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回覧板

 四宮ハジメの身柄を押さえるための動きは、朝が完全に明るくなる前から始まっていた。


 空はまだ薄い灰色で、街の輪郭もどこか眠たげだ。通勤の車が増え始めるには少し早く、マンションの廊下にも生活の音はほとんどない。そういう時間帯を選んだのは当然だった。逃げ道を少しでも減らすため。近隣への影響を最小限にするため。そして、四宮ハジメが“普通の朝”を装う前に押さえるために。


 神木新田は、同僚の刑事を一人伴って、四宮の住むマンションの前に立っていた。


「……静かですね」


 若い刑事が小声で言う。


「こういう時ほど、静かな方が嫌なことが多い」


 神木は短く返した。


 エントランスはオートロックだが、管理会社にはすでに連絡が入っている。管理人は神木たちの顔を見るなり、必要以上のことを聞かずに頷いた。事情を全部は知らされていないだろう。それでも、警察の空気だけで“ただごとじゃない”ことは分かるらしい。


 エレベーターに乗る。

 数字がゆっくり上がる間、誰も喋らなかった。


 目的の階に着き、神木は廊下の先にある一室を見る。

 表札は簡素だ。ありふれた苗字。生活感の薄い金属製のプレート。こういうところにまで、四宮ハジメという男の輪郭が滲む。目立たず、埋もれず、覚えられすぎない。


 神木はインターホンを押した。


 応答はない。


 少し間を置いて、もう一度押す。

 やはり、返事はない。


「四宮ハジメさん。警察です」


 神木が低く呼びかける。声は必要以上に大きくない。近隣を無用に刺激しないためでもあるし、部屋の中の気配を拾うためでもある。


 沈黙。


 ドアの向こうに、人の動く気配がない。


 神木は若い刑事と目を合わせ、小さく頷いた。管理人がマスターキーを持って前へ出る。鍵が回る音が、やけに大きく聞こえた。


 扉が開く。


 最初に感じたのは、無臭に近い空気だった。


 独身男性の一人暮らしにありがちな匂いがない。整いすぎた部屋の匂い。換気された、温度のない空気。神木は靴のまま踏み込み、視線を素早く動かした。


 玄関は綺麗だった。

 靴は一足だけ。揃えてある。

 廊下にも物がない。

 リビングへ続く扉は半分開いていて、その先には、整然とした家具が見えた。


「……いないな」


 若い刑事が小さく呟く。


 神木は返事をせず、部屋の中へ進んだ。


 リビングも同じだった。綺麗すぎる。

 テーブルの上に余計なものはない。ソファも乱れていない。キッチンの流しに洗い物はなく、冷蔵庫の横にはゴミ袋一つ置かれていない。人が住んでいる部屋というより、“人が住んでいるように見せた部屋”に近い。


 神木はその違和感を胸の奥で噛みしめながら、寝室らしい扉へ向かった。


 そこを開けた瞬間、空気の質が変わった。


 若い刑事が、息を呑む音を隠せなかった。


 壁一面に、写真が貼られていた。


 ただし、それはよくある趣味のコルクボードや、旅行の写真なんかじゃない。無造作に見えて、異様に秩序だった並び方をしている。事件現場の周辺写真。人混みの中から切り取られた、特定の個人の横顔や後ろ姿。何日分もあると思われる通学路の記録。駅のホーム。雑誌の切り抜き。撮影現場の外観。コンビニ前。喫茶店。住宅街の角。


 そして、その中には、もう誰の目にも分かるものが混じっていた。


 白金アリス。

 天音アイラ。

 連続事件の被害者たち。

 それぞれが、別々に、しかし一つの“流れ”の中に配置されている。


 さらにその奥、机の上には、事件後の被害者たちと思われる写真まで整然と並べられていた。亡骸そのものを露骨に写したものばかりではない。だが、血の痕、倒れた体、救急の規制線、そういった“死の後”だけを冷たく切り取った画像が、執着の深さそのままに保存されている。


 生活の温度がなかった理由が、そこにあった。


 四宮ハジメの部屋には、自分の生活より、他人の人生と死の方が濃く置かれていた。


「……狂ってる」


 若い刑事が掠れた声で言う。


 神木は黙ったまま、部屋の奥へ進んだ。


 壁際には細かいメモが貼られている。

 曜日。

 時刻。

 服装。

 天候。

 立ち位置。

 接触しやすい距離。


 まるで獲物の観察記録だ。


 その中央付近に、比較的新しい写真があった。


 白金アリス。

 街角で撮られた横顔。

 駅前で誰かと並ぶ姿。

 遠くから覗くように切り取られた笑顔。


 そして、その隣に、天音アイラの写真がある。


 アリスと並んでいない単体のもの。

 撮影帰りと思われるもの。

 カフェの外。

 駅前。

 少し俯いて歩く姿。


 そこに貼られた小さなメモには、短くこう書かれていた。


『似ている』


 神木の目が鋭くなる。


 ただの偶然じゃない。

 四宮は、二人の関係性そのものにも興味を持っていた。


「神木さん」


 若い刑事が、押し殺した声で呼ぶ。


「対象、完全に逃走準備してます」


 クローゼットは半分空だった。必要な衣類だけが抜かれ、残りはむしろ綺麗に整えられている。金目のものも最低限しかない。パソコン本体は消えている。スマホの予備端末らしきものもない。


 出るつもりで出ている。

 しかも、かなり前から。


「全班に連絡」


 神木が低く言う。


「四宮ハジメは自宅不在。逃走の可能性極めて高い。至急、行方確認と周辺捜索に切り替える」


 若い刑事がすぐに無線へ手を伸ばす。


 神木はもう一度、部屋の中央を見渡した。

 整然とした狂気。張り巡らされた観察。死を記録した写真。白金アリスの笑顔。その隣の天音アイラ。


 間に合わなかった。

 その感覚が、一瞬だけ神木の胸の奥を冷やした。


 だが、立ち止まる余地はない。


 四宮が姿を消した今、次に起きるのは“逃走”か、“接触”だ。

 そして、この男の性質を考えれば、後者を切り捨てることはできない。


 神木はすぐにスマホを取り出した。


 最初にかけたのは、太刀川健一だった。


「神木です」


 相手が出るのは早かった。待っていたんだろう。


『……どうでした』


「四宮ハジメは自宅にいませんでした」


 その一言で、電話の向こうの空気が沈むのが分かった。


「部屋は押さえました。証拠もあります。ただし、対象は逃走済みの可能性が高い」


 数秒の沈黙。

 その後に返ってきた健一の声は、低く抑えられていた。


『分かりました』


「今から警察署で今後の方針を詰めます。来られますか」


『行きます』


 即答だった。


「恵さんにも共有を。それと――白金さんを一人にしないでください」


『分かっている』


 短い言葉だが、その中に父親の張り詰めた怒りがあった。


 神木は次に、佐野へ短くメッセージを送った。


『四宮宅、空』

『逃走済み濃厚』

『部屋は黒』


 送信してから、神木は写真の貼られた壁をもう一度見た。


 四宮ハジメは、自分が追われることを見越して先に動いた。

 なら、次の狙いも早い。


「急げ」


 神木が言うと、部屋の中の空気がさらに一段張り詰めた。


 ※ ※ ※


 太刀川家にその連絡が入ったのは、夕方の少し前だった。


 健一さんが電話を切った時点で、部屋の空気はもう変わっていた。恵さんも、アリスも、声に出さなくても分かったのだと思う。良くない方向へ話が動いたことを。


「お父さん……?」


 アリスが不安そうに聞く。


 健一さんは一度だけ大きく息を吸ってから言った。


「四宮は、部屋にいなかった」


 その一言で、恵さんの顔色が変わる。


「……逃げたの?」


「その可能性が高い。部屋は押さえたらしいが、本人はいない」


 アリスの肩が小さく震えるのが見えた。

 名前がついた恐怖が、今度は“もうそこにいない”恐怖へ変わる。見えない場所へ移ったぶん、余計に質が悪い。


 そこへ、母さんも呼ばれてすぐに来た。

 うちから太刀川家は近い。玄関が開き、事情を聞いた瞬間、表情だけで事態の重さを受け取ったのが分かる。


「警察署に来てほしいって」


 健一さんが言う。


「今後の方針と、四宮の部屋の件も含めて」


 恵さんがアリスを見る。

 母親の目だった。置いていくのが不安でたまらない目。でも、今この状況で警察署へ連れていく方が混乱するのも分かっている。


 母さんが静かに口を開く。


「朝日は……隆太郎とここに残った方がいいわ」


 会話文だけ、アリスを知る者の前では“朝日”になる。

 その呼び名が、今は少しだけ心を落ち着かせる。


 俺も頷いた。


「俺がいる」


 健一さんは数秒だけ黙ったあと、ゆっくり頷いた。


「……頼む」


 その一言の重さを、俺はちゃんと受け取る。


 アリスは不安そうな顔で三人を見る。


「私も行った方がよくない?」


「今はだめ」


 恵さんがはっきり言う。


「朝日が動く方が危ない。ここで隆太郎くんと待ってて」


「でも……」


「朝日」


 健一さんの低い声が入る。


「今は従ってくれ」


 アリスは少しだけ唇を噛んだ。

 納得していない。けれど、ここで逆らっても誰も楽にならないことは分かっている顔だった。


「……分かった」


 小さく頷く。


 三人は急いで支度を始めた。コートを羽織り、鍵を取り、必要な書類やスマホを確認する。家の中の空気が急に慌ただしくなる。


 その中で、母さんが俺の前まで来て、短く言った。


「無理はしないで」


「分かってる」


「朝日ちゃんから離れないこと」


「うん」


 母さんはそれ以上は言わなかった。

 言いたいことはもっとあるんだろう。でも、それを全部ここで言葉にしても、俺の肩に重さが増えるだけだと分かっているんだろう。


 やがて、健一さん、恵さん、母さんの三人が玄関を出ていく。

 ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。


 家の中が、急に静かになる。


 さっきまでの慌ただしさが嘘みたいに消えた。

 リビングには、俺とアリスだけが残る。


 アリスはソファの前に立ったまま、少しだけ所在なさそうにしていた。

 大人たちが全員いなくなるというのは、思った以上に不安なんだろう。警察に守られると言われても、目の前の人数が減るのは感覚として心細い。


「……お茶、飲むか」


 俺が言うと、アリスは少し遅れて頷いた。


「うん」


 俺はキッチンへ向かい、急須に残っていたお茶を温め直した。


 その間、背中越しにアリスの気配を感じる。

 リビングでじっと座っている気配。落ち着かない時の、妙に静かな気配だ。


 湯呑みにお茶を注いで戻ると、アリスは両手を膝の上に置いたままソファに座っていた。顔は伏せていない。でも、さっきより少しだけ色がない。


「ほら」


 湯呑みを差し出すと、アリスは両手で受け取った。


「……ありがと」


 その声は小さかった。


「怖いか」


 俺が聞くと、アリスは少しだけ迷ってから頷く。


「うん。……だって、どこにいるか分からないんでしょ」


「そうだな」


「それが、いちばん嫌」


 その言葉には、俺も頷くしかなかった。

 見えている敵より、見えていない敵の方が厄介だ。今の四宮ハジメは、まさにそれだった。


「でも」


 アリスが湯呑みの縁を指でなぞりながら言う。


「ここには、隆太郎がいる」


 その一言に、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 信じてもらっている。それは、嬉しい。嬉しいけれど、同時に重い。守れなければ意味がないからだ。


「いるよ」


 俺は短く答えた。


「だから、大丈夫にする」


 前にも言った言葉だった。全部が大丈夫だとは言えない。言えないけれど、そうするために動くしかない。


 アリスはその言葉を聞いて、小さく頷いた。


 湯気が二人の間にゆっくり立ちのぼる。

 外はもう完全に夕方から夜へ変わり始めていた。


 その時だった。


 インターホンが鳴った。


 ぴんぽん、といつもと同じ音。

 なのに、その一音だけで空気が一気に冷えた気がした。


 俺とアリスが、同時に顔を上げる。


 この家に、今ここへ来る予定の人間はいない。

 健一さんたちが何か忘れて戻ってきたなら、電話かメッセージを入れるはずだ。


 ぴんぽん、ともう一度鳴る。


 アリスの手が、湯呑みの縁で少しだけ強くなるのが見えた。


「……誰」


 アリスが小さく呟く。


 俺はすぐには答えず、スマホを手に取った。

 神木からも、佐野からも連絡はない。

 健一さんたちからも来ていない。


 つまり、本当に“予定外”だ。


 胸の奥が、じわりと冷える。


「俺が見る」


 立ち上がると、アリスも反射みたいに立ち上がりかけた。


「待って」


 俺が手で制すると、アリスは不安そうな目でこちらを見たまま止まった。


「ここにいて」


「でも……」


「いいから」


 少しだけ強く言うと、アリスは唇を引き結んで頷いた。


 俺は玄関へ向かう。

 足音が自分でも分かるくらい慎重になる。

 心臓の音がやけに大きい。


 ドアスコープを覗く。


 そこに立っていたのは、見慣れない男だった。


 中年でも若すぎでもない。地味な上着を着て、手には回覧板らしきものを持っている。顔立ちは平凡で、見るからに怪しいという感じではない。むしろ、どこにでもいる隣人に見える。


 だが、それが逆に嫌だった。


 神木の言葉が頭をよぎる。

 普通に見える。

 それがいちばん危ない。


 俺はドアを完全には開けず、チェーンをつけたまま少しだけ開いた。


「……どちらですか」


 相手の男は、にこやかに頭を下げた。


「すみません、隣の者です。回覧板を届けに来ました」


 その声音は、あまりにも普通だった。

 回覧板。ありふれた理由。今どき珍しいくらい平凡な口実。


 けれど、俺の背中には冷たいものが走っていた。


 見たことがある。

 いや、正確には“写真で見たことがある”。


 頬の線。

 目元。

 口元の整い方。


 髪型も、雰囲気も、少し変えている。

 だが、それでも分かる。


 四宮ハジメだ。


 その瞬間、思考より先に身体が強張る。


 けれど、気づいたのは一瞬遅かった。


 ドアの隙間から伸びてきた腕が、信じられないほど速かった。


「っ――!」


 何かが脇腹のあたりに押し当てられる。

 次の瞬間、全身に電流みたいな衝撃が走った。


 スタンガン。


 頭で理解した時には、もう足に力が入らない。

 視界がぶれる。

 身体が言うことを聞かない。


 遠くでアリスの声が聞こえた気がした。


「……隆太郎?」


 四宮ハジメの口元に、写真で見たあの“普通すぎる笑み”が浮かぶ。


 意識が、そこから急速に沈んでいった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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