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助けて

 意識が浮かび上がってくる時、最初に戻ってきたのは痛みじゃなく痺れだった。


 全身が自分のものじゃないみたいに重い。腕も脚も、皮膚の表面に薄い膜が張ったように感覚が鈍くて、息を吸うたびに喉の奥が焼ける。視界の端が白く滲んで、天井と床の境目がうまく分からない。


 俺は玄関のたたきのところに倒れていた。


「……っ、ぁ……」


 声にならない音が漏れる。


 四宮。

 スタンガン。

 ドアの隙間から伸びてきた腕。

 あの“普通の顔”。


 そこまで思い出した瞬間、心臓がひどく鳴った。跳ねるみたいに、強く、早く。


 俺は無理やり上半身を起こした。胃がひっくり返るような吐き気がこみ上げる。手の震えが止まらない。視界がまだ定まらない。


 玄関のドアは半開きだった。

 チェーンは外れている。

 冷たい外気が細く吹き込んでいて、家の中の静けさが余計に不気味に感じた。


「……アリス」


 掠れた声で呼ぶ。


 返事はない。


 胸の奥が、ぞっと冷えた。


 俺は壁に手をつきながら立ち上がった。足元がふらつく。脳がまだちゃんと繋がっていない。でも、そんなことを気にしている時間はなかった。


「アリス!」


 今度は少し大きな声で呼ぶ。


 リビングへ走る。

 誰もいない。

 ソファの上に、アリスが使っていたクッションだけが歪んだ形で残っている。急に立ち上がった気配みたいに見えて、余計に嫌だった。


 キッチン。

 洗面所。

 客間。

 二階はない。探す場所なんて多くないのに、どこにもいない。


「……うそだろ」


 喉の奥が乾いて、言葉が引っかかる。


 スマホ。

 そう思ってポケットを探る。入っていた。画面をつける。時刻を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。


 二時間。


 俺が気を失ってから、もう二時間近く経っていた。


「っ……!」


 胃の奥が冷たくなる。

 二時間。

 四宮がアリスを連れて動くには、十分すぎる時間だ。


 俺は反射的にアリスへ電話をかけた。

 コール音。

 長い。長すぎる。

 出ない。


 もう一度。

 出ない。


 指が震える。うまく画面を押せない。

 次に健一さんたちへメッセージを打つ。


『アリスが誘拐された』


 短すぎる。説明が足りない。分かっているのに、それ以上の言葉がうまく出てこない。今はとにかく伝えるしかなかった。


 送信。


 次に、母さんにも同じ内容を送る。恵さんにも。グループにまとめて打つ余裕はなかった。焦りで思考が細切れになる。二時間という数字だけが、頭の中で赤く点滅していた。


 何か。

 何かないか。


 俺はリビングの真ん中で立ち尽くしそうになって、そこでようやく思い出した。


 栗のキーホルダー。


「……っ!」


 鞄の内側につけさせた、GPS入りのキーホルダー。

 アリスが“お守りみたい”と笑っていたやつ。


 俺はすぐにスマホのアプリを開いた。手が震えて、パスコードを二回打ち間違える。舌打ちしそうになるのを堪え、もう一度押す。


 地図が開く。

 読み込みの円が回る。

 遅い。体感が遅すぎる。


 数秒後、小さな点が表示された。


 動いている。


 街の中心部じゃない。

 駅前でもない。

 もっと外れ。

 住宅地を抜けた先、使われていない工業地帯に近い場所。地図の色が薄くなる辺り。今ではほとんど人が行かない、古い廃工場や倉庫が残っている区域だ。


「なんで……」


 呟いてから、自分で意味のない問いだと思った。

 四宮なら、そういう場所を選ぶ。人目が少なくて、音が逃げやすくて、助けが来にくい場所。


 俺はすぐに佐野へメッセージを送った。


『アリスのGPSが動いてる』

『位置送る』

『今から向かいます。来てください』


 続けて位置情報のスクリーンショットを添付する。


 数秒後、既読がついた。

 返事はすぐだった。


『行く』

『神木にも回す』

『一人で突っ込みすぎないで』


 最後の一文を読んだ瞬間、思わず歯を食いしばった。


 一人で突っ込まない。

 そんなこと、今の俺にできるのか。


 でも、行かない選択肢はない。


 俺は玄関へ向かいながら、机の上に投げてあった上着を掴んだ。脇腹に鈍い痛みが残っている。スタンガンの余波で足も少し痺れている。そんなことは関係なかった。


 鍵をかけるか一瞬迷って、やめた。

 戻ってくる時に一秒でも惜しい気がしたからだ。


 夜の外気が、顔にぶつかる。


 走る。

 住宅地を抜ける。

 息がすぐに上がる。足が少し重い。けれど止まれない。スマホの画面に映る点だけを頼りに、俺は暗くなり始めた街をひたすら走った。


 ※ ※ ※


 アリスが目を覚ました時、最初に感じたのは鉄の匂いだった。


 錆びた金属と、湿ったコンクリートの冷たさ。埃っぽい空気が鼻の奥にまとわりつく。頭が重い。耳の奥がじんじんする。手首が痺れていて、動かそうとしても固く引かれる感覚がある。


「……っ、ぁ……」


 声が掠れる。


 薄暗い。

 いや、真っ暗じゃない。高い位置に割れた窓があって、そこから夕方の名残みたいな青い光が細く落ちている。広い。天井が高い。足元は冷たいコンクリート。ところどころに鉄骨や廃材が影になって積まれている。


 廃工場。

 その単語が、遅れて頭に浮かぶ。


 アリスはそこで、自分の手足が縛られていることに気づいた。両手は背中側。足首もきつく固定されている。体を起こそうとすると、縄が食い込んで痛い。


 視界の向こうで、小さな橙の火が揺れた。


 誰かが煙草を吸っている。


 その火を目で追っていくと、男が一人、少し離れた場所に立っていた。


 壁にもたれるようにして、煙をゆっくり吐いている。

 普通の服装。整った顔。年齢は若い。街ですれ違っても違和感のない、むしろ感じのいい人間に見える顔。


 けれどアリスは、その顔を知っていた。


 以前、佐野が見せてくれた写真。

 何度も見返したわけじゃない。でも、忘れられない顔。


「……し、のみや……」


 掠れた声でその名をこぼすと、男は少しだけ目を細めた。


「へえ」


 煙草を指に挟んだまま、口元だけで笑う。


「もう顔を覚えられてるんだ」


 四宮ハジメ。

 写真で見た顔と、同じだった。


 その瞬間、アリスの背中に冷たいものが走る。

 夢じゃない。

 曖昧な恐怖じゃない。

 目の前に、いる。


 四宮は煙草を床に落として、靴の先で揉み消した。

 火が潰れる。

 薄暗い工場の中に、その動きだけが妙にはっきり見えた。


「起きた?」


 声まで普通だった。

 それが余計に怖い。


「……なんで」


 アリスは喉の奥の震えを抑えきれないまま聞いた。


「なんで、こんな……」


「こんな、ね」


 四宮は少し考えるふりをして、それから肩を竦めた。


「君を見てたら、欲しくなったから」


 その言い方があまりにも軽くて、アリスは息を呑んだ。

 欲しくなった。

 人間を、物みたいに。


「君は美しいから」


 四宮が言う。


「そこが面白い」


 アリスの顔から、血の気が引く。

 

「何人目かで女子高生を線路で落とした時も、美しかった」


 四宮の声には、狂気じみたうっとりした響きが混じっていた。


「人が死ぬ瞬間って、ほんとうに美しい。終わるっていうのは、完成するってことだから」


 アリスの呼吸が浅くなる。

 この男はおかしい。

 そんなことは最初から分かっていた。けれど、目の前で自分の死を“綺麗だった”と語られると、理解を超えて寒気だけが先にくる。


「……っ、狂ってる」


 アリスが絞り出すと、四宮は少しだけ笑った。


「よく言われるよ」


 軽い。

 何もかもが軽い。


「でも、死は美徳だ」


 四宮の声だけが、そこで少しだけ深くなった。


「汚いまま生きるより、綺麗に終わる方がいい。君たちはそれを分かってないだけだ」


 そう言いながら、四宮はゆっくりアリスへ近づいてくる。

 足音が、広い工場の中でやけに大きく響く。


 アリスは無意識に後ずさろうとして、縄に阻まれる。逃げられない。手足は動かない。喉だけが熱くなる。


 四宮はしゃがみ込んで、アリスの顔を覗き込んだ。

 普通の距離感で。

 普通の人間みたいに。

 それがひどくおぞましかった。


「捕まる前に、最後に一人だけ、ちゃんと終わらせておきたくてね」


 アリスの肩が小さく震える。


「最後に?」


「そう」


 四宮は笑う。


「僕が捕まって、しばらく殺せなくなるのは、あまり趣味じゃない。だから君で一区切りつける」


 アリスの目に、涙が滲みかける。

 怖い。

 怖いのに、泣いたら余計に相手を喜ばせそうで、必死に唇を噛む。


「隆太郎……」


 掠れた声で、その名が漏れる。


 四宮の目が、わずかに細くなった。


「恋人の名前?」


 その問いには、答えなかった。

 答えたくなかった。


 四宮はそれを気にする様子もなく、立ち上がる。

 懐からナイフを取り出した。鈍い光が、薄暗い工場の中で嫌に冷たく見える。


 アリスの呼吸が止まりかける。


「やめて……」


「嫌だよ」


 四宮はあまりにも普通に言った。


「だって、これが一番綺麗だから」


 そして、刃先をアリスの胸へ向けて構える。


 その瞬間、どこか遠くで、誰かが必死に走っている音がした気がした。


 ※ ※ ※


 GPSの点は、廃工場地帯の奥で止まっていた。


 走りながら何度も画面を確認する。

 もうすぐだ。

 もうすぐ着く。

 なのに、距離はなかなか縮まらない。


 息が切れる。

 胸が焼ける。

 足が重い。

 それでも、止まったら全部終わる気がした。


 四宮は、もうそこにいる。

 アリスも、そこにいる。


 俺は工場群の影が見え始めたところで、いちばん奥の建物に目を向けた。

 灯りはない。

 使われていない建物独特の、死んだみたいな輪郭だけがある。


 スマホの点は、その中を指していた。


「……待ってろ」


 誰に言うでもなく、息の切れた声で呟く。


 そして俺は、止まることなくその廃工場へ向かって走った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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