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生と死の狭間

 乾いた銃声の余韻は、思っていたより長く工場の中に残った。


 四宮ハジメの身体が倒れたあとも、すぐには現実が追いついてこない。

 ナイフが床を打った軽い音。

 警察官たちの靴音。

 神木新田の短い指示。

 佐野雪芽の荒い呼吸。

 それら全部が耳には入ってくるのに、俺の視界だけがどんどん遠ざかっていく。


 鉄パイプが手から滑り落ちる。

 指先に力が入らない。

 横っ腹の傷口から、熱いものがまだ流れ続けているのが分かった。


「隆太郎!」


 アリスの声がした。


 泣いている声だった。

 いつもの明るさなんて一つもなくて、ただ必死に俺の名前だけを呼ぶ声。


 次の瞬間、縄がほどける音がして、誰かが駆け寄ってくる気配がした。警察官がアリスの拘束を解いたんだろう。だが、それを確かめるだけの余裕がない。


 膝から崩れた俺の前に、白い手が伸びてくる。


「隆太郎……っ、隆太郎!」


 アリスだった。


 顔は涙でぐしゃぐしゃで、髪も乱れていて、頬には埃がついている。それでも、俺を見る目だけは真っ直ぐだった。泣き崩れたいはずなのに、泣きながらでも俺へ手を伸ばしてくる目だった。


「だ、大丈夫……?」


 その問いがどれだけ無意味か、本人がいちばん分かっている声だった。


 俺は何か言おうとして、うまく息が入らずに咳き込んだ。口の中が鉄みたいな味で満ちる。横っ腹に触れたアリスの手が、すぐに血で濡れた。


「いや……いや、こんなの……」


 アリスの声が震える。


「佐野さん! どうしたら……っ、どうしたらいいの!?」


「押さえて!」


 佐野の声が飛ぶ。

 鋭いけれど、半歩だけ掠れている。あの人も満身創痍だ。それでも、今この場で一番冷静なのも、たぶんあの人だった。


「深く押さえすぎなくていい! でも離さないで!」


 アリスは必死に頷いて、俺の傷口の周りへ両手を当てる。手が震えている。震えているのに、離れない。泣いているのに、ちゃんと押さえようとしている。


「隆太郎、見て……っ、ねえ、見てよ」


 アリスが、俺の顔を覗き込むように言う。


 視界が揺れて、アリスの顔も光の滲みの向こうにあるみたいだった。

 それでも、どうにか焦点を合わせる。


「……泣くな」


 掠れた声しか出なかった。


「うるさい……っ、こんなの、泣くに決まってるじゃん……!」


 泣きながら怒るみたいに言う。

 それがアリスらしくて、少しだけ笑いたかった。でも、笑うだけの力がなかった。


 工場の入口の方で、神木が低い声で何か指示を飛ばしている。


「対象、心停止確認! 救急搬送を最優先!」

「現場保全急げ! 写真、刃物、全部押さえろ!」


 四宮ハジメは動かない。

 もう完全に、ただの肉の塊みたいに床へ転がっていた。


 その現実を理解しても、安心がすぐに来るわけじゃない。

 むしろ遅すぎたんじゃないか、という思いの方が先に来る。


「救急、あと何分ですか!」


 佐野が神木へ聞く。


「もう入る!」


 神木の返事は短い。


 そのやり取りを、俺はひどく遠いところから聞いていた。

 音だけが届いて、意味が少し遅れてくる。


 アリスの手が温かい。

 なのに、俺の身体はどんどん冷えていく気がした。


「隆太郎、寝ないで」


 アリスが言う。


「お願いだから、寝ないで……」


「……寝て、ない」


「うそ。今、目が半分閉じてた」


「気のせいだ」


「気のせいじゃないよ……!」


 泣きながら怒る。

 その声を聞くたび、意識が薄れていくのを必死に繋ぎ止めようと思う。


 だが、限界は近かった。


 工場の高い天井の向こう、割れた窓から差し込む光が、急に変わった気がした。


 いや、光だけじゃない。

 空気そのものが静まった。


 さっきまであれほど騒がしかった音が、急に遠のく。

 警察官の足音も、神木の指示も、佐野の呼吸も、全部が一瞬だけ薄い膜の向こうへ押しやられたように感じた。


 冷えた工場の中央に、ひどく場違いなほど澄んだ気配が落ちてくる。


 それは風のようでもあり、祈りのようでもあった。


 割れた窓から差し込む薄青い光が、まるでその一点へ集まるみたいに揺れる。

 埃の舞う空気の中で、銀色の粒がふわりと浮かび上がる。

 光そのものが呼吸しているみたいに、静かに、でも確かな存在感を持って広がっていく。


 その中心に、小さな影が立っていた。


 銀髪。

 夜よりも淡く、月よりも冷たい色。

 なのに、見ているだけで目を逸らせなくなる、不思議な温度がある。


 エンマちゃんだった。


 でも、いつものコンビニ前の肉まん神様とは違った。


 小さな姿のはずなのに、そこに立った瞬間だけ、工場の空間そのものが彼女を中心に組み替わったみたいに見えた。汚れた鉄骨も、割れた窓も、濁った床の色も、その周りだけ少しだけ遠ざかる。銀の髪が揺れるたびに、細い光の糸が空気に溶けて、どこか神域めいた静けさを落としていく。


 幼い見た目なのに、目だけが途方もなく古い。

 人の一生より長いものを、何度も見送ってきた者の目だった。


 アリスが、息を呑んだ。


「……エンマ、ちゃん」


 その名を呼ぶ声は、泣き声の中に縋るような祈りを混ぜていた。


「お願い」


 アリスの声が崩れる。


「神様なんでしょ……? 私を助けた時みたいに、隆太郎を助けて……っ」


 泣きながら懇願する。

 もう理屈じゃない。救える存在が目の前にいるなら、縋らずにいられるはずがない。


 エンマちゃんは、少しの間だけ俺を見下ろしていた。


 その視線は冷たくなかった。

 けれど、安易な優しさとも違った。

 もっとずっと静かで、大きくて、人間の感情の上にある何かだった。


「それはできない」


 エンマちゃんは言った。


 その一言で、アリスの顔が絶望に歪む。


「なんで……っ!」


「できないというより、必要がない」


 エンマちゃんの声は、澄んだ鈴を遠くで鳴らしたみたいに静かだった。

 大きくないのに、工場の隅々まで届く。


「この少年に、今ここで私の力を使う意味がないように見えるからな」


 アリスが泣きながら首を振る。


「そんなの、分かんないじゃん! 血、こんなに……!」


「分かるよ」


 エンマちゃんは、当たり前のことを言うみたいに答えた。


 そして、俺の胸のあたりへ、ほんのわずか視線を落とす。


「魂がまだ燃えている」


 その言葉と同時に、エンマちゃんの周りの光がふっと深くなった気がした。

 ただの視覚じゃない。

 何か、もっと別のものを見ている目だった。


「燃え尽きないほどにね」


 神木も、佐野も、警察官たちも、まるでその瞬間だけ時間の外に置かれたみたいに見えた。

 聞こえているはずなのに、誰もこの会話へ割って入れない。

 神様が神様として立っている時の、場の支配みたいなものがそこにはあった。


 アリスは、涙で濡れた顔のままエンマちゃんを見上げる。


「……ほんとに?」


「嘘をつく理由がない」


 エンマちゃんはわずかに肩をすくめた。

 その仕草はいつもの軽さに近いのに、今はそれすらどこか神秘の一部に見えた。


「この少年は、まだこちらへ来ていない。だから、今は人の手で間に合う」


 人の手。

 その言葉が、アリスの中でかすかな希望になったのが分かった。


 アリスは唇を噛みしめ、何度も何度も頷いた。


 エンマちゃんは最後に、俺へほんの一瞬だけ目を向けた。


 その視線が触れた気がした瞬間、冷えかけていた身体の奥に、微かな熱が戻る。

 ほんの一瞬。

 でも確かに、消えかけた何かが繋ぎ止められるみたいな感覚だった。


「せいぜい、生きろ」


 その言葉は、励ましというより宣告だった。


 次の瞬間、銀色の光がふっとほどける。

 工場の薄闇に、細い粒子となって溶けていく。

 残ったのは、冷たい空気と、さっきまで確かにそこにあった神秘の余韻だけだった。


 そして時間が、急に戻ってきた。


「搬送準備! 急げ!」

「意識レベル確認!」

「白金さん、少し離れて!」


 神木の声。

 救急隊員の足音。

 ストレッチャーの金属音。


 音が一気に押し寄せる。


 アリスの手が、俺の手を掴んだ。

 さっきより強い。

 今度は、希望に縋るための強さだった。


「隆太郎……っ、大丈夫だから」


 泣きながら言う。

 自分にも言い聞かせている声。


「大丈夫だから……っ、聞こえてるよね……?」


 聞こえている。

 そう返したかった。

 でも、もう声にならない。


 視界の端で、佐野が壁にもたれながらこちらを見ていた。

 ひどく疲れた顔で、それでも安堵をわずかに浮かべた顔だった。


 ストレッチャーに乗せられる。

 天井が揺れる。

 工場の高い梁が、遠ざかっていく。


 アリスの泣き顔が、最後にもう一度だけ見えた。


 その顔を見ながら、俺の意識は静かに沈んでいった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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