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 佐野雪芽の声が、死にかけていた空気に鋭く突き刺さった。


 工場の入口近くに立つその姿は、決して万全には見えなかった。息は上がっている。肩で呼吸をしているし、コートの下の動きにも、まだ傷を庇うぎこちなさがある。退院したばかりの身体で、こんな場所まで走ってきたのが一目で分かった。


 それでも、目だけは死んでいなかった。余裕の笑みのようなものを浮かべている。


 真っ直ぐに四宮ハジメを射抜く目。

 倉庫街で殺しかけられた時より、むしろ今の方が温度が低い。


「……生きてたんだ」


 四宮が、口元だけで笑う。


「しぶといね」


「お前ほどじゃない」


 佐野は短く吐き捨てた。


 そのやり取りを聞きながら、俺は痛みに歯を食いしばっていた。脇腹が焼けるみたいに熱い。呼吸をするたび、刺された場所からじわじわと何かが漏れていく感覚がある。血だ。そんなことは分かっている。でも、今は倒れたままじゃいられない。


 佐野だけに任せるわけにはいかない。


 アリスもいる。

 目の前で泣いている。

 まだ縛られていて、動けない。


 俺はコンクリートに手をついた。掌が血と埃で滑る。腕に力を込めるだけで視界が揺れた。吐き気が込み上げる。けれど、それでも立たなきゃいけない。


「……っ、隆太郎!」


 アリスの声が震える。

 心配と制止と、祈りみたいなものが全部混ざった声だった。


「来るな、って言いたいんだろうけど」


 佐野の声に、俺は息を切らしながら立ち上がる。


「……今さら、無理だ」


 足元がふらつく。

 けれど、膝はまだ折れていない。


 四宮の目が、少しだけ楽しそうに細くなった。


「いいね」


 またそれだ。

 こいつは、人の覚悟も痛みも恐怖も、全部まとめて“いいね”の一言で眺める。


 吐き気がした。


 佐野が、俺を横目で見た。


「立てる?」


「立つしかない」


「そう」


 短いやり取り。

 無駄がない。

 たぶん、今の俺たちにはそれで十分だった。


 佐野は少しだけ間合いを変えながら言う。


「宮本くん。無理に前へ出すぎないで」


「お互い様だろ」


「私は一回殺されかけてるから、少しは慣れてる」


「慣れるなよ」


 思わず返すと、佐野の口元がほんの僅かに動いた。

 笑ったわけじゃない。けれど、それで少しだけ呼吸が整う。


 四宮は、そんな俺たちを見ながら肩を竦めた。


「仲間ごっこ?」


「違う」


 佐野が即答する。


「お前を止めるだけ」


 四宮の笑みが、少しだけ深くなる。

 次の瞬間、空気が裂けた。


 四宮が地を滑るみたいに動く。

 速い。さっきまでと同じだ。いや、むしろ二人を相手にするぶん、迷いが減っているようにすら見える。最短で急所を狙い、最短で下がる。戦いというより、処理に近い動きだった。


 佐野が正面から受ける。


 細い体が一歩だけ引き、次の瞬間には四宮の手首へ角度をつけて触れていた。護身術の動きだ。倉庫街の時と同じ。だが、前と違うのは、今回は四宮もその手を分かっていることだった。手首を取られる前に捻り、刃の軌道をずらしながら佐野の肩へ体当たり気味にぶつかる。


「っ……!」


 佐野の身体が少しだけよろめく。


 そこへ俺が横から踏み込んだ。

 考える余裕なんてない。殴るためじゃない。ただ、四宮の軌道をずらすために。肩からぶつかる。横っ腹が裂けるみたいに痛む。でも、その一瞬で四宮の重心がわずかに崩れた。


 佐野がその隙を逃さない。

 膝を低く入れ、四宮の利き手側へ身体をねじ込む。ナイフの角度が変わる。刃が空を切る。


「邪魔」


 四宮が低く吐く。

 その顔には苛立ちすら薄い。ただ、本当に邪魔だと思っているだけの顔。


「そういう役割なんでね」


 佐野が返した直後、四宮の肘が横へ走る。佐野の脇腹に入りかけたところを、俺が横から腕で押した。鈍い衝撃が自分の腕にくる。骨に響く痛み。


 四宮のナイフが、今度は俺の喉元へ向く。


 見えた。

 けれど身体が追いつかない。


 その瞬間、佐野が四宮の手首へ小型ライトを投げつけた。光る部分ではなく、硬い本体そのものを。狙いは正確で、四宮の手の甲に当たる。ほんの一瞬、刃先が揺れた。


 その一瞬で、俺は身を引く。


 刃が首を掠める。

 冷たい線が走る。

 浅い。でも、遅れてじわりと血がにじむ感覚があった。


 四宮はそれすら面白そうに見た。


「二人とも、思ったよりいい」


「嬉しくないって言ってるでしょ」


 佐野が吐き捨てる。


 だが、次第に分かってくる。

 まともにやって勝てる相手じゃない。


 四宮は速いだけじゃない。

 人を傷つけることへの躊躇が、決定的に少ない。こちらが一瞬でも迷えば、その隙をそのまま致命傷に変えてくる。しかも、動きに無駄がない。どこを切れば人が鈍るか、どこを刺せば立てなくなるかを、頭じゃなく身体で知っている動きだった。


 佐野も、それを分かっている顔だった。

 だから無理に取り押さえにはいかない。近づきすぎれば切られる。だから、刃の線を切りながら、わずかな崩れだけを待っている。


 俺も同じだった。

 焦って飛び込めば、今度こそ終わる。


 なのに、アリスの啜り泣く声が、どうしたって耳に入る。


 そのせいで心が前へ出た瞬間、四宮はまた笑った。


「やっぱり、君は分かりやすいね」


 四宮が俺の方へ一直線に来る。

 今度は陽動がない。真正面。

 だが、真正面だからこそ、嫌な速さだった。


 俺は咄嗟に足元の鉄くずを蹴り上げた。大した意味はない。視線を切るための一手だ。四宮はそれを軽く避ける。その動きに合わせて、俺は横へ流れる。横っ腹が痛んで視界が揺れる。遅い。


 刃が、また近づく。


 そこで、奇妙なものが見えた。


 四宮の背後。

 薄暗い空気の向こうに、黒く滲んだ人影みたいなものが重なっている。


 一人じゃない。

 二人でもない。

 何人も。

 顔は見えない。

 ただ、こちらを見ている気配だけがある。


 怒りとも、悲しみとも、恨みともつかない、重く湿った感情の塊みたいなものが、四宮の背中に縋りついているように見えた。


「……なんだよ、それ……」


 幻覚かもしれない。

 出血のせいかもしれない。

 痛みで頭がおかしくなっているだけかもしれない。


 それでも、俺にはそれが“今まで四宮に殺された人たち”に見えた。


 未練。

 断ち切れなかったもの。

 終わらなかった叫び。


 それら全部が、四宮の背中へ沈殿しているみたいだった。


 そのおぞましさに一瞬だけ気を取られる。


 その一瞬で十分だった。


 四宮の刃が、もう一度俺の横っ腹に潜り込む。


「――っ!!」


 今度は、さっきより深い。


 声にならない。

 息が全部抜ける。

 膝から力が消え、そのままコンクリートへ崩れ落ちた。


「隆太郎!!」


 アリスの悲鳴が、工場の中に鋭く響いた。


 視界が揺れる。

 痛みが、遅れて波みたいに押し寄せる。

 吐き気。

 寒気。

 手足の感覚が遠い。


 四宮が、上から見下ろしていた。

 その背後には、まだ黒い人影たちが見える。幻覚なら、あまりにもはっきりしていた。


 俺は歯を食いしばりながら、心の中で叫んだ。


 ――分かった。

 ――お前らの未練、ここで終わらせる。


 口には出ない。

 でも、確かにそう思った。


 四宮がナイフを持ち直す。

 とどめを刺すつもりだ。


「いいよ、その顔」


 四宮が楽しそうに言う。


「死ぬ直前の人間って、ほんとうに綺麗だ」


「……ふざ、けるな」


 掠れた声しか出ない。


 そこへ、佐野が横から飛び込んだ。


 今度は本気で身体ごとぶつかる。細い身体のどこにそんな勢いがあるのかと思うくらい、鋭いタックルだった。四宮の腕が流れ、とどめの軌道が逸れる。


「二回も同じ手でやられるか」


 佐野が低く吐く。


 四宮が舌打ちする。

 初めて、少しだけ顔に苛立ちが乗った。


「しつこいな」


「お前にだけは言われたくない」


 佐野は息を荒くしながらも、視線を切らない。

 だが、傷は隠せない。動きに無理がある。長くは持たない。それは俺にも分かった。


 俺は歯を食いしばり、もう一度立ち上がろうとした。


 足元に、少し太めの鉄パイプが転がっているのが見えた。

 工場の廃材の一部だろう。

 錆びてはいるが、まだ重みはある。


 俺はそれを掴んだ。

 持ち上げるだけで腕が震える。横っ腹から血が流れているのが分かる。視界も滲む。けれど、これを逃したら終わる。


 四宮は佐野の方へ意識を割いていた。

 佐野がフェイントを混ぜて距離を測る。その一瞬、四宮の足が止まる。


 隙だった。


 俺は吠えるように息を吐き、全身の残り全部をその一撃に込めた。


 鉄パイプを、横から思いきり振り抜く。


 鈍い音が響いた。


 四宮の横っ腹に、鉄パイプがめり込むように入る。

 まともに入った。

 骨に響く感触が、こちらの腕にまで返ってくる。


 四宮の身体がくの字に折れた。


「……っ、はは」


 なのに、笑った。


 痛みに顔を歪めながらも、四宮は横っ腹を押さえて笑っていた。

 血の混じった咳をしながら、それでも、笑う。


「最高だ」


 ぞっとする。


「やっぱり、君たち、最高だよ」


 こいつは、本当に壊れている。


 四宮はふらつきながらも、ナイフを持つ手を離さなかった。

 目はまだ死んでいない。いや、むしろ最後の火みたいに狂っている。


 そして、次の瞬間。


 四宮は、完全にこちらではなく、倒れかけた俺だけを狙って踏み込んできた。


 最後の力を全部使うみたいな突進だった。

 狙いは明確。

 俺の喉か、胸か、どちらにしても終わる角度。


 佐野が「宮本くん!」と叫ぶ。

 アリスが泣き声混じりに俺の名を呼ぶ。


 俺は動けない。

 足がもつれる。

 痛みで身体が遅れる。

 間に合わない。


 四宮のナイフが、目の前で光った、その瞬間。


 乾いた発砲音が、工場の空気を引き裂いた。


 世界が一拍、止まる。


 四宮の身体が、わずかに揺れた。

 ナイフを振り下ろしかけた腕が止まる。

 胸の辺りに、小さな穴が開いていた。


 遅れて、血が滲む。


 四宮は、自分の胸を見下ろした。

 信じられない、という顔ではなかった。

 ただ、少しだけ不思議そうだった。


 入口の方から、神木新田が拳銃を構えたまま立っていた。

 後方には、数名の警察官。

 神木の目は一切揺れていない。


「四宮ハジメ」


 低い声が、工場に響く。


「終わりだ」


 四宮は、口元を少しだけ動かした。


 笑ったようにも見えた。

 何か言いかけたようにも見えた。


 だが、そのまま膝から崩れ落ちる。


 ナイフが床を打つ音が、やけに軽かった。


 四宮ハジメは、その場に倒れた。


 動かない。


 アリスが、数秒遅れて呼吸を取り戻したみたいに息を吸った。

 そして次の瞬間、涙声で俺を呼ぶ。


「隆太郎!」


 その声と同時に、俺の視界が急激に暗くなり始めた。


 終わった。

 そう思ったのに、身体の方はもう限界に近かった。


 鉄パイプが手から滑り落ちる。

 膝が折れる。


 アリスの泣き声と、佐野の怒鳴るような指示と、警察官たちの足音が一斉に押し寄せてきて、世界の輪郭がにじんでいく。


 ただ一つだけ、最後にはっきり見えた。


 四宮の背後にまとわりついていた黒い人影たちが、もうそこにはいなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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