"真実の夜"が迫る
救急車の赤色灯は、夜の倉庫街には似合いすぎるほど似合っていた。
似合ってほしくない光だと思いながら、俺は少し離れた場所で立ち尽くしていた。足はもう走っていないのに、心臓だけがまだ速い。喉の奥が焼けるみたいに痛い。肺が冷たい空気を吸いすぎて、うまく呼吸が整わない。
佐野雪芽は担架に乗せられるのを嫌がって、救急隊員に「歩ける」と二回言って、三回目でようやく黙った。歩けるのと歩くべきかは別だ。そんなことは、見ているこっちにも分かる。
脇腹と肩口。血は思ったより多くなかった。だが、少ないから安心できるほど俺は冷静じゃない。さっきまで目の前でナイフが振り下ろされていた。その光景が頭から離れない。あと半拍遅れていたら、と思うだけで胃がひっくり返る。
「君、付き添い?」
救急隊員にそう聞かれて、俺は一瞬返事に詰まった。
「……はい」
思わずそう答える。付き添いというより、ただ巻き込まれた高校生だ。けれど、ここで「違います」と言えるほど他人でもない。
佐野が、担架の上から俺を見た。
「健一さんには?」
「連絡しました」
「アリスは」
その名前が出た瞬間、胸の奥がきしんだ。
「まだです」
俺が答えると、佐野は少しだけ目を細めた。
「……それでいい。先に病院」
声は掠れているのに、指示の形を崩さない。そういうところがこの人らしい。怖い目に遭った直後なのに、まだ自分の役割を手放さない。
救急車の後部ドアが閉まる前に、佐野がもう一度だけ俺を見た。
「宮本くん」
「はい」
「追わなくて正解」
俺は何も返せなかった。あの時、一歩だけ追いかけかけた。けれど止められた。止められたから助かったのかもしれない。追っていたら、二本目のナイフをこっちも見ていたかもしれない。
救急車が動き出す。サイレンが遅れて鳴る。赤い光が離れていく。
ようやく静かになった倉庫街で、俺は自分の手を見下ろした。震えている。今さらみたいに震えが来る。怖かったんだと、そこでようやく身体が認める。
スマホが震えた。健一さんだった。
『どこの病院だ』
短い文。焦りを無理やり削いだみたいな文章。
俺はすぐに返した。
『岸総合病院です。今向かってます』
送ってから、足を動かす。病院へ向かわなきゃいけない。考えるのは後だ。今は動く。
※ ※ ※
病院の待合は、夜の色をしていた。
明るいのに冷たい。人の声は小さく、靴音だけがやけに響く。受付の光、白い床、消毒液の匂い。こういう場所へ来るたび、人間は簡単に無力になると思う。
俺は処置室の前の長椅子に座っていた。座っているだけなのに、全身にまだ力が入っている。膝の上で握った手が、気づくと強く組まれていた。
ほどなくして、健一さんが来た。スーツではなく私服。たぶん急いで飛び出してきたんだろう。顔が固い。普段から寡黙な人だけど、今日はさらに余計なものを削ぎ落としたような顔をしている。
「隆太郎くん」
低い声。怒っているんじゃない。抑えている声だ。
「はい」
「佐野は」
「今、処置中です」
俺が言うと、健一さんは短く頷いた。それから俺の隣には座らず、正面の壁の前に立ったまま腕を組んだ。立っていた方がまだ落ち着くんだろう。
「何があった」
質問は一つだけだった。
俺は、倉庫街でのことを順番に話した。GPSを見たこと。現場へ着いた時にはもう佐野さんが男と組み合っていたこと。ナイフが二本あったこと。俺が割って入り、相手が逃げたこと。
話している間に、言葉が現実になる。現実になるたび、胃が冷える。
健一さんはほとんど口を挟まなかった。ただ、一箇所だけ反応した。
「二本目のナイフ、か」
「はい」
「……用意がいい」
その言い方に、怒りが混ざっていた。静かな怒りだ。父親の怒り。遺族の怒り。朝日を奪われた人の怒り。
その時、処置室のドアが開いた。看護師が出てきて、佐野の名前を呼ぶ代わりに、俺たちを見て言った。
「ご家族の方ですか?」
一瞬だけ、俺も健一さんも言葉に詰まる。
健一さんが先に出た。
「……関係者です」
それで十分だったらしい。看護師は「大きな血管や内臓には届いていません。縫合と検査を行いました。肩の傷も浅めです。ただ、打撲と疲労が強いので、今夜は安静にしていただきます」と事務的に説明した。
助かった。
その事実だけで、全身の力が少し抜ける。
「本人がまだ少し話せると言っています。短時間なら」
看護師がそう言うと、健一さんが俺を見た。俺は頷いた。
「行きます」
処置室の奥ではなく、すでに簡易的な個室に移されていた。ベッドの上の佐野は、さっきより血の気がない。脇腹には固定の処置がされ、肩口にも白いガーゼが貼られている。けれど、目は起きていた。起きているどころか、嫌になるくらい意識がはっきりしている。
「……二人とも、顔が怖い」
佐野が掠れた声で言った。
「怖くなるだろ」
俺が思わず返すと、佐野は少しだけ口元を動かした。笑ったというより、笑う気力がまだ残っていることを見せた程度だ。
「死んでないって言ったのに」
「死にかけただろ」
「かけてない。……かすっただけ」
その“かすっただけ”のせいで病院に来てるんだろうが、と言いたくなった。けれど、ここで言い合っても意味がない。
健一さんが低く言った。
「当たりか」
それだけで通じる。佐野は少しだけ目を閉じてから、開いた。
「当たり」
短く、しかしはっきりと言い切った。
「自首した男じゃない。あれは別」
病室の空気が一段冷えた気がした。
「顔は見たか」
「見た」
佐野は淡く答える。
「整ってる。普通。街にいても埋もれるタイプ。でも、目が違う。……あと、体の運びが慣れてる。素人の勢いじゃない」
俺の頭に、倉庫街の暗がりの中の男の姿が蘇る。確かに、普通に見えた。だからこそ不気味だった。普通に見えるのに、二本目の刃を迷わず出せる。その普通さが壊れている。
「朝日の時と同じか」
健一さんが問う。
「断定はまだ。ただ、匂いは同じ」
佐野はそう言った。匂い、という曖昧な言葉をこの人が使う時は、だいたい本気だ。
俺は堪えきれずに聞いた。
「何が分かったんですか」
佐野は俺を見た。痛みで呼吸が浅いのに、目だけは仕事の目に戻る。
「まだ全部じゃない。でも、自首した男に金を流した線は当たり。倉庫街は接触場所。……つまり、自首はやっぱり仕込まれてた可能性が高い」
仕込まれていた。そう言われると、あの綺麗すぎる終わり方が、急にひどく安っぽく見える。
「警察には」
健一さんが言いかけると、佐野は小さく首を振った。
「今の段階じゃ弱い。証拠じゃなくて、状況の一致しかない」
悔しい。けれど、その判断が現実なんだろう。状況証拠だけで人は動かせない。だから犯人は、そこに隠れる。
佐野は少し息を整えてから、淡く言った。
「しばらく入院」
「しばらく?」
俺が聞くと、佐野は天井を見るみたいに視線を上げた。
「大げさじゃない。二、三日。……疲れたし」
その“疲れたし”に、妙な本音が混ざっていた。体だけじゃない。精神も削れているんだろう。あの距離でナイフを向けられて、何も消耗しない人間の方がおかしい。
「お見舞い、来る?」
唐突に佐野が言った。
俺と健一さんが同時に一瞬黙る。そこで聞くのか。そう思うのに、佐野の声色はいつもの軽い皮肉ではなかった。確認に近い。
「行きます」
俺が先に答えると、佐野は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、その時続き話す」
「続き?」
「うん。アイラのことも含めて」
心臓が跳ねた。
アイラのこと。
そこに話が繋がるのか。
俺は思わず健一さんの方を見た。健一さんは眉をわずかに動かしただけだった。アイラの名前をここで出されても、まだ意味は共有されていない。当然だ。俺はアリスにも、健一さんにも、まだエンマちゃんの話をしていない。
佐野はそれ以上言わなかった。そこまで話す体力もないんだろう。看護師が様子を見に来て、面会は短時間で切り上げるよう促された。
病室を出る直前、佐野が俺を呼んだ。
「宮本くん」
「はい」
「……来てくれて正解だった」
その一言が、妙に重かった。
俺が少しでも遅れていたら。
そういう想像が、また胸を冷やす。
病室を出ると、待合の空気がさっきより静かに感じた。いや、静かなんじゃない。俺の中の音が一段落しただけかもしれない。
健一さんが低く言った。
「朝日には」
そこで言葉を切る。俺は意味を理解した。アリスにどこまで話すか、ということだ。
「……全部は、今夜はまだ」
俺が言うと、健一さんは頷いた。
「そうだな」
アリスは待っている。太刀川家で、不安なまま。今は“佐野は助かった”という事実だけでも持ち帰るべきだ。
病院を出た時、夜の空気はもう深く冷えていた。俺たちは言葉少なに歩き、途中で別れた。健一さんは太刀川家へ、俺は少し遅れて自宅へ戻る。太刀川家へ今すぐ行かなかったのは、顔を整える時間が欲しかったからだ。今のままアリスに会えば、余計な不安まで全部伝わる。
自宅の玄関で靴を脱いだ瞬間、全身の力が少し抜けた。母さんがリビングから出てきて、俺の顔を見た。
「……どうだった」
「命に別状はない」
それだけ言うと、母さんが短く息を吐いた。安心した時の呼吸だ。
「よかった」
「でも、入院する」
「そう……」
母さんはそれ以上は聞かなかった。聞けば重くなると分かっているんだろう。
その少し後で、俺は太刀川家へ向かった。
玄関を開ける前から、リビングの灯りが見える。待っている灯りだ。俺は深呼吸を一つして、チャイムを押した。
アリスが出てきた。
顔を見た瞬間、アリスは何も聞かずに俺の表情を読もうとした。そういう目だ。俺は先に言った。
「助かった」
その一言で、アリスの肩が大きく落ちた。強張っていた全身から、一気に力が抜ける。
「……よかった」
掠れた声だった。本気で怖かったんだろう。
「入院する。しばらく安静」
そこまで言うと、アリスは小さく頷いて、それから俺の袖をぎゅっと握った。
「会える?」
「お見舞いなら」
「行きたい」
即答だった。たぶん、それが今のアリスに必要なんだと思う。怖かった相手でも、ちゃんと生きていると自分の目で確かめたいんだろう。
「……分かった」
俺がそう答えると、アリスはようやく少しだけ呼吸を整えた。
けれど、俺の中では別の言葉が残っていた。
――その時、続き話す。アイラのことも含めて。
佐野が掴んだもの。
エンマちゃんから聞いたこと。
アイラとの繋がり。
犯人。
全部が、少しずつ同じ方向へ寄り始めている。
まだ名前のない“真実”が、夜の向こうで形を作り始めている気がした。
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