リベンジマッチ
廃工場の入口は、思っていたよりもあっさり開いた。
錆びついた鉄の引き戸は半分だけ開いたままで、そこから冷たい空気が細く流れ出している。誰かが最近通った気配がある。油と埃と、長い間使われていない建物特有の湿った匂いが鼻の奥に絡みついた。
俺は息を殺して中へ入った。
足元のコンクリートはひび割れていて、ところどころに小さな瓦礫や鉄くずが散らばっている。少し踏み方を間違えれば、それだけで音が鳴る。鳴れば終わる。そう思うと、心臓の音の方がよほど大きかった。
GPSの点は、もうほとんど目の前を示していた。
高い天井。
暗い梁。
割れた窓から差し込む、夕方とも夜ともつかない青白い光。
その奥から、声が聞こえた。
「――だって、これが一番綺麗だから」
四宮ハジメの声だった。
全身の血が、一気に逆流するみたいに熱くなる。
俺は柱の陰から、そっと奥を覗いた。
いた。
工場の中央近く、開けた場所にアリスが座らされている。両手は背中側で縛られ、足首も拘束されている。顔色が悪い。けれど、意識はある。その前に、四宮ハジメが立っていた。
手にはナイフ。
刃先が、アリスの胸へ向いている。
思考が追いつく前に、身体が先に動いた。
俺は足元の瓦礫の中から、尖っていて、重さのある石を掴んだ。野球なんて大して得意じゃない。狙って何かを当てるような才能もない。
それでも、外せないと思った。
振りかぶる。
息を止める。
全力で投げる。
石は、鈍い音を立てて四宮のこめかみに当たった。
「っ……!」
四宮の頭が横へぶれる。刃の角度が逸れる。
アリスの胸元をかすめるようにナイフが空を切った。
四宮が、ゆっくりとこちらを向く。
そのこめかみから、細く血が流れていた。
俺は息を切らしながら、柱の陰から出た。走ってきたせいで胸が焼ける。スタンガンの痺れも完全には抜けていない。足だってまだ少し重い。
それでも、今ここで止まるわけにはいかなかった。
「……朝日から、離れろ」
声が掠れていた。
でも、言葉だけははっきり出た。
四宮はこめかみに手をやり、指先についた血を見る。それから、ゆっくりと笑った。
「へえ」
その笑い方は、佐野が言っていた通りだった。
整った顔のまま、目の奥だけが薄暗く光る。
「君か」
四宮の視線が、俺を上から下までなぞる。
値踏みするように。
観察するように。
「恋人かい?」
俺は答えなかった。
答える必要なんかない。
アリスが、縛られたまま顔を上げた。
「……隆太郎!」
その声には、安堵より先に悲鳴みたいな焦りが混じっていた。
「逃げて!」
その叫びが、工場の天井へ鋭く響く。
「逃げられるかよ」
俺は四宮を睨んだまま、吐き出すように言った。
「二度もお前を死なせねぇ!」
アリスの目が大きく見開かれる。
四宮は、そのやり取りを聞いて、口元の笑みを少しだけ深めた。
「いいね」
楽しそうに言う。
「そういうの、すごくいい」
ぞっとするくらい嬉しそうだった。
「じゃあ君の目の前で殺してあげるよ」
四宮が、アリスへ向けてそう宣告する。
その声音は軽い。まるでゲームのルールでも説明するみたいに軽かった。
次の瞬間、四宮の身体がぶれた。
速い。
佐野が言っていた通りだ。見た目の印象と、動きの鋭さが噛み合っていない。人を油断させるために生まれたみたいな速さだった。
俺は反射で横へ飛ぶ。ナイフの刃が、さっきまで首のあった位置を裂いた。風を切る音が、耳のすぐ横で鳴る。
そのまま距離を取ろうとしたが、四宮は間を詰めるのが早い。二歩目でもう目の前にいる。
「っ……!」
蹴りを入れるように膝を上げる。素人の動きだ。でも、何もしないよりはましだった。四宮の太腿に当たり、わずかにバランスが崩れる。その隙に俺は腕を振って、四宮の手首を払った。
ナイフの切っ先が俺の肩口をかすめる。
布が裂ける音。
冷たい空気が肌へ刺さる。
四宮が笑った。
「いい反応」
「黙れ」
短く吐き捨てる。
だが、息はもう荒い。スタンガンの後遺症と全力疾走のせいで、身体が最初から万全じゃない。分かっている。分かっているからこそ、一発もまともに食らえない。
四宮はナイフを持つ手を少しだけ下げた。
構え直したのだと分かる。
低い。
懐に入る角度。
来る。
そう思った瞬間、俺は工場の床に転がっていた細い鉄棒を蹴り上げるように踏んだ。鉄棒が少し跳ね、四宮の足元へ当たる。大したダメージじゃない。だが、一瞬だけ視線が落ちた。
その隙に、俺は前へ踏み込んだ。
肩からぶつかる。
体当たりみたいな無様な形だったが、四宮の身体が一歩だけ下がる。俺はそのままアリスとの間へ割り込むように位置を取った。
「……アリス、大丈夫か」
視線は四宮から外さずに聞く。
「……う、うん……っ」
大丈夫なわけがない。それでもアリスはそう言うしかないんだろう。声が震えている。泣きそうなのを必死に堪えているのが分かる。
「もう少し待ってろ」
「隆太郎……」
俺の言葉に、アリスの息が詰まるような音が混じった。
四宮は、数歩先で立ち止まり、こちらを見ていた。
血がこめかみを伝っているのに、気にする様子もない。むしろ、少し面白そうなくらいだった。
「君、思ったよりいいね」
「嬉しくない」
「自分が死ぬかもしれない時に、他人を庇って前へ出る人って、綺麗だ」
その言い方に、胃の奥がひっくり返りそうになる。
こいつにとっては、人間の感情も命も、全部“鑑賞物”なんだ。
「お前の価値観で語るな」
吐き捨てると、四宮は少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、何で動くの?」
その問いは、妙に静かだった。
挑発というより、本当に知りたがっている顔。
「愛?」
その一言に、背筋が冷える。
こいつは理解していない。だからこそ平然と、その単語を口にできる。
「……当たり前だろ」
俺は低く言った。
「好きな奴を守るのに、理由なんか要るか」
四宮の笑みが、また少し深くなる。
「やっぱり、いいね」
その瞬間、四宮がまた動いた。
今度は、さっきより読みづらかった。上半身の動きが小さい。足だけで距離を詰めてくる。ナイフの軌道が見えにくい。
俺は腕で防ごうとして、寸前でやめた。刃物相手にそれはまずい。無理やり身体を捻って避ける。だが、避けきれない。脇腹の横を浅く切られた。
「っ、ぁ……!」
熱い線が走る。
痛みは遅れてくる。
四宮は一歩引いた。
試すみたいに。
どこまで動けるか確かめるみたいに。
俺は歯を食いしばって、足を踏み直す。
まだ動ける。
浅い。
まだ立てる。
「隆太郎!」
アリスの声が響く。
振り向くな。
そう頭では分かっている。
でも、耳だけはどうしたってその声に引っ張られる。
その一瞬の揺れを、四宮は見逃さなかった。
刃が閃く。
今度は、完全に遅れた。
横っ腹に、深く、鈍い衝撃が入る。
一瞬、何が起きたか分からなかった。
次の瞬間、呼吸が止まる。
遅れて、焼けるような痛みが全身へ広がった。
「……っ、が……!」
足から力が抜ける。
俺はそのまま膝をつき、コンクリートの上へ倒れ込んだ。肺がうまく空気を吸えない。手を当てた脇腹が、すぐに熱くなる。液体の感触。血だと理解するまでに一拍かかった。
「いやぁぁっ!」
アリスの叫びが、遠くで聞こえるような近くで聞こえるような、不思議な響き方をした。
視界が揺れる。
その向こうで、四宮がこちらを見下ろしていた。
背後の暗がりが、妙に蠢いて見える。
疲れか。
出血のせいか。
それとも、本当にそこにいるのか。
四宮の背後に、無数の影がまとわりついているように見えた。
人の形をしているようで、していない。
輪郭のぼやけた、黒い手。
顔のない気配。
恨みとも未練ともつかない、重たいものの塊。
今まで四宮が殺してきた人間たちの、残り滓みたいだった。
「……なん、だよ……」
掠れた声で呟く。
四宮はそれに気づいていないのか、あるいは気づいても気にしていないのか、口元だけで笑っていた。
「もう終わりだね」
四宮がナイフを持ち直す。
足が動かない。
呼吸が浅い。
視界の端で、アリスが泣きながら必死に縄をほどこうとしているのが見えた。無理だ。今の状態じゃ、自分では解けない。
「やめて!」
アリスが叫ぶ。
「お願い、やめて……!」
その声を聞きながら、四宮はゆっくりと俺へ近づいてくる。
とどめを刺すつもりだ。
終わる。
そう思った、その瞬間。
どこかから鋭い声が飛んだ。
「そこまでだ!」
四宮の肩が、わずかに動く。
工場の入口側から、人影が駆け込んでくる。
長い髪。
黒っぽいコート。
息を切らしながらも、まっすぐ四宮を睨みつける目。
佐野雪芽だった。
四宮が振り向く。
佐野はそのまま、荒い呼吸の合間に、不敵に笑いながら言った。
「リベンジマッチだ」
その言葉が、冷えた工場の空気を一気に変えた。
倒れたままの俺の耳に、その声だけがやけに鮮明に届く。
まだ終わっていない。
そう思った瞬間、痛みの奥に、かすかな熱が戻ってきた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




