お前の行先は1つ
退院が近いと言われると、不思議なもので時間の流れ方が少しだけ変わる。
それまでは、ただ「今日も痛みが昨日より少しましだった」とか、「昨日より長く起きていられた」とか、そういう細い回復の積み重ねだけを数えていた。けれど、退院という言葉が現実味を持ち始めると、その先にある景色まで少しずつ見えるようになる。
学校へ戻ること。
家へ帰ること。
またアリスと並んで歩くこと。
そういう当たり前だったものが、急に輪郭を取り戻し始める。
その日の午後、俺は看護師に付き添われて病棟の廊下をゆっくり歩いていた。
まだ傷は痛む。
横っ腹を意識しないで歩けるほどじゃない。姿勢を少し崩すだけで鈍く響くし、長く立っていると身体の奥がじわじわ重くなる。それでも、ベッドにいるだけの時とは違う。自分の足で立って、自分の意思で前へ進める。それだけで、気持ちはだいぶ違った。
「昨日より安定してますね」
付き添いの看護師が言う。
「そうですか」
「そうですよ。顔色もだいぶ良くなりましたし」
顔色なんて自分ではよく分からない。けれど、言われて悪い気はしない。
病室へ戻ると、アリスが窓際の椅子に座って本を読んでいた。最近はこの光景が当たり前になってきた。面会時間が始まる少し前には来ていて、俺が歩く練習をしていると「今日も行ってらっしゃい」みたいな顔で見送って、戻ると「おかえり」みたいな顔をする。
それが妙に自然で、なんだか少しだけ可笑しい。
「おかえり」
やっぱりアリスは、俺の顔を見るなりそう言った。
「……病院の廊下を歩いただけなんだけどな」
「でも、おかえりって感じするよ」
アリスは本を閉じながらそう言った。
その笑い方が、前より柔らかくなっている気がする。事件の直後は、俺が少しでも顔をしかめるとすぐ不安そうになっていた。今はまだ心配そうではあるけれど、そこに少しずつ普段の温度が戻ってきていた。
「今日ね」
アリスが鞄から小さな封筒を取り出した。
「アイラさんから」
俺は少しだけ目を上げた。
「手紙?」
「うん。正確にはメッセージカードみたいなやつ」
アリスはそれを大事そうに持ちながら言う。
「お見舞い、来たいって思ってたみたいなんだけど、まだ病院はちょっと緊張するって」
「……あいつらしいな」
「でしょ?」
アリスが少し笑う。
「だから代わりに、本屋さんで見つけた栞を送ってくれたの」
封筒の中から、小さな栞が出てくる。落ち着いた色の紙に、銀の細い月が描かれていた。派手じゃないけど、綺麗だ。アイラらしい選び方だと思う。
「“退屈だったら本読んでください”って」
「優しいな」
「うん」
アリスは頷いてから、少しだけ声を柔らかくした。
「あとね、“また三人で会いたいです”って」
その言葉に、胸の奥のどこかが少し軽くなる。
四宮ハジメの件で、アイラまで巻き込まれた。完全に無傷で済んだわけじゃない。知らない大人――しかも刑事や探偵に囲まれて、自分の違和感を説明しなければならなかった。あの子にとっては相当消耗することだっただろう。
それでも、“また会いたい”と思えている。
それはたぶん、かなり大きい。
「退院したらな」
俺が言うと、アリスはすぐに頷いた。
「うん。今度はもっと普通に」
普通に。
最近のアリスは、その言葉を前よりずっと大事に使う。
全部が元通りじゃなくてもいい。
でも、“普通に会う”“普通に話す”“普通に帰る”みたいな、小さな普通を自分たちの手で取り戻したいんだろう。
「そういえば」
アリスがふと思い出したみたいに言った。
「佐野さん、昨日も動いてた」
「まだ動くのかよ……」
「神木さんに“休め”って言われたらしいけど、“退院した以上は自由”って返したんだって」
「想像ができるな」
俺が呆れて言うと、アリスはくすっと笑った。
「でも、ちゃんと四宮の事件が整理されていくの見て、少しだけ気が抜けたって言ってた」
それを聞いて、俺は少しだけ安心した。
あの人は止まらないからこそ、どこかで“終わった”という実感を持たないと危ない気がしていた。
病室の窓の外は、もう午後の光が少し傾いていた。
秋の終わりの夕方は、色が淡い。綺麗なのに寂しい。でも、病室の中までその色が差し込むと、白い壁も少しだけ柔らかく見えた。
※ ※ ※
夕方近くになって、神木新田が病室へ来た。
相変わらず無駄のない立ち姿で、俺の顔を見ると軽く会釈する。
「起きていて助かります」
「寝てた方がよかったですか」
「いえ。今日は少し整理した話を」
神木はベッドの足元側へ立ち、いつもの淡々とした口調で話し始めた。
四宮の部屋から押収された写真、記録、被害者ごとの観察メモ。
それらによって、過去の連続事件と四宮ハジメとの接点は、ほぼ決定的な形になったこと。
自首犯は金で動かされていた線が濃厚になり、供述も崩れ始めていること。
表向きにはまだ捜査継続中だが、実質的には事件の中心人物が四宮であることに疑いはほぼないこと。
神木は必要なことだけを、必要な順で話す。
だから聞きやすいし、変に感情へ引っ張られすぎずに済む。
「あなたたちへの危険は、現時点ではかなり下がったと見ていいです」
神木がそう言った時、アリスの指先が小さく緩むのが見えた。
「ただし、しばらくは巡回や連絡体制は残します」
「それでいいです」
アリスがすぐに言った。
その返答の速さが少しだけ可笑しかったのか、神木の目がほんの僅かに和らぐ。
「分かりました」
それから、神木は俺の方へ視線を向けた。
「あなたの証言も、回復後に改めて正式に取ります。ただ、現時点で言えるのは一つです」
「何ですか」
「よく生き延びました」
その一言は短かった。
だが、それはお世辞でも慰めでもなかった。現場を見た人間の、本音の重さだった。
俺は何て返せばいいか分からず、少しだけ肩を竦めるしかなかった。
「エンマちゃんのご加護かも」
アリスがぽつりと言う。
神木は一瞬だけ沈黙した。
たぶん、この人はエンマちゃんの存在について全部を知らない。いや、神木だけじゃない。警察側に説明しようとしても、信じられる話ではない。
けれど、神木は変に突っ込まず、ただ静かに言った。
「そういうものがあったなら、感謝しておきましょう」
その返し方が、妙に神木らしかった。信じるでも否定するでもなく、今この場で必要なだけ受け取る感じ。
話が終わり、神木が帰ったあと、病室にはまた静けさが戻った。
アリスはしばらく何も言わずに、膝の上へ手を置いたまま窓の外を見ていた。
それから、ぽつりと呟く。
「終わったんだね」
「……たぶんな」
「たぶん、って」
「全部きれいに終わるわけじゃないだろ」
俺がそう言うと、アリスは少しだけ笑った。
「そういうとこ、現実的」
「悪いか」
「ううん。今はそれくらいがちょうどいい」
そしてアリスは、少しだけ視線を落として続けた。
「でもね」
「ん?」
「私、あの日のこと、たぶん一生忘れないと思う」
その声は静かだった。
重いけれど、震えてはいない。
「四宮の顔も、廃工場の匂いも、隆太郎が倒れた時の音も、たぶんずっと残る」
俺は何も言わずに聞いていた。
「でも、それだけじゃなくて」
アリスは俺を見る。
「助けに来てくれたことも、佐野さんが来たことも、神木さんが撃った音も、エンマちゃんの言葉も、全部残ると思う」
その“全部”の中には、痛いことも、救われたことも、全部一緒に入っているんだろう。
「だから、もう前と同じには戻れないかもしれない」
アリスは自分で言って、小さく息を吐いた。
「でも、前と同じじゃなくても、ちゃんと生きていきたい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に静かな熱が灯る。
アリスは、もう“元通り”に執着しすぎてはいないんだと思う。
戻らないものがあることも分かっていて、その上で、その先を生きると決めている。
強い。
そう思う。
そして、その強さに何度も助けられているのは、たぶん俺の方だ。
「……一緒に生きるよ」
俺が言うと、アリスの目が少しだけ丸くなる。
それから、ゆっくりと頬が緩んだ。
「うん」
その返事は、今まででいちばん柔らかかった。
※ ※ ※
四宮ハジメは、暗闇の中で目を覚ました。
最初、ここがどこなのか分からなかった。
冷たくもない。
温かくもない。
足元があるのか、ないのかさえ曖昧な闇。
音はない。
風もない。
時間だけが、存在しないみたいに止まっている。
「……ここは」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
四宮は辺りを見回す。
何もない。
光もない。
地平もない。
ただ、底の見えない暗闇だけが、どこまでも広がっている。
「……死んだ?」
口にしてみても、実感がない。
胸に銃弾を受けた瞬間は覚えている。
痛みは一瞬だった。
そのあと、何もかもが暗くなった。
なら、たしかに死んだのだろう。
そう頭では理解する。
だが、恐怖はまだ来ない。
むしろ、妙な静けさだけがあった。
その時だった。
闇の奥で、ひと筋の銀色が揺れた。
それは光というより、月を溶かして細く引いた糸のようだった。闇の中へまっすぐに垂れ、その糸を中心に、静かに世界の輪郭が生まれていく。
音のない鈴のような、澄み切った気配。
咲くはずのない場所に、白い彼岸花にも似た光が足元へふわりとひらく。
銀の粒子がゆっくり舞い、重く淀んだ暗闇へ秩序を刻み始める。
そこに、エンマちゃんが立っていた。
小さな姿。
銀髪。
いつものように子どもに見える輪郭。
なのに、その場に立った瞬間、彼女の周囲だけが“世界の理”に触れているみたいに澄んで見えた。銀の髪は水面を渡る月光のように揺れ、その瞳には、人の生も死も何度も見送ってきた者にしか宿らない静かな深さがあった。
四宮は、一歩だけ後ずさる。
「……誰だ」
問いかけた声は、さっきより少しだけ掠れていた。
エンマちゃんは答えない。
代わりに、その神秘的な眼差しで四宮を静かに見つめる。
見つめられた瞬間、四宮の背後の暗闇がざわついた。
気配。
無数の気配。
恨み、悲しみ、恐怖、未練。
それらが溶け合った重たい影が、闇の底からゆっくりと浮かび上がってくる。
四宮はそこで、初めて自分の表情が少しだけ引きつるのを感じた。
「……何だよ、これ」
エンマちゃんが、ようやく口を開いた。
「見覚えがないのか?」
その声は小さい。
小さいのに、世界の底から響く鐘のように重かった。
「お前が壊してきたものたちだ」
四宮の視線が揺れる。
闇の中に浮かぶ無数の手。
顔のない影。
だが、そこに込められた感情だけは分かる。
自分が奪った、終わらせた、命の残滓。
「私は輪廻を司る者」
エンマちゃんは言う。
「生を見送り、死を量り、その罪を裁く」
四宮は乾いた笑みを浮かべようとした。
けれど、うまくできなかった。
「……神様ごっこか?」
かろうじて出した言葉は、ひどく弱々しかった。
エンマちゃんの銀の瞳が、ほんの僅かも揺れない。
「死を美徳と呼んだな」
静かな声だった。
「終わりを、美しいと」
四宮の喉が動く。
その言葉だけは、自分のものだったからかもしれない。
「……そうだよ」
笑おうとする。
だが、もう前みたいな余裕のある笑いにはならない。
「死は完成だ。止まるから綺麗なんだ」
エンマちゃんは、そこでほんの僅かに目を細めた。
怒りではない。
もっとずっと遠いところから、人間の傲慢を見下ろすような目だった。
「違う」
その一言で、闇そのものが微かに震えた。
「死は奪うものではない」
エンマちゃんの足元の光が、静かに広がる。
「終わりは、誰かが勝手に飾り立ててよいものではない」
四宮の表情が、そこで初めて崩れた。
「……うるさい」
後ずさる。
だが、背後の闇が深すぎて距離が分からない。
「うるさい、うるさい……っ!」
叫ぶ。
それはもう、美学を語る人間の声ではなかった。ただ罰から逃げたがる人間の声だった。
エンマちゃんは、静かに手を上げた。
その仕草だけで、銀の光が一瞬強くなる。
足元の彼岸花めいた光が、闇の中でいっせいにひらいた。
「四宮ハジメ」
名を呼ぶ声は、もはや宣告だった。
「お前の行き先は一つだ」
闇の底から、無数の手が伸びてくる。
黒く、重く、冷たい手。
四宮が振り払おうとしても、次から次へと絡みつき、足首に、腕に、肩に、喉元に食い込んでいく。
「ま、待て……!」
四宮の声が、ようやく恐怖に染まる。
「やめろ、やめろよ!」
だが、エンマちゃんは一切表情を変えない。
銀の瞳のまま、ただ一言だけを告げた。
「地獄行き」
その言葉が落ちた瞬間、闇が口を開いた。
四宮ハジメの身体が、無数の手に引きずられる。
最初は抵抗していた。
次第に叫びへ変わった。
その叫びすら、闇の底へ吸い込まれていく。
やがて声も消えた。
残ったのは、静かな銀の光だけだった。
エンマちゃんはしばらくその闇を見下ろしていたが、やがて小さく息を吐く。
「これで一つ、終わりだ」
その声は、どこか遠くで雪が降り始める音に似て、ひどく静かだった。
次の瞬間、銀の光は淡くほどける。
月光の糸も、白い花も、すべてが闇に溶けていく。
そして、病室の窓の外では、冬の気配を帯びた夜明けが静かに訪れようとしていた。
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