の件に繋がる可能性が高い」


 可能性が高い。断定ではない。けれど、あの人がここまで言うなら、ただの勘ではない。


 アリスが、少し震える声で聞いた。


「……その人が、私を」


 “私を殺した人”とは言わなかった。けれど意味は同じだった。


 佐野は、その質問に対してすぐには言葉を選ばなかった。


「断定はまだ。でも、私はそう見てる」


 病室の空気が重く沈む。


 アリスの顔から、血の気が少し引くのが分かった。俺は何も言わず、ただ隣にいることだけを意識した。ここで下手に慰めると、逆に現実味が増す。


 佐野は続ける。


「男は若い。整ってる。普通に街を歩いてたら、少なくとも“危ない人”には見えないタイプ。だから厄介」


 整っている。

 普通に見える。

 その言葉は、昨日俺が見た男そのままだった。


「……で、その人が」


 俺は喉を湿らせるみたいに一度息を吐いてから聞いた。


「何をしてるんですか」


 佐野は少しだけ目を伏せた。


「狩り」


 短い言葉だった。だが、それだけで背中が冷たくなる。


「快楽犯の一種。標的を観察して、機会を待って、近づいて、壊す。たぶんそれ自体が目的。金は手段でしかない」


 アリスが息を呑む。


「そんなの……」


「いる」


 佐野が淡く言う。


「それに、朝日の件だけが特別でもなかった可能性が高い」


 朝日の件だけが特別じゃない。

 つまり、あの男にとっては“いつもの延長”だった可能性がある。


 怒りより先に、寒気が来た。


「……なんでアイラのことを聞いたんですか」


 俺が問うと、佐野は今度こそ少し間を置いた。


「白金さんとアイラが接触したなら、話の順番を変えなきゃいけないと思ったから」


 その答えは、核心をはぐらかしつつ、でもはぐらかしきっていなかった。


 佐野はベッドの上で少し姿勢を直した。痛みが走ったのか、眉がわずかに寄る。


「アイラのことは、今は全部言わない方がいい」


 全部。そこに隠れているものがある。


 俺の胸がざわつく。エンマちゃんの話と、佐野の掴んでいるものが、同じ方向を向き始めている気配がする。


 アリスが、少し震える声で言った。


「……私、知らない方がいいの?」


 その質問に、佐野は意外なくらい真面目な顔で答えた。


「今は、まだ」


 やさしい言い方じゃない。だが、嘘もない。


「知るべき時は来る。でも、順番を間違えると、白金さんは自分を保てなくなるかもしれない」


 その言葉を聞いて、俺は喉の奥が痛くなった。エンマちゃんも、似たことを言っていた。順番を間違えるな、と。どちらも違うルートから同じ警告に辿り着いているなら、無視はできない。


 アリスはすぐには頷かなかった。けれど、少しして小さく息を吐き、ようやく言った。


「……うん。分かった」


 納得したわけじゃない。ただ、今は受け止めるしかないと決めた声だった。


 佐野はそれ以上、アイラの話には踏み込まなかった。代わりに、男の特徴や、今後警戒すべきことを具体的に話した。


 一人で人気のない道を歩かないこと。

 帰宅ルートを固定しすぎないこと。

 夜に動く時は必ず誰かに共有すること。

 “普通っぽい人”を危険から外さないこと。


 アリスは真剣に聞いていた。怖いはずなのに、目を逸らさなかった。


 話がひと段落したところで、看護師が様子を見に来た。面会時間もそろそろ限界らしい。俺たちは立ち上がった。


 その時、佐野がもう一度俺を呼んだ。


「宮本くん」


「はい」


「帰り道、気をつけて。……今日は特に」


 その言い方が、ただの挨拶じゃないと分かった。警戒が必要だと、佐野自身がまだ感じているんだろう。


「分かってます」


 俺が答えると、佐野は小さく頷いた。


 病室を出た後、廊下はやけに白く見えた。アリスはしばらく何も言わなかった。エレベーターに乗って、受付を通って、病院の外へ出るまで、ずっと黙ったままだった。


 ようやく外の風に当たって、アリスが小さく呟いた。


「……私、また狙われるのかな」


 その声は、泣いてはいないのに泣きそうだった。


 俺はすぐには答えられなかった。軽い励ましで否定できる話じゃないからだ。けれど、黙ったままでもいられない。


「分からない」


 俺は正直に言った。


「でも、分からないままにしない」


 アリスが俺を見る。俺はその目をまっすぐ見返した。


「守る。今度は絶対に」


 口にした瞬間、その言葉の重さが自分の中に落ちてきた。大きな約束だ。簡単に言っていい言葉じゃない。けれど、今の俺にはこれ以外の答えがなかった。


 アリスは唇を噛んで、それから小さく頷いた。


「……うん」


 その“うん”は、弱かった。でも、ちゃんと俺に預けられたものだった。


 病院の外は、もうすっかり夜だった。


 街灯の光が白くて、道路は少し冷たく見える。俺たちは並んで歩き出した。家へ帰るために。日常へ戻るために。けれど、もう昨日までと同じ日常ではいられないのかもしれない。


 それでも、帰るしかない。

 帰って、守るしかない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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