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事件を追うために

 佐野雪芽からの短いメッセージは、それだけで空気を変えた。


 今夜、太刀川家に行く。君も来て。


 たったそれだけなのに、文化祭の余韻も、アリスとアイラのことも、一度全部脇へ押しやられる。佐野が自分から動く時は、たいてい“何かある”時だ。少なくとも、何もない顔で来る人じゃない。


 教室の中はいつも通りだった。帰り支度をするやつ、部活へ向かうやつ、放課後の予定を喋るやつ。そんな日常の音が、逆に遠く聞こえる。


「……隆太郎」


 アリスが小さく呼んだ。


「ん」


「佐野さん、なんだろうね」


 不安を隠しきれていない声だった。佐野に対してアリスが持っている感情は、たぶん一言じゃ言えない。苦手だし、怖いし、でもあの人が朝日の件を追っていたことも事実だ。嫌いだけで済ませられない相手ほど、心は疲れる。


「分からない」


 俺は正直に答えた。


「でも、行くしかない」


 アリスは少しだけ黙ってから頷いた。


「……うん。私も行く」


 即答だった。その速さに、俺は少しだけ目を見開いた。


「いいのか」


「よくないかもしれない。でも、聞きたい」


 アリスの目は揺れていた。揺れているのに、逃げていない。怖いのに、知りたい。知らないままの方がもっと怖い。そういう顔だ。


 俺は止めなかった。止めたところで、たぶんアリスは一人で不安を膨らませる。だったら、一緒に聞いた方がいい。


「分かった。一緒に行こう」


「うん」


 それだけで、アリスの肩の力がほんの少し抜けた。たぶん、俺と一緒に行くと決まったことが大きいんだろう。


 帰り道、俺たちはあまり喋らなかった。喋らなかったけど、沈黙は嫌じゃなかった。お互い同じ方向を見ている時の沈黙は、変に言葉を足さない方が楽な時がある。


 太刀川家に着くと、恵さんが玄関を開けてくれた。俺たちの顔を見た瞬間、少しだけ表情が固くなる。たぶん、健一さんからもう聞いているんだろう。


「隆太郎くん、朝日。上がって」


 アリスは小さく頷いた。正体を知っている人しかいない空間だから、恵さんの口から出た名前は自然に“朝日”だった。アリスも、それを聞くと少しだけ呼吸が深くなる。名前にはやっぱり力がある。


 リビングには健一さんと母さんがいた。机の上には、まだ何も広げられていない。だからこそ、逆に緊張した。資料があるなら内容がある。何もないなら、口で直接言わなきゃいけない話なんだろう。


「佐野はまだ来ていない」


 健一さんが短く言った。


「だが、来る前に言っておく。……今日は、たぶん軽い話じゃない」


 その一言で、部屋の空気が一段冷えた。


 アリスはソファの端に座って、膝の上で手を組んだ。俺はその隣に座る。触れはしないけど、すぐ隣にいる距離。今はそれで十分だ。


 しばらくして、インターホンが鳴った。


 恵さんが出ようとすると、健一さんが「俺が行く」と立ち上がった。玄関の方へ向かう足音が、妙に大きく聞こえる。数秒後、戻ってきた健一さんの後ろに、佐野雪芽がいた。


 黒っぽい服。細いシルエット。相変わらず気だるそうな目。けれど今日は、オフの甘いものモードじゃない。仕事の顔でもあるけど、もっと削ぎ落とされた顔だった。無駄に人を刺激する余白がない。


「こんばんは」


 佐野が淡く言う。


 その声だけで、アリスの肩がわずかに固くなるのが分かった。俺は横目でそれを確認しながら、佐野を見た。


「座っていい?」


 佐野が聞く。許可を取るところが、今日は少しだけ丁寧だ。


「……ああ」


 健一さんが短く答える。


 佐野はソファには座らず、机の向こう側の椅子を引いて腰を下ろした。距離を取ったんだと思う。アリスを不用意に圧迫しないように。そういう配慮をする人だと知って、少しだけ意外だった。


「単刀直入に言う」


 佐野は手元の薄い封筒を机に置いた。


「朝日の件、私は個人的に追うことにした」


 その言葉に、健一さんの目が動いた。母さんも、恵さんも、アリスも、みんなが一瞬だけ息を止めた。


「……警察に任せると言っていたはずだ」


 健一さんが低く言う。


「表向きはね」


 佐野は淡く返した。


「でも、自首の流れが綺麗すぎる。供述も、報道への流れも、処理のされ方も。……気持ち悪い」


 気持ち悪い。佐野のその感覚は、たぶん信じていい。この人は感情で喋るように見えて、変な違和感を拾うことに関しては鋭い。


「だから、私は警察とは別に動く。非公式に。個人的に」


「危なくないのか」


 俺が思わず聞くと、佐野は少しだけ俺を見た。


「危ないよ」


 即答だった。


「でも、危ないから止めるなら、最初から探偵やってない」


 その言い方には妙な説得力があった。無茶を格好つけて言ってるんじゃない。自分の性質をただ述べているだけの声。


「……どうしてそこまで」


 アリスが、小さく聞いた。


 その声に、佐野の視線がゆっくりアリスへ向いた。普段ならそれだけでアリスは少し身構えるのに、今日はちゃんと目を逸らさなかった。


「嫌いだから」


 佐野が言った。


 部屋が一瞬だけ静まる。


「……嫌い?」


 アリスが聞き返すと、佐野は頷いた。


「そういう“綺麗に終わらせたつもりの嘘”が。人が死んだことを、誰かが都合よく畳もうとするのが」


 淡い声なのに、その部分だけ少し温度があった。怒りに近い温度。


「朝日の件は、事故として処理されたくない。連続事件も、自首で終わったことにされたくない。……だから追う」


 佐野の言葉は、理屈というより信念だった。面倒な人間だと思う。でも、こういう面倒さがなければ掴めないものもあるのかもしれない。


 健一さんが腕を組み、低く問う。


「具体的には、何をする」


 佐野は封筒の中から小さなケースを取り出した。黒い、親指の爪より少し大きいくらいの機器。シンプルで、目立たない。


「GPS」


 俺は思わず眉をひそめた。


「私の位置が分かるようにする」


 佐野はその小さな機器を机の上に置いたまま、俺の方を見た。


「宮本くん。これ、君に預ける」


「……俺に?」


「うん。健一さんでもいいけど、動けるのは君の方が早い時がある」


 健一さんが何か言う前に、佐野は続けた。


「もちろん、常時監視しろって意味じゃない。私が送るメールのリンクを開けば、位置が見えるようにする。何かあった時用」


 何かあった時用。


 その言い方の中に、最悪の事態が普通に含まれていて、俺の喉が少し乾いた。


「……なんでそこまで準備する」


 俺が聞くと、佐野は少しだけ口角を上げた。


「私、そこまで馬鹿じゃない」


 それから、ほんの少しだけ自嘲っぽく言う。


「敵を追うなら、追われる覚悟も要る」


 嫌な言葉だった。だが正しい。正しいから余計に嫌だ。


 佐野はケースを俺の方へ押した。


「持ってて。使わないのが一番いい。でも、使う時はすぐ使って」


 俺は少し迷った。受け取ることは、佐野が危険な場所へ行く前提を認めることでもある。けれど、受け取らなければ、何かあった時に遅れるかもしれない。


 俺は静かに手を伸ばし、その小さな機器を受け取った。


「……分かった」


 その時、アリスが小さく言った。


「佐野さん」


 佐野が目を向ける。


「死なないで」


 真っ直ぐな言葉だった。飾りも皮肉もない。だからこそ重い。


 佐野は一瞬だけ言葉を失ったみたいに見えた。ほんのわずかだ。けれど、確かに止まった。


「……努力する」


 それだけ返す声が、いつもより少しだけ柔らかかった。


 それから佐野は、これからの動きについて話し始めた。再度、駅周辺の流れを洗い直すこと。連続事件の自首犯の供述と実際の動きを照合すること。自首後に“静かになりすぎた”人間関係の線を追うこと。関係者の中に、金の流れや不自然な接触がなかったかを見ること。


 話は専門的で、具体的で、現実的だった。だから余計に重い。そう思うのに、俺たちはその真ん中に座っている。


「もし、犯人のピースが揃ったら」


 佐野が最後に言った。


「私はすぐ健一さんに連絡する。……ただし、その時点で警察に渡せる形になっていなければ、私が先に確認に行く」


「一人でか」


 健一さんが聞く。


「一人の方がいい時もある」


「危ない」


「危ないね」


 佐野はあっさり認めた。


「でも、人を増やすと気配が増える。相手が消える。……だから、そこは私が決める」


 言い切る時の佐野は強い。止められない強さがある。面倒な人間だと思う。でも、その強さが必要な場面もあるんだろう。


 話が終わり、佐野は立ち上がった。帰る気配。だが玄関へ向かう前に、一度だけ振り返ってアリスを見た。


「白金さん」


 アリスが少しだけ肩を揺らす。


「この前は、ごめん」


 雑誌を見せた件だろう。あの時のアリスの顔が、俺の頭にも浮かんだ。


「やり方が悪かった」


 佐野はそれだけ言った。


 アリスは少しだけ驚いた顔をして、それから小さく頷いた。


「……うん」


 許すとか許さないとか、そういう大きい話じゃない。でも、その一言は必要だったんだと思う。


 佐野はもう何も言わずに玄関へ向かい、帰っていった。


 ドアが閉まったあともしばらく、リビングには重い沈黙が残った。


 最初に口を開いたのは健一さんだった。


「……動く気だな、あいつ」


「うん」


 恵さんが静かに言う。


「怖いけど、止めても止まらない顔してた」


 母さんが小さく頷いた。


「そういう人なんでしょうね」


 俺は手の中のGPSの機器を見下ろした。こんなに小さいのに、重い。プラスチックの塊じゃない。責任の塊みたいに感じる。


 アリスが、隣で小さく息を吐いた。


「隆太郎」


「ん?」


「これ、始まる感じがするね」


 その言葉に、俺はすぐ返事ができなかった。


 始まる。

 たしかに、そういう感じがした。


 文化祭が終わって、少しだけ戻った日常の、その次に。

 事件の核心に向かう新しい段階が、静かに動き出している。


「……ああ」


 ようやくそれだけ言うと、アリスが俺の袖をそっと掴んだ。


 俺はその手に、自分の手を重ねた。


 守る。

 その言葉が、また少しだけ具体的な重さを持ち始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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