戦いは次の段階へ
翌朝の空は、妙に白かった。
晴れていないわけじゃない。雲が薄く広がって、陽の光をやわらかく散らしているだけだ。けれど、その白さが今日という日の輪郭を少し曖昧にしている気がした。
曖昧に見えるのは空だけで、やるべきことの方ははっきりしている。
佐野雪芽は、朝から自宅のローテーブルに広げた紙の束を、もう一度だけ確認していた。
自首犯へ流れた金の中継口座。
倉庫街の接触時間と移動の線。
四宮ハジメが臨時スタッフとして撮影現場へ入り込んだ記録。
天音アイラの証言。
そして、自分が襲われた時の状況整理と、犯人像の一致点。
どれか一つなら弱い。
だが、複数が同じ男の方角へ寄るなら、話は変わる。
「……よし」
小さく呟いて、ファイルを閉じる。
脇腹の傷が、体を少し前へ倒すだけで鈍く疼いた。まだ万全じゃない。だからこそ、今日でこの“個人的に追う”段階を、できるだけ前へ進めなければならない。
玄関を出た瞬間、冷たい空気が頬に当たる。
秋の終わりというより、もう冬の入口の空気だった。
※ ※ ※
警察署の建物は、外から見るといつだって無機質だ。
感情がないわけじゃない。人間は大勢いるし、それぞれの事情も怒りも疲れも中で渦巻いているんだろう。けれど外側は、そういうものを全部押し込めて、ただ“制度の箱”として立っている。
佐野は正面玄関から入って、受付で名前を告げた。
神木新田に呼ばれていると伝えると、職員はすぐに内線を入れ、数分後には神木本人が出てきた。
「早いですね」
神木が言う。
「待たされるの嫌いだから」
佐野が返すと、神木はそれ以上そこには触れなかった。
そういう人だ。どうでもいいところで無駄にぶつからない。
「こちらへ」
案内された先は、取調室みたいな物々しい場所ではなく、会議室に近い部屋だった。
机があり、椅子があり、壁際にホワイトボードがある。窓は小さい。空気は静かで、でも緊張が薄いわけじゃない。むしろ“ここから手続きを動かす部屋”らしい、現実的な重さがあった。
神木のほかに、年配の刑事が一人、若い補佐らしい刑事が一人いた。
どちらも神木ほどは鋭くないが、無駄な愛想もない。佐野を見る目つきも、探偵を下に見る感じではなく、“使える情報源かどうか”を測る視線だ。
「佐野さん、改めて」
神木が言う。
「本日、あなたから受け取る資料と証言整理をもって、四宮ハジメを主要被疑者として本格的に捜査対象へ移します」
その言葉は、やはり重かった。
佐野がここまで独自に追ってきた線が、ようやく公的な手の中へ渡る。
それは、肩の荷が少し下りる感覚でもあり、同時に“もう後戻りはない”という実感でもあった。
「じゃあ、始めるよ」
佐野はファイルを机の上に置き、迷いなく開いた。
最初に話したのは、自首犯の件だった。
自首までの流れが綺麗すぎること。
供述内容の一部に、報道で先行して出た情報と不自然な一致があること。
その一方で、金の流れだけがわずかに浮いていること。
神木たちは途中で細かく確認を入れた。
「この口座の中継は、誰が最初に掴んだ?」
「私」
「根拠は?」
「頻度の少ない法人名義の動きが、事件の直後だけ増えてた」
「その法人の実態は」
「表向きは休眠に近い。けど、夜間だけ使われた履歴がある」
淡々と積み上げる。
推理小説みたいな劇的なひらめきじゃない。地味で、面倒で、でもその地味さこそが現実だ。
次に倉庫街の話へ移る。
接触場所として向いていること。
夜間の搬入路の使われ方。
そこに繋がるレンタカーの履歴。
そして、自分がそこで四宮と思しき男に襲われたこと。
「相手の特徴は?」
年配の刑事が低く聞く。
「若い。整ってる。普通に見える。……でも、二本目の刃を迷いなく出す」
佐野は短く答えた。
「普通の通り魔なら、あそこまで体が慣れてない。少なくとも、刃物を持つことそのものに躊躇がない」
「あなた個人への怨恨ではなく?」
若い刑事が聞く。
「その線は薄いね」
佐野は即答した。
「私に個人的な執着があるなら、あんな場所じゃなくても機会は作れた。あのタイミングであの場所に来たのは、“私がそこに辿り着いたから”でしょ」
神木がそこで、短く補足した。
「つまり、倉庫街は四宮にとって消したい線の一つだった可能性が高い」
「そういうこと」
話は、さらに撮影現場の件へ移った。
天音アイラへの接触。
臨時カメラマンとしての出入り。
雑談を装った情報の引き出し。
友達についての探り。
そして名札に書かれた“四宮ハジメ”の文字。
「証人保護は?」
年配の刑事が神木へ聞く。
神木は即答した。
「すでに段取り中です。本人への接触も慎重に進めます」
佐野はそこで、少しだけ姿勢を変えた。脇腹が痛む。けれど声はぶれない。
「天音アイラは、まだ自分がどれだけ危うい位置に立ってるかを完全には理解してないと思う。だから、圧をかけすぎると逆に萎縮する」
神木が頷く。
「そこは把握しています」
その返答の速さに、佐野は少しだけ安心した。
やはり、この刑事は話が早い。
そこからさらに、連続事件の被害者たちと四宮の生活圏の重なり、表向きの職歴の不自然さ、知人関係の薄さ、“普通の人間を装った空洞さ”まで説明した。
説明が一通り終わる頃には、机の上にあったコーヒーはすっかり冷めていた。
数秒の沈黙のあと、神木がファイルを閉じる。
「十分です」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「正式に受理します。四宮ハジメを主要被疑者として、逮捕に向けた証拠整理へ移ります」
佐野は小さく息を吐いた。
ようやく、だ。
ここまで長かった。
朝日の事故を追い始めてから、違和感だけを頼りに歩いてきた時間が、ようやく“捜査”の形に乗る。
年配の刑事が、少しだけ低い声で言う。
「自首犯の再聴取も必要になるな」
神木が頷いた。
「動かします。……それと並行して、四宮本人の任意聴取準備、住居・勤務先の押さえ、過去の現場との照合を急ぎます」
若い刑事がメモを取りながら確認する。
「保護対象は白金アリス、天音アイラの二名で確定ですか」
「確定」
神木は迷いなく答えた。
「白金アリスは明確に次の標的候補。天音アイラは接触済みで、白金への線を引かれる恐れがある。どちらも放置できません」
その場にいた誰も異論を挟まなかった。
佐野はそのやり取りを聞きながら、少しだけ天井を見上げた。
ここまで来た。
もう“変な探偵が一人で嗅ぎ回っている”段階じゃない。
四宮ハジメは、警察にとっても追うべき犯人になった。
「神木さん」
佐野が呼ぶ。
「何ですか」
「追い詰めたら、たぶん早いよ」
神木の目が真っ直ぐ向く。
「四宮は、焦ったらたぶん止まらない。証拠を消すより先に、標的へ行く可能性がある」
神木は一拍だけ置いてから答えた。
「だから、こちらも急ぎます」
その言葉の温度は、机上の約束じゃなかった。
「白金アリスと天音アイラの保護は、今日から一段上げる。必要なら、家族にも具体的に指示を出します」
佐野は少しだけ口元を緩めた。
「いいね。ようやく本気だ」
「最初から本気です」
「知ってる。言ってみただけ」
神木は、ほんの僅かだけ目を細めた。
笑ったわけじゃない。だが、この短いやり取りの間に、仕事相手としての信頼みたいなものが少しだけできた気がした。
※ ※ ※
その日の夕方、佐野は警察署を出たあとで、健一と隆太郎へそれぞれ短く連絡を入れた。
『十分に証拠が集まった』
『警察に正式に渡した』
『神木新田が正式に加わる』
『白金さんとアイラは保護対象』
その文面は事務的だ。
でも、その短い文字列だけで十分だった。
受け取った側には、意味が伝わる。
ここからは、もう逃げ道のない段階へ入るのだと。
佐野は駅前の風にコートの襟を少しだけ寄せた。
空はもう暗くなり始めている。街灯が白く灯り、駅へ吸い込まれる人の流れが絶えない。
その流れのどこかに、四宮ハジメみたいな男も普通に紛れ込める。
それが、あまりにも気持ち悪かった。
「……だからこそ、今のうちに終わらせる」
呟いて、佐野は歩き出した。
戦いは、次の段階へ入った。
静かに。
でも、確実に。
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