入院の日々
病院の朝は早い。
まだ外の光がやわらかい時間から、廊下では足音がして、カーテンの開く音がして、遠くのどこかでワゴンの車輪が小さく鳴る。そういう決まった生活音で目が覚めるようになったのは、入院して三日目に入った頃からだった。
最初の一日は、ほとんど寝ていた。
寝ているというより、意識が浮いたり沈んだりしていただけに近い。起きているつもりでも、会話の途中で眠っていて、また目を開けた時には時間が飛んでいる。痛み止めのせいもあったのかもしれない。横っ腹の傷は縫われていて、包帯と固定の違和感が常にそこにあった。呼吸をするだけで少し痛い。笑えばもっと痛い。咳なんて論外だった。
それでも、日ごとに少しずつ戻ってくるものがある。
指先の力。
頭の回転。
喉の乾き方。
空腹の感覚。
そういう細かいものが戻るたび、自分はまだ生きているんだと実感した。
朝、目を開けると、今日もアリスがいた。
昨日もいた。
一昨日もいた。
面会時間ぎりぎりまでいて、母さんに「さすがに一回帰りなさい」と言われてようやく立ち上がる。そういうのを何日か続けた結果、最近はもう病室の椅子に座っている姿が自然になっていた。
今日のアリスは、病院の売店で買ったらしい小さな紙袋を膝の上に置いて、本を読んでいた。ページをめくる指が時々止まるのは、たぶん俺が起きていないか気にしているからだ。
「……おはよ」
俺が掠れた声を出すと、アリスの肩が小さく跳ねた。
すぐに顔を上げる。
寝起きのぼんやりした目じゃない。ちゃんと安心したい人間の目だ。
「おはよう」
それだけ返してから、アリスは少しだけ眉を寄せた。
「今日の声、昨日よりまし」
「毎日チェックされてるな」
「してるよ。大事だから」
言い方が真面目すぎて、少しだけ笑いそうになる。けれど笑うと傷が痛むから、表情だけでやめておく。
アリスは本を閉じて、膝の上の紙袋を持ち上げた。
「これね、プリン」
「また甘いものか」
「病人は甘いものに癒やされるって、佐野さんが言ってた」
「それ、あの人が自分基準で言ってるだけだろ」
「私もそう思った」
そこまで言って、アリスが少しだけ笑う。
前みたいに声を立てて笑うんじゃない。まだどこかで、俺が痛むんじゃないかと気にしている笑い方だ。
最近のアリスは、病室での動きが妙に静かだった。
大きな音を立てない。
ベッドの近くを通る時も少し慎重。
椅子を引く時ですら、俺の顔色を一瞬見てから動く。
そういうところに、あの日の記憶がまだ残っているのが分かる。
「学校は?」
俺が聞くと、アリスは少しだけ肩をすくめた。
「行ってる。ちゃんと」
「ちゃんと、って何だよ」
「ちゃんとだよ。授業も受けてるし、宿題も出してるし、先生にも“宮本くん、しばらく休みます”って伝わってる」
「そっか」
「あと、ノートも取ってる」
そこで少しだけ得意そうな顔になる。
「隆太郎の分も」
「優秀だな」
「でしょ」
そう言ってから、アリスは少しだけ視線を落とした。
「……でも、隣の席見ちゃう」
その一言が、妙に胸に残った。
教室の俺の席。
今は空いている席。
アリスはたぶん、何気ない瞬間にそこを見てしまうんだろう。いて当たり前の場所にいないことを、毎日そこで確認している。
「早く戻らないとな」
俺が言うと、アリスはすぐに首を振った。
「無理して戻らなくていい」
その言い方が少し強かった。
きっと、あの日のことがまだ近いんだろう。
「ちゃんと治ってから」
「分かってる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう答えると、アリスはようやく少しだけ表情を緩めた。
※ ※ ※
昼前になると、母さんが来た。
紙袋を持って、いつもの落ち着いた足取りで入ってくる。その姿を見ると、どうしても少し安心する。母さんは大丈夫じゃない時ほど、必要以上に騒がない。だからこそ、本当に危ない時の顔は余計に忘れられない。
「おはよう、じゃないわね。もう昼だもの」
そう言って、ベッド脇の棚に果物と飲み物を置く。
「調子どう?」
「昨日よりは」
「昨日もそれ言ってた」
「実際、そうなんだから仕方ないだろ」
母さんは小さく笑った。
でも、その笑い方の奥に、まだ少しだけ安心しきれていない色が残っている。あの日、連絡を受けてからここへ来るまで、どんな気持ちだったのかなんて、今さら全部は聞けない。
母さんはアリスを見て、「朝日ちゃん、ちゃんと何か食べた?」と聞いた。
アリスは少しだけ気まずそうに目を逸らす。
「……食べたよ」
「その間が怪しいのよ」
「食べたもん」
「何を?」
「おにぎり……一個」
母さんが呆れた顔をする。俺もつい同じ顔になった。
「少なすぎる」
「だって、あんまり入らなくて」
「気持ちは分かるけど、それで倒れたら意味ないわよ」
母さんは少しだけ強めに言ってから、紙袋の中から小さなサンドイッチのパックを出した。
「これ、朝日ちゃんの分」
「えっ」
「食べなさい」
有無を言わせない声だった。アリスは困ったように俺を見てきたが、俺は肩を竦めるしかない。
「食べろ」
「……はい」
素直に従うのが少し可笑しくて、でもその光景があまりにもいつも通りで、少しだけ心が軽くなる。
母さんは、アリスがサンドイッチを食べ始めたのを見てから、ようやく俺の方へ向き直った。
「先生に、あと一週間くらいは入院になるかもって言われた」
「そんなに?」
「傷の深さ考えたら、むしろ短い方でしょ」
その通りだとは思う。
思うが、身体が動けない時間は長く感じる。
「焦らないこと」
母さんは言う。
「もう終わった、じゃないの。ここからちゃんと治すところまで含めて終わりなんだから」
その言葉は、母さんらしかった。
事件が終わったかどうかじゃなくて、怪我をした人間がちゃんと回復するところまで見る言い方。
俺は小さく頷く。
「……うん」
母さんはそれで十分だと思ったのか、それ以上は重ねなかった。
代わりに、さっきから半分残していたお茶を俺に勧めてくる。そういういつものやり取りが、妙にありがたかった。
※ ※ ※
午後、病室に来たのは佐野雪芽だった。
入ってきた瞬間から気だるそうで、なのに歩き方だけはまだ少し庇う感じが残っている。退院して動き回っているくせに、やっぱり完全には治っていないらしい。
「病人が増えた」
病室へ入るなり、佐野はそう言った。
「お前もだろ」
俺が返すと、佐野は小さな紙袋をベッド脇へ置いた。
「私の方が先輩だから」
「嫌な先輩だな」
「褒め言葉として受け取っとく」
その紙袋からは、甘い匂いがした。
見なくても分かる。絶対に自分の好物基準で差し入れを選んでいる。
アリスが少しだけ呆れた顔で覗き込む。
「……プリン?」
「病人は甘いものに癒やされる」
「ほんとに言った」
アリスが俺を見る。俺は小さく肩を竦めた。
佐野はいつものように遠慮なく椅子へ座ると、少しだけ真面目な顔に戻った。
「神木から聞いた?」
「四宮が即死だったって話なら」
「それ」
佐野は頷いた。
「あと、部屋から出た物証が酷い。趣味が悪いとかそういうレベルじゃない」
言い方は淡々としているが、その奥に嫌悪があるのが分かった。
倉庫街であの男と対峙した佐野だからこそ、余計にそう感じるんだろう。
「事件としては、ほぼ固まる」
佐野は続ける。
「自首犯を金で動かして、自分は裏から見てた線もほぼ確定。連続事件の被害者との接点も、写真の保管状況も、四宮の部屋から山ほど出た」
「……そっか」
俺が言うと、佐野は少しだけ目を細めた。
「君が命張って止めた甲斐はあったよ」
その一言は、軽くなかった。
アリスが、ベッド脇で静かにその言葉を聞いている。
たぶん、俺よりもずっと重く受け取っている。
「アイラは?」
アリスが小さく聞く。
佐野は視線をアリスへ向けた。
「無事。神木がかなり丁寧に対応したみたい。まだ少し怖がってるけど、必要な説明は受けた」
それを聞いて、アリスの肩から少しだけ力が抜けた。
「そっか……」
「あと、君に伝言」
「私に?」
「“また本の話したいです”だって」
アリスが目を丸くする。
それから、少しだけ泣きそうな笑顔になる。
「……よかった」
その反応を見て、俺も少しだけ救われた。
アリスとアイラの関係まで、四宮に壊されたわけじゃない。それは大きい。
佐野はしばらく黙ってから、少しだけ視線を俺へ戻した。
「宮本くん」
「ん?」
「助かった」
短い言葉だった。
飾りもない。
でも、その一言に全部入っていた。倉庫街での借りも、廃工場での共闘も、あの日の終わり方も。
「……佐野さんも」
俺が返すと、佐野は小さく鼻を鳴らした。
「私はしぶといから」
「知ってる」
「知ってるならいい」
それで会話は終わった。
でも、その短いやり取りだけで十分だった。
佐野は長居をする気はなかったらしく、少しして立ち上がる。まだ動くと傷が痛むのか、ほんのわずかに眉が寄る。その顔を見て、こっちもつい言った。
「退院した日に走るの、やめろよ」
「天音アイラのこと?」
「そう」
「結果的に当たりだったからいいでしょ」
「よくない」
俺が言うと、アリスまで頷いた。
「よくないです」
佐野は珍しく少しだけ面食らった顔をして、それから淡く笑った。
「二対一は卑怯だな」
「お前が言うな」
最後にそうやって軽口を交わせたことが、俺には妙にありがたかった。
※ ※ ※
その日からの数日は、ゆっくりと流れた。
朝になって、看護師が来る。
痛みの具合を聞かれる。
少しずつ歩く練習をする。
食事の量が増える。
夜になると傷が少し疼く。
アリスはほとんど毎日来た。
学校の話をしてくれる日もあれば、ただ隣で本を読んでいるだけの日もある。俺が疲れている時は、無理に会話を引っ張らない。けれど、帰る時は必ず「また明日来る」と言って帰る。その繰り返しが、病院の単調な時間の中で一つの基準になっていった。
母さんも、できるだけ顔を出した。
病院の売店で買ったゼリーだの、家で切った果物だのを持ってくる。何を持ってきても、最後には「ちゃんと食べなさい」「無理して起き上がらない」の二つに話が戻るのが、いかにも母さんらしかった。
神木は二度ほど来た。
必要最低限の報告だけして、長居はしない。四宮の部屋から出た写真や記録によって、過去の事件との照合が急速に進んでいること。自首犯の供述も崩れ始めていること。形式としてはまだ整理が必要だが、事件の全体像はもうほとんど見えていること。
そのどれも、四宮ハジメという人間が本当に“終わった”ことを少しずつ実感させた。
それでも、夜になると時々、廃工場の光景が戻ってくる。
ナイフの光。
アリスの叫び。
四宮の背後に見えた、あの黒い影たち。
あれが幻覚だったのか、本当に何かだったのか、まだ自分でも分からない。
ただ一つだけ分かるのは、俺があの瞬間、確かに“終わらせる”と願ったことだった。
そして、その願いは、たぶん届いたのだと思う。
退院の目安が見え始めたのは、一週間を少し過ぎた頃だった。
主治医がカルテを見ながら言う。
「経過は良好です。このままなら、もう少しで退院を考えましょう」
その言葉を聞いて、アリスが自分のことみたいに顔を明るくした。
「ほんとですか?」
「君が患者みたいに聞くね」
医者が少しだけ笑うと、アリスは少しだけ照れたように肩をすくめた。
医者が出ていったあと、病室には俺とアリスだけが残る。
窓の外は、もう夕方だった。空の色が、秋の終わりよりさらに淡く見える。
「退院したら」
アリスが言う。
「一緒に帰ろうね」
その一言が、胸の奥へまっすぐ落ちた。
一緒に帰る。
それだけのことが、今はひどく大きい。
「……ああ」
俺が答えると、アリスは満足そうに頷いた。
「今度はちゃんと、普通に」
普通に。
その言葉を、最近のアリスはとても大事に使う。
全部が元通りじゃなくてもいい。
でも、ちゃんと歩いて、ちゃんと帰って、ちゃんと笑う。
そういう“普通”を、また少しずつ積み上げていくつもりなんだろう。
俺はその横顔を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
まだ傷は痛む。
まだ全部は戻っていない。
でも、確かに先はある。
それだけで、十分だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




