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強襲

 佐野雪芽は、白い紙の上に並んだ数字をしばらく黙って見ていた。


 テーブルの上にはコピーした明細、時系列を簡単にまとめたメモ、線で繋いだ人名、そして小さな付箋が散らばっている。見た目だけなら、探偵らしい机だ。けれど、当の本人はその言葉ほど格好のいいものじゃないと知っている。


 探偵の仕事は、ひたすら地味だ。


 聞く。待つ。比べる。消す。残す。

 派手なひらめきなんて、現実には滅多にない。あるのは、大量の“気持ち悪さ”の中から、本当に気持ち悪い一点を拾い上げる作業だけだ。


「……綺麗すぎるんだよね」


 佐野は小さく呟いて、メモの端を指で叩いた。


 連続事件の犯人として自首した男。その男の生活圏、交友関係、収入、そして直前に動いた金。全部が、あまりにも“終わらせるために揃っている”ように見えた。


 金が入っている。

 入った金の出所が曖昧だ。

 なのに、その曖昧さが逆に目立たないように処理されている。


 雑だが、雑すぎない。

 荒いが、荒さが目立たないように寄せられている。


 そういう工作は、素人の慌て仕事とは少し違う。


 しかも朝日の件と重ねると、なお悪い。


 駅のホーム。押した腕。映像の欠落。

 顔は出ないのに、所作だけが残る。

 そして今度は、自首という“分かりやすい終わり”が前に出てきた。


 分かりやすい結末には、人が安心する。

 安心したい人間は多い。警察も、報道も、遺族ですら、一度はそこへ寄りかかりたくなる。


 だから佐野は、そういう時ほど逆を向く。


 終わりが綺麗すぎる時は、だいたいまだ終わっていない。


 薄いノートパソコンの画面には、倉庫街周辺の地図が表示されていた。古い搬入口、夜間の搬出路、監視の薄い裏通り。自首した男の金の流れを追っていくうちに、ある古い会社名義の口座にぶつかり、その口座から辿れた先がこの辺りだった。


 もちろん、決定打ではない。


 でも、金を一度だけ受け取るには都合がいい。

 人に見られず短時間で会うには向いている。

 何より、ここは“顔を隠したまま話ができる場所”としては出来すぎていた。


 佐野は画面を閉じた。


 こういう時、本来なら一人で行くべきじゃない。そういう理性はある。あるが、理性だけで仕事を選んでいたら、そもそもここまで掘っていない。


「……ほんと、やだ」


 誰に言うでもなく呟き、佐野はスマホを手に取った。


 まず、宮本隆太郎に短く送る。


『少し線が見えた。今夜、動く』


 送信してから、もう一文。


『一人で確認に行く。もし夜中まで連絡がなければ、リンクを見て』


 続けて位置共有用のリンクを準備する。常に監視しろという意味ではない。何かあった時に、辿れるようにするための痕跡だ。


 それから太刀川健一にも、より短く送った。


『今夜、確認に動く。場所は後で送る可能性あり。返答不要』


 健一に全部を渡すと止めに来る可能性がある。止められるのは面倒だ。だが、何も知らせず動くのはもっと面倒なことになる。だから半分だけ渡す。この半端さが、佐野なりの折衷だった。


 机の端に置いてあった小さな機器――宮本に預けたのと同型の発信器を確認し、自分のバッグの内ポケットへ滑り込ませる。充電は十分。作動も問題ない。


 鏡の前に立つ。

 黒いジャケット。動きやすい靴。髪は下ろしたままの方が普段っぽい。

 護身用の小型スプレー、折り畳みライト、スマホ。

 仕事の準備というより、嫌な夜への備えだ。


 玄関を出る頃には、街はすっかり夜の側へ寄っていた。


 ※ ※ ※


 倉庫街のある区域は、昼と夜で顔が変わる。


 昼間は配送車が出入りして、人の声もそれなりにある。けれど夜になると、広い道だけが妙に静かで、建物の影が深くなる。人気がないわけじゃない。たまに車は通る。遠くでシャッターの音もする。だからこそ、中途半端に人の気配があるのが厄介だった。


 完全な無人なら警戒しやすい。

 中途半端に生活音がある方が、人は逆に油断する。


 佐野は駅から歩いて、途中で二度ほど遠回りをした。尾行がいないかを見るためだ。ガラスの反射、停まった車の窓、信号待ちの一瞬。誰かが一定の距離でついてくる気配はない。


 今のところは。


 倉庫街の入口近くに、明かりのついた小さな自販機スペースがあった。佐野はそこを一度通り過ぎ、少し先の角を曲がって、また戻る。足を止める場所をいきなり決めない。まず導線を自分の体に覚えさせる。


 自首した男に流れた金の最後の出所は、表向きは休眠状態の法人名義だった。だが、その名義を細かく洗うと、夜間にだけ稼働する倉庫の管理番号と微妙に重なる。完全一致ではない。だから警察に持っていくには弱い。けれど、探偵が現場へ行く理由としては十分すぎる。


 佐野は古い鉄扉の前で立ち止まった。


 閉まっている。錠前もかかっている。外見には何もない。

 だが、足元のコンクリートにだけ新しい擦れ跡がある。最近、台車か何かを通した跡だ。夜間しか動いていない倉庫の前に、その新しさは少しだけ浮いている。


 しゃがみ込み、指で軽くなぞる。砂埃の乗り方も不自然に薄い。


「……当たり、かな」


 佐野は立ち上がり、周囲を見た。


 ここで張り込むのが本来の正解だ。

 けれど、今夜に限っては、もう一歩だけ前へ出る価値がある気がした。

 気がした、というのは探偵としては雑な言葉だ。だが、最後の一歩を踏み込む時は、だいたい理屈と同じくらい勘が物を言う。


 倉庫の裏手へ回る。細い通路。金網。低い街灯。

 その途中で、佐野は気配を感じた。


 足音ではない。視線に近い。

 見られている時の、皮膚が一枚だけ冷える感じ。


 佐野は歩みを止めない。止めたら相手に「気づいた」と伝わる。代わりに、スマホの画面を開くふりをして、角度を変える。反射に映るものを見る。


 人影。

 距離はある。

 高すぎず、低すぎず。

 細身。動きが妙に静か。


「……へえ」


 佐野は小さく呟いた。


 つけられていたわけではない。たぶん、こちらが“正しいところへ来た”から向こうが出てきた。つまり、この場所はやはり当たりだ。


 佐野はそのまま倉庫裏の開けたスペースへ出た。逃げ道は二つ。大通りへ抜ける道と、住宅側へ抜ける細道。足場も確認済み。最悪、走れる。


 人影が、暗がりの方から一歩だけ前へ出た。


 男だった。


 ぱっと見では、妙に整った顔立ちをしている。清潔感がある。服も普通だ。街ですれ違えば“感じのいい若い男”で済むかもしれない。けれど、目だけが違った。感情が薄いのに、興味だけが濃い目だ。


 佐野はその顔を見た瞬間、背中の奥が冷えた。


 証拠はない。

 だが、勘が“これだ”と言っていた。


「こんばんは」


 男が先に言った。声まで普通だ。普通すぎるのが逆に不気味だった。


 佐野は少しだけ肩の力を抜いたふりをして答える。


「こんばんは。誰か待ってた?」


 男は薄く笑った。


「君の方じゃない?」


「かもね」


 探り合いの距離。ここで“知っている”と出した方が負ける。向こうがまだ遊んでいるなら、こちらも遊ぶ。


 男は首を傾げた。


「探偵さん?」


 その一言で、佐野の中の警戒が一段上がった。


 探偵だと知っている。

 つまり、向こうはこっちを見ていた。

 少なくとも一度や二度ではない。


「だったら?」


 佐野が返すと、男は少し楽しそうに笑う。


「いや。綺麗だなって」


 ぞっとする言い方だった。褒め言葉の形をしているのに、そこに人間的な温度がない。獲物の形を眺めるみたいな声。


 佐野は一歩だけ位置をずらした。男の手元が見える角度へ。


「口説くなら場所が悪いよ」


「口説いてないよ」


 男が答える。


「確認してるだけ」


 確認。その単語が、朝日の駅の映像と重なった。人混みの中で、あの犯人候補は“確認する”ような立ち方をしていた。人の流れ、間合い、押す角度。今目の前にいる男の空気は、それに近い。


「何を」


 佐野が聞く。


 男は少し考えるふりをして、肩を竦めた。


「君がどこまで知ってるか」


 風が抜けた。倉庫の金属が小さく鳴る。

 遠くで車の音がするのに、この狭い空間だけが妙に静かだった。


 佐野は淡く笑った。


「知ってるなら、教えてよ」


 挑発ではない。あくまで雑談の温度で返す。相手が気持ちよく喋るなら、その方がいい。


 だが、男は笑っただけだった。


「教えない」


「じゃあ、私も教えない」


「知ってるんだ」


 男が言う。


「知ってることがあるから、ここに来たんでしょ?」


 図星だった。図星だが、そこで肯定すれば終わる。


「勘」


 佐野は短く言った。


「勘でここまで来るの、ちょっと変だよね」


「褒めてる?」


「褒めてる」


 男は普通の会話みたいに返した。その普通さが、逆に恐ろしい。


 次の瞬間、男の右手がわずかに沈んだ。


 佐野の視線がそこを捉える。

 ポケットの入口。

 指の角度。

 体重移動。


 来る。


 そう思った瞬間には、佐野の体も動いていた。


 男がポケットから抜いたのは、小ぶりのナイフだった。街灯の弱い光を鈍く返す刃。普通の人間なら、一拍遅れる。だが佐野は遅れなかった。半歩引いて軌道を外し、左手で男の手首に触れる。完全に取るには浅い。けれど、刺突の角度はずらせる。


 刃がジャケットの脇を掠めた。布が裂ける音。


「……最悪」


 佐野が吐き捨てると、男は笑った。


「あ、避けるんだ」


 その言い方で、佐野の中の確信がさらに強くなる。


 こいつは、刺すことに慣れている。


 一度や二度の覚悟じゃない。体の運びが、刃の重さを知っている。


 男が二度目を打ってくる。今度は低い位置から。佐野は横へ流し、体を入れて男の肘を押し上げた。護身術の型。だが相手も崩れ方が上手い。力任せじゃない。すぐに体勢を立て直す。


 ――やっぱり、ただの快楽犯じゃない。


 佐野の背中に汗が滲む。まずい。想定より強い。

 でも、ここで引くには距離がない。


 男の膝が飛んできた。佐野は辛うじて受け流したが、太腿に鈍い痛みが走る。息が詰まる。そこで男が間合いを詰めてきた。近い。顔が近い。整った顔なのに、目だけが変だ。暗くて、妙に明るい。


「痛い?」


 男が小さく言う。


「……質問の趣味、最悪」


 佐野が返した次の瞬間、男の肩が揺れる。フェイント。右手のナイフに意識を向けた一瞬で、佐野は別の嫌な気配を感じた。


 左手。


 男の左手が、ジャケットの内側へ入る。


 ――二本目。


 佐野の心臓が跳ねた。予想外ではない。だが、反応は半拍遅れた。男が引き抜いた二本目のナイフが、低い角度から閃く。


 避けきれない。


 その瞬間、佐野は体を捻り、刃の直撃だけは外した。だが完全には逃げられず、脇腹に浅く熱い線が走る。


「っ……!」


 焼けるような痛み。呼吸が乱れる。


 男が押し込んでくる。佐野は地面へ倒れ込むようにして体勢を低くし、男の腕に足を絡めて一瞬だけバランスを崩させた。だが、完全には取れない。相手の体幹が強い。すぐ立て直す。想定以上に“喧嘩ができる体”だ。


 男が上から影を落とす。二本目のナイフが、今度こそ佐野の喉元を狙う角度で振り下ろされる。


 終わる。


 そう脳が判断した、ほんの刹那。


 倉庫街に、走ってくる足音が響いた。


「佐野さん!」


 若い男の声。聞き慣れた声。


 宮本隆太郎。


 男の視線が一瞬だけ逸れる。その一瞬で、佐野は肘を使って刃の軌道をずらした。喉への直撃は外れる。代わりに肩口に熱が走る。浅い。まだ動ける。


 隆太郎が迷いなく飛び込んできた。普通の高校生なら躊躇する距離とタイミングだ。だが、こいつは躊躇しなかった。犯人の腕に体当たり気味にぶつかり、間合いを崩す。


 男は一瞬だけ舌打ちした。


 形勢が変わる。

 一対一なら押し切れる。

 だが二対一になると、“確実に仕留める”のが面倒になる。


 男はそれを理解するのが速かった。


 後ろへ引く。間合いを切る。足場を確認する。逃走の体勢。


 佐野が息を荒くしながら立ち上がろうとする。その横で、隆太郎が男を睨んだ。震えていないわけじゃない。けれど、目を逸らしていない。


 男は二人を交互に見て、薄く笑った。


「……邪魔」


 その一言を残して、男は暗がりの方へ走った。速い。迷いがない。最初から逃走経路も頭に入っていた走り方だった。


「待て!」


 隆太郎が一歩踏み出しかける。だが佐野がすぐに掠れた声で止めた。


「追うな!」


 その声で隆太郎の足が止まる。正しい。今追えば、地形に慣れてる相手に逆利用される。


 男の気配は、暗がりと倉庫の影の向こうへ消えていった。


 残ったのは、自分の荒い呼吸と、脇腹の熱い痛みと、夜の冷たい空気。


 佐野は壁に手をついた。視界が少し揺れる。浅い傷のはずだが、アドレナリンが切れ始めて一気に痛みが増す。肩口もじくじくする。


 隆太郎が駆け寄ってきた。


「佐野さん、大丈夫ですか」


 声が強張っている。だがパニックにはなっていない。よく持っている方だ。


「……大丈夫じゃないけど、死なない」


 佐野は息を整えながら言った。


 それから、少しだけ笑う。


「来るの、早いね」


「GPS見ました」


「うん。正解」


 佐野はそう言った直後、脇腹の痛みで顔をしかめた。隆太郎の表情が一気に険しくなる。


「病院、行きます」


「行く」


 さすがに否定しない。ここで強がるほど若くない。


 隆太郎がスマホを取り出す。誰かに連絡を入れるつもりだろう。健一か、救急か。その指が少し震えているのを、佐野は見ていた。


 その震えを見て、妙に安心した。


 この少年は無茶をする。危うい。けれど、肝心なところで人間の震えを失っていない。だから、まだ壊れていない。


 佐野は壁にもたれたまま、男が消えた方向を見た。


 整った顔。

 普通の声。

 二本目のナイフ。

 想定外の体術。

 そして、あの目。


 ――当たりだ。


 間違いない。


 自首した男じゃない。

 こっちが本体だ。


 その確信だけを胸に、佐野は薄く目を閉じた。


 今夜、死ななかった。

 それだけで十分な前進だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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