逮捕前日
その日の夕方、天音アイラは駅前の小さな喫茶店で、両手でカップを包むみたいに持ったまま固まっていた。
目の前には、見覚えのある女の人と、見覚えのない男の人がいる。
見覚えのある方は佐野雪芽。
探偵だと名乗った、距離の詰め方が少しだけ雑で、でも白金アリスと宮本隆太郎の名前を自然に出した人。あの日は逃げた。逃げたのに、結局話をしてしまった。話してしまったのは、佐野が無理やりだったからというより、あの人が言う二人の名前に嘘っぽさがなかったからだ。
見覚えのない方は、神木新田と名乗った。
刑事だと最初に言われた時、アイラは本気で立ち上がりかけた。
知らない大人に囲まれるのは苦手だ。まして警察なんて、普通に生きていればそう何度も関わるものじゃない。何もしていないのに、自分が何か悪いことをしたみたいな気分になる。
けれど、神木新田は、その反応を見ても急かさなかった。
「驚かせてすみません」
最初にそう言った。
謝罪の形だけではなく、本当に“驚かせた”ことを理解している声だった。
「今日は天音さんを責めたいわけでも、困らせたいわけでもありません」
低くて、落ち着いた声。
押しつける感じがない。けれど、曖昧でもない。
「少しだけ、確認したいことがあります」
その言い方が、アイラにはまだましだった。
全部を今ここで話せ、と言われる方がずっと怖い。
今、喫茶店の奥の席には三人だけが座っている。
人目はある。店員さんもいる。だから完全な密室ではない。それがアイラには救いだった。
「……確認、って」
アイラが小さく聞くと、神木は頷いた。
「先日、撮影現場で四宮ハジメという男に会いましたね」
その名前が出た瞬間、アイラの指先がぴくりと動いた。
四宮ハジメ。
あの、普通っぽくて、優しそうで、でも最後の笑い方だけが妙に引っかかった男。
撮影の後、気のせいかもしれないと思った違和感。
それが、今、警察の口から名前付きで出てきた。
「……はい」
返事は、思ったよりちゃんと出た。
それだけでも、少しだけ自分を褒めたい気分になる。
「名札を見たんですね」
「……見ました」
「会話の内容を、覚えている範囲で教えてください」
神木の質問は、丁寧なのに無駄がなかった。
アイラは自分の中の記憶をゆっくり辿る。
撮影のこと。
褒められたこと。
休憩中に話しかけられたこと。
最近できた友達のことを聞かれたこと。
明るい子だとだけ答えたこと。
名前は出していない、と思うこと。
そして、最後の笑み。
話している途中で、何度か言葉に詰まった。
でも、そのたびに佐野が余計な口を挟まず、神木も急がせなかったから、どうにか最後まで言えた。
「……その時、変だと思った理由は?」
神木がそう聞く。
アイラは少しだけ迷った。
曖昧すぎて、笑われるかもしれないと思ったからだ。
「……うまく、言えないです」
「うまく言えなくて構いません」
神木は即座に言った。
「違和感は、違和感のままでいいです」
その一言に、アイラは少しだけ救われた。
説明が下手でも、感じたこと自体を否定されないのは大きい。
「……笑い方、が」
アイラは小さく言う。
「優しい感じなのに、優しくなくて。……見られてる、みたいで」
口にしてから、自分でも抽象的すぎると思った。
だが、佐野はその言葉を聞いて静かに頷いた。
「それで十分」
探偵らしい返しだった。
神木も、メモを取りながら言う。
「ありがとうございます。大事な証言です」
アイラは少しだけ息を吐いた。
大事な証言。
その言葉は重い。でも、ただ怖がられて終わるよりはましだった。
そこで、神木が少しだけ声の温度を変えた。
「天音さん」
「……はい」
「ここから先の話が、今日いちばん大事です」
アイラの背筋が自然に伸びる。
「四宮ハジメは、今、危険人物として捜査対象になっています」
その言葉が落ちた瞬間、喫茶店の周りの音が少しだけ遠くなった気がした。
危険人物。
捜査対象。
さっきまで“変な感じのしたカメラマンさん”だった人が、一気に別のものへ変わる。
「そして、あなたは実際に接触されています」
神木は淡々と続けた。
「白金アリスさんとも接点がある。だから、今後しばらく、あなたも保護対象として動きます」
「……保護」
アイラが、掠れた声で繰り返す。
保護される、という言葉は、安心をくれると同時に、自分が“危ない側”にいると突きつけてもくる。何もしていないはずなのに、自分の日常の形が勝手に変わるみたいで、少しだけ怖い。
「大げさに聞こえるかもしれません」
神木は言う。
「でも、今は大げさなくらいがちょうどいい」
その言い方は、妙に納得できた。
中途半端に大丈夫だと言われる方が、今はたぶん怖い。
アイラは膝の上で手を握ったまま、ぽつりと聞く。
「……白金さんは」
「保護対象です」
神木は即答した。
「宮本隆太郎くんも含め、家族と共有しながら動いています」
その答えに、アイラの胸の中の何かが少しだけ落ち着いた。
自分だけじゃない。いや、それは良い意味ではない。みんな危ないという意味なのだから。
それでも、“誰にも言えないまま自分だけが怖い”状態ではないことは、少しだけ救いだった。
「……白金さん、怖がってましたか」
気づけば、そう聞いていた。
自分のことより先に、そのことが気になったらしい。
佐野が少しだけ目を細める。
「怖がってるよ」
淡い声だった。
「でも、逃げてはいない」
その答えは、アイラの知っているアリスらしかった。
明るいのに、強い。強いのに、ちゃんと怖がる。
そして、怖いまま立っている。
アイラは少しだけ唇を結んでから、頷いた。
「……そっか」
※ ※ ※
その夜、太刀川家には、また小さな会議の空気が戻っていた。
昨日と違うのは、全員の顔に“もう一段先へ進む覚悟”が見えることだ。
健一さん、恵さん、アリス、そして俺。
机の上には神木から渡された簡潔な注意資料。
四宮ハジメへの捜査が正式に進んだこと。
アリスとアイラが保護対象になったこと。
今後、警察が動く局面では、急な連絡や行動制限が入る可能性があること。
文字にすると現実味が増す。
それが嫌でも、目を逸らせない段階まで来た。
健一さんが、資料を机に置いて低く言った。
「……明日以降、動く可能性が高い」
その一言で、部屋の空気がまた重くなる。
「神木さんからも聞いた」
俺が答えると、健一さんは頷いた。
「四宮の方も、自分が追われている気配を感じているはずだ。なら、こっちが動く前に何かしてくる可能性もある」
恵さんが静かに息を吐く。
「嫌な言い方だけど、その通りなのよね」
アリスは黙っていた。
でも、顔は伏せていない。前なら、こういう話の時に少しだけ視線を落とすことが多かった。今は違う。怖いまま、ちゃんと聞こうとしている。
「朝日」
健一さんが呼ぶ。
アリスは小さく「うん」と返した。
「明日から、少なくともこちらから許可が出るまでは、できるだけ家から単独で出ない」
「分かった」
即答だった。
少し前なら、そこでふくれたり、不服そうな顔をしたかもしれない。けれど今のアリスは、その必要性が分かっている。
「俺も一人にはしない」
俺が言うと、アリスがちらっとこっちを見る。
その目に、ありがとうと、少しの不安が一緒にあった。
母さんも、今日は俺の家から来ていた。
少し前までアリスがうちで夕飯を食べていたことを思うと、日常と非日常の混ざり方が妙だった。
「うちの方も、しばらく夜は気をつけるわ」
母さんが静かに言う。
「何かあったら、すぐ連絡して」
その声は落ち着いていた。
でも、息子が巻き込まれていることへの緊張はちゃんとある。親だから当然だ。
俺はそのやり取りを聞きながら、スマホを一度だけ見た。
佐野から短いメッセージが入っている。
『今日のアイラ、思ったよりちゃんと話せた』
『神木は圧が弱くて助かった』
その後に続けて、もう一通。
『で、明日たぶん早い』
たったそれだけ。
だが、その短さが逆に重かった。
たぶん早い。
つまり、四宮ハジメの確保へ向けて、警察が早朝から動くつもりなんだろう。
俺は画面を伏せた。
心臓が少しだけ速くなる。
ここまで来た。ようやく。けれど、ここからが一番危ないのも分かる。
会話がひと段落したあと、アリスが小さく言った。
「……もし、明日で終わったら」
全員の視線が、自然にアリスへ向く。
「私、また少しだけ普通に戻れるかな」
その問いは、部屋の真ん中に静かに落ちた。
誰もすぐには答えなかった。
簡単に“戻れる”なんて言える状況じゃないからだ。
一度起きたことは消えない。朝日が死んだことも、アリスとして生き直していることも、四宮ハジメがいたことも、全部消えない。
それでも、恵さんが最初に口を開いた。
「全部は元通りじゃなくても」
穏やかな声だった。
「少しずつ、戻せるものはあると思う」
アリスは、その言葉をじっと聞いていた。
たぶん“元通りじゃない”という部分まで含めて、ちゃんと受け取っている顔だった。
「……うん」
小さく頷く。
健一さんが低く言った。
「まずは明日だ」
それが一番現実的だった。
まずは明日。
四宮ハジメを捕まえること。
そこでようやく、“その後”を考えられる。
その夜、俺は太刀川家から自宅へ戻る道で、何度も空を見上げた。
雲が薄く流れていて、星はあまり見えない。
明日はどうなる。
何も起きずに終わるのか。
何かが起きてしまうのか。
答えはどこにもない。
でも、始まってしまえば止まらないことだけは分かっていた。
四宮ハジメを捕まえるための明日が、もうすぐ来る。
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