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先の話へ

 最初に戻ってきたのは、匂いだった。


 消毒液の、少しだけ鼻の奥がつんとするような匂い。

 次に、一定の間隔で鳴る電子音。

 それから、遠くで誰かがカーテンを引く音。


 目を開ける前から、どこにいるのかは分かった。


 病院だ。


 意識が浮かび上がろうとするたび、身体のあちこちが鈍く痛んだ。とくに横っ腹。そこを中心に、身体の右半分が別の誰かのものみたいに重い。息を吸うと傷の奥がじくじくする。けれど、あの廃工場で感じていた、生々しくて鋭い痛みとは少し違った。治療された後の、鈍く残る痛みだった。


 生きている。


 その実感が、じわじわと身体の内側へ広がっていく。


 俺はゆっくり目を開けた。


 白い天井。

 薄いカーテン越しの光。

 点滴の管。

 自分の腕。

 病室の静かな空気。


「……っ」


 声を出そうとして、喉がひどく乾いていることに気づいた。音は掠れて、まともな言葉にならない。


 その小さな気配に反応したのか、ベッド脇で何かが動いた。


「……隆太郎?」


 聞き慣れた声だった。


 顔を少しだけ横へ向ける。

 そこにいたのは、アリスだった。


 椅子に座ったまま、ベッドに突っ伏すみたいにして寝ていたらしい。髪が少し乱れていて、目の下にはうっすら疲れの色が残っている。たぶん、ずっとここにいたんだろう。


 俺と目が合った瞬間、アリスの表情が止まった。


 止まって、それから、次の瞬間には一気に崩れた。


「……うそ」


 小さな声だった。

 でも、それは驚きじゃなくて、信じたかったものがやっと目の前で本当になった時の声だった。


「起きた……?」


 俺はどうにか頷こうとして、少しだけ首を動かした。


 その瞬間、アリスの目に一気に涙が溜まる。


「ほんとに……?」


 もう一度聞く。

 そんなの、俺が答えなくても起きているのは見れば分かるはずなのに、それでも確認せずにはいられない声だった。


 俺は唇を少し動かして、掠れた音で言った。


「……うん」


 たったそれだけの返事。


 それだけで、アリスは泣いた。


 声を上げて泣くわけじゃない。最初は息を詰めて、堪えようとして、それでも無理で、ぽろぽろと零れるみたいに泣く。両手で口元を押さえながら、それでも肩が震えてしまう泣き方だった。


「よかった……っ」


 泣きながら、何度も繰り返す。


「よかった、よかったよぉ……っ」


 その声を聞いて、ようやく実感する。

 俺は本当に、戻ってきたんだ。


 アリスがこんなふうに泣くくらいのところまで、危なかったんだ。


「……泣きすぎ」


 喉が痛くて、うまく声にならない。それでもそう言うと、アリスは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま俺を睨んだ。


「誰のせいだと思ってるの……!」


 怒っているのに、声は全部泣き声だった。


「もう、ほんとに……っ、ほんとに、死んじゃうかと思った……!」


 そこでとうとう我慢できなくなったらしく、アリスはベッドの縁に額を押しつけるみたいにしてまた泣いた。俺は手を動かそうとして、点滴の管と鈍い痛みに邪魔されてうまくいかない。ほんの少しだけ指を動かすのが精一杯だった。


 その時、病室のドアが開いた。


「朝日ちゃん、どうし――」


 母さんだった。


 言いかけて、状況を見て止まる。アリスが泣いていて、俺が起きている。そこまで見て、母さんの表情が一瞬で変わった。


「……隆太郎」


 その声は、静かだった。静かなのに、ひどく感情が詰まっていた。


 母さんは足早にベッドのそばまで来て、俺の顔を見た。

 俺は少しだけ目を向けて、どうにか笑おうとしたが、たぶん上手くいかなかったと思う。


「……起きたのね」


「うん……」


 俺が掠れた声で返すと、母さんはほんの一瞬だけ目を閉じた。泣きはしない。でも、あれはたぶん泣く代わりの呼吸だった。


「よかった」


 短い一言。

 それだけなのに、胸の奥へずしりと来る。


 アリスが涙を拭きながら立ち上がる。


「百合子さん……っ、起きた……」


「見れば分かるわよ」


 母さんはそう言って、でもその声も少しだけ震えていた。


「ナースコール押して」


「あ、うん……!」


 アリスが慌ててボタンを押す。その動きまで必死で、見ているこっちが少しだけ苦しくなる。


 看護師が来て、医者も呼ばれて、そこからしばらくは慌ただしかった。名前の確認、意識の確認、痛みの具合、視界の異常、痺れの有無。質問に答えるたび、俺は自分がどれだけギリギリだったのかを少しずつ知る。


 横っ腹の傷は深かったらしい。

 出血も多かった。

 けれど、あと少しズレていたら、今ここにいなかったかもしれないという話は、医者は直接的には言わなかった。それでも表情で十分伝わった。


「今は無理に動かないでください」


 白衣の医者が落ち着いた声で言う。


「意識ははっきりしていますし、経過は悪くありません。ですが、まだ安静が必要です」


 安静。

 その言葉の重さが、今はありがたかった。


 医者たちが出ていったあと、病室にはまた静けさが戻る。

 ただし、今度の静けさはさっきまでと違っていた。怖い静けさじゃない。生きている人間同士が、やっと同じ場所に戻ってきた後の静けさだった。


 アリスは椅子に座り直したものの、さっきまでよりさらに俺の近くに寄っていた。もう離れたくないみたいに。いや、たぶん本当に離れたくないんだろう。


「どれくらい……寝てた」


 俺が聞くと、アリスがすぐ答えた。


「丸一日ちょっと」


「そんなに?」


「そんなに」


 アリスは少しだけ唇を尖らせた。


「私、ずっと起きるの待ってたんだから」


「ずっとは盛ってるだろ」


「盛ってない。ちょっと寝たけど」


 そこは寝たのかよ、と思うのに、その言い方が少しだけ可笑しくて、俺は微かに笑った。笑うと横っ腹が痛んで顔が歪む。


「ほら、無理するから」


 アリスがすぐに眉を寄せる。


「笑わなくていいから、今は」


「それ、ひどくないか」


「元気になったらいっぱい笑って」


 その言い方が、少しだけ泣きそうで、少しだけ優しかった。


 母さんが湯飲みを手に、静かに椅子へ腰を下ろす。


「先生が言ってたけど、しばらくは入院ね」


「……どれくらい?」


「最低でも一週間以上は様子を見るって」


 予想していたより長い。でも、あの状態から生きて戻ってきたことを考えれば、むしろ短いのかもしれない。


「学校……」


 思わず口にすると、アリスが呆れた顔をした。


「そこ?」


「いや、一応」


「今はいいの、そんなの」


 その言い方が強い。けれど、怒っているというより、本当にそう思っている声だった。


「生きてることだけ考えて」


 そう言われると、返す言葉がない。


 しばらくして、病室のドアが再び開いた。


 今度は神木新田だった。


 私服ではなく、今日はスーツに近い格好だった。相変わらず無駄のない立ち方をしているが、俺の目が開いているのを見ると、ほんの僅かに空気が緩む。


「起きましたか」


「……どうも」


 俺が言うと、神木は軽く頷いた。


「話せますか」


 その問いに、俺は少しだけ息を整えてから頷いた。


「少しなら」


 神木はベッドの足元側へ立ち、短く言った。


「四宮ハジメは、現場で死亡確認されました」


 病室の空気が、ほんの少しだけ止まる。


 分かっていたことだ。

 神木が撃った瞬間も見た。

 倒れた四宮も見た。

 それでも、こうして改めて言葉にされると、違う重みで落ちてくる。


「心臓への銃創で、即死です」


 神木の声は淡々としていた。

 必要以上の感情を乗せない。刑事としての報告の仕方だ。

 だが、その淡々さの方が今はありがたかった。変に重々しくされるより、事実だけが欲しかったからだ。


 アリスが小さく息を吐く。

 安堵なのか、喪失感なのか、自分でも整理できない呼吸だったと思う。


「……そっか」


 それだけ言う。


 四宮ハジメは死んだ。

 朝日を殺し、連続事件を重ね、アリスを誘拐し、俺を刺した男は、もういない。


 それで全部終わるわけじゃない。

 残った傷も、記憶も、消えたわけじゃない。

 でも、“もう襲ってこない”という事実は、やっぱり大きかった。


 神木はさらにいくつか、今後の処理について簡潔に話した。現場検証、四宮の部屋から押収した証拠、被害者たちとの照合、自首犯の再取り調べ。全部がこれから動く。終わったように見えて、まだ警察の中では整理することが山ほどあるらしい。


「あなたたちへの聴取は、体調が落ち着いてからになります」


 神木が言う。


「今は休んでください」


 それだけ言って、神木は軽く会釈して病室を出ていった。


 ドアが閉まったあと、病室にはまた静けさが戻る。


 アリスが、俺の顔をじっと見ていた。


「……何」


「まだ実感ない」


「俺が生きてるの?」


「それも。四宮が死んだのも」


 アリスはそう言って、少しだけ俯く。


「全部、変な夢みたい」


 その感覚は分かる。

 エンマちゃんが出てきて、四宮の背後に変な影まで見えて、最後は銃声で終わった。現実の方が物語みたいだ。


 けれど、横っ腹の痛みだけは、夢じゃないと教えてくる。


「……夢じゃないよ」


 俺が言うと、アリスは顔を上げた。


「うん」


 小さく頷く。


「だから、ちゃんと生きてて」


 その言葉に、俺は少しだけ笑った。

 今度は痛みで顔をしかめない程度の、小さい笑いだ。


「頑張るよ」


「頑張って」


 アリスが真顔で言う。

 その真顔があまりにも真剣で、俺はまた少しだけ笑ってしまった。


 たぶん、ここからしばらくは回復の日々になる。

 傷は治さなきゃいけない。

 身体も戻さなきゃいけない。

 でも、それだけじゃない。

 心の方も、たぶん少しずつ整えていく必要がある。


 アリスが泣きながら笑っていて、母さんが静かにお茶を飲んでいて、病院の外では秋が終わろうとしている。


 そんな光景の中で、ようやく俺は思った。


 ――まだ、ちゃんと先がある。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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