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普通の日常

 退院の日が正式に決まったのは、十二月へ差しかかる少し前のことだった。


 最初に医者から「このままなら、もう少しで」と言われた時は、まだ実感が薄かった。病院の中にいると、一日一日の境目が少し曖昧になる。朝が来て、薬を飲んで、食事をして、看護師に傷の具合を見られて、少し歩いて、また夜になる。その繰り返しの中では、“もうすぐ外へ出られる”という言葉も、どこか別の場所の話みたいに聞こえた。


 けれど、退院日が具体的な日付として告げられると、さすがに現実味が出る。


 ベッドの上で聞いたその日付を、俺は心の中で何度も反芻した。

 あと何日。

 その数字は、長いようで短くて、短いようで長かった。


「そんなに数えなくても逃げないよ、退院日」


 ベッド脇の椅子でアリスが言った。


 俺が無意識に天井を見ながら指で日数を折っていたのに気づいたらしい。


「数えてない」


「数えてた」


「数えてたとしても、別にいいだろ」


「いいけど」


 アリスは少しだけ笑う。


「なんか、子どもみたい」


「誰のせいで入院してると思ってる」


「それは四宮のせいです」


 ぴしゃりと即答された。

 その返しがあまりにも真っ当で、俺もそれ以上は続けられない。


 アリスはこのところ、少しずつ前の調子を取り戻していた。


 最初の数日は、俺が目を覚ますたびに泣きそうな顔をしていたし、少しでも顔をしかめるとすぐ不安げに身を乗り出してきた。病室の椅子に座っていても、どこか全身が強張っていた。


 けれど、日が経つにつれて、その緊張も少しずつほどけてきたらしい。


 今ではこうして、くだらない言い合いもする。

 俺が食事を残しそうになると本気で怒るし、リハビリ代わりの散歩を面倒くさがると「ちゃんと歩いて」と叱ってくる。そういうところに、あの日以前のアリスが戻ってきているのが分かった。


「ねえ」


 アリスが椅子の背にもたれながら言う。


「退院したら、最初に何したい?」


 その問いは、不意打ちだった。


 何したい。

 そう聞かれると、意外とすぐには出てこない。


 外へ出たいのは当然だ。

 家へ帰りたいのもそうだ。

 アリスと一緒に、普通に歩きたいとも思う。

 でも、“最初に何をしたいか”となると、どれも同じくらい強くて、逆に一つに絞れなかった。


「……普通に帰ることかな」


 少し考えてからそう答えると、アリスが目を細めた。


「それ、なんか隆太郎っぽい」


「そうか?」


「うん。もっとこう、“肉食べたい”とか“ゲームしたい”とか言うかと思った」


「入院してると、普通に帰るってかなり大きいぞ」


 俺が言うと、アリスは「それは分かる」と小さく頷いた。


「じゃあ、私は」


 そこで少し考える顔になる。


「一緒に帰れれば、たぶんそれでいい」


 その言い方が静かで、でも真っ直ぐだった。


 病院の窓から見える空は、最近ずっと冬の色をしている。

 晴れていてもどこか白い。

 日の光は柔らかいのに、空気の冷たさまで見える気がする。


 そういう景色を背にしてその言葉を言われると、胸の奥へじんわり落ちてくるものがあった。


「……それ、俺と一緒じゃん」


「そうだね」


 アリスはそう言って笑った。

 その笑顔が、事件の前とも、直後とも少し違う。柔らかいけれど、前より少しだけ奥行きがある。痛いことや怖いことを知った人間の笑い方だった。


 ※ ※ ※


 退院までの数日、病院にはいろんな人が顔を出した。


 母さんはほとんど毎日のように来た。

 果物、ゼリー、着替え、洗面用具、読みかけの文庫本。持ってくる物は日によって違うのに、最後に言うことはだいたい同じだった。


「無理して起き上がらない」

「ちゃんと食べる」

「看護師さんの言うことは聞く」


 子ども扱いみたいで少しむず痒い。けれど、あの日以来の母さんの顔を思い出すと、反抗する気にはなれなかった。


 母さんは、俺が目を覚ましたあの日、泣かなかった。

 いつものように落ち着いていて、必要なことだけして、必要以上に取り乱さなかった。けれど、その分だけ、目の奥に残っていた緊張はすぐには消えなかった。


 だから今こうして、少しずついつもの調子で小言を言ってくるのが、むしろありがたかった。


 恵さんも来た。

 静かに様子を見て、「本当に助かってよかった」と何度も言った。そのたびにアリスが少しだけ目を伏せるから、恵さんは途中からあまり言いすぎないようにしているみたいだった。


 健一さんは、来るたびに短く近況を伝えてくれた。

 四宮の件は警察が完全に引き取ったこと。

 自首犯の供述が崩れたこと。

 四宮の部屋から出た写真や記録が、いくつもの事件を繋いでいること。

 そして、朝日の件も含めて、ようやく“事故”ではなく“事件”として決定的な形になったこと。


 それを聞くたび、胸の中の何かが少しずつ整理されていく。


 全部が終わったわけじゃない。

 遺族としての感情も、被害者としての記憶も、消えることはない。

 でも、少なくとも四宮ハジメという男がもうどこかで息をしていて、また誰かを狙うことはない。その事実は、やっぱり大きかった。


 佐野は二回ほど来た。


 病み上がりのくせに相変わらず外を動き回っているらしく、顔を合わせるたびにアリスから「少しは休んでください」と本気で叱られていた。佐野は佐野で「人のこと言える立場?」と俺に視線を飛ばしてきて、そのたびに地味な応酬になる。


 ただ、そういうどうでもいいやり取りができるようになったこと自体が、回復の一部みたいにも思えた。


 神木は必要な報告の時だけ来た。

 淡々としていて、必要以上の言葉はない。だが、その簡潔さの中に、俺たちへ向けた配慮もちゃんとある。


 ある日、神木が帰り際にふと立ち止まって言った。


「退院後もしばらくは、念のため巡回は続けます」


「そんなに?」


 俺が聞くと、神木は頷いた。


「事件は終わりましたが、終わった直後の人間の生活というのは案外不安定です。……安心が遅れて来ることも、逆にあとから怖さが強くなることもある」


 その言い方は、警察官というより、そういう場面を何度も見てきた人間のものだった。


「無理に“もう平気”だと思い込まないでください」


 そう言って神木は帰っていった。


 その言葉は、俺の中にしばらく残った。


 もう平気。

 たしかに、そう簡単に言えるものじゃない。


 夜になると、今でも時々、廃工場の光景が夢みたいに戻ってくる。

 四宮の顔。

 アリスの叫び。

 自分の横っ腹に入った刃の感触。

 そして、エンマちゃんの神々しいほど静かな声。


 忘れない。

 たぶん、一生忘れない。


 でも、忘れないことと、そこに囚われ続けることは違う。

 そこをどうにか見分けながら前へ進くしかないのだろう。


 ※ ※ ※


 ある日の午後、意外な来客が来た。


 天音アイラだった。


 病室のドアが少しだけ開いて、そこからひょこっと覗くように顔を出した時、最初は見間違いかと思った。病院みたいな場所が苦手そうなのは、あの子の様子を見ていれば分かる。だから、手紙や栞までは想像できても、直接来るとは思っていなかった。


「……あ」


 俺が目を瞬かせると、アイラはさらに少しだけおどおどした顔になった。


「……す、すみません。やっぱり、出直した方が……」


「いや、来たなら入れよ」


 思わずそう言うと、アイラはびくっと肩を揺らした。

 相変わらずだなと思う。


 その後ろから、アリスが顔を出す。

 どうやら病院の入口で合流したらしい。


「私が連れてきた」


 少しだけ得意げに言う。

 アイラは隣でまだ緊張しているが、完全に逃げ腰ではない。たぶん、来るまでにかなり頑張ったんだろう。


「……こんにちは」


 アイラが小さく頭を下げる。


「こんにちは」


 俺が返すと、アイラは少しだけ安心したように息を吐いた。


 アリスはいつものように距離感が近い。

 アイラの背中を押すほどではないが、さりげなく隣に立って、話しやすい空気を作っている。


「ほら、言いたかったこと」


 アリスが小声で促すと、アイラは少しだけむっとした顔になった。


「わ、分かってる……」


 その反応に、思わず少し笑う。

 ああ、本当に仲良くなったんだなと思う。


 アイラは病室の椅子に浅く腰掛けて、膝の上で小さな紙袋を抱えた。


「……あの、これ」


 差し出されたのは、病院の近くの本屋で買ったらしい文庫本だった。

 ミステリ。表紙は落ち着いた色合いで、たぶんアイラが好きそうな雰囲気だ。


「退屈、かなと……」


「ありがとう」


 受け取ると、アイラは少しだけ頬を緩めた。


 しばらくはぎこちない会話だった。

 学校のこと。

 病院の食事のこと。

 最近の寒さのこと。

 でも、それで十分だった。


 四宮の件については、あえて深く触れなかった。

 触れなくても、三人とも分かっている。あの男がいたからこそ、こうしている。けれど今この時間くらいは、そこを少しだけ脇へ置いてもよかった。


 帰り際、アイラが小さく言った。


「……また、三人で、普通に会いたいです」


 その言葉は、以前メッセージで聞いたものと同じなのに、直接聞くと重みが違った。


「会おう」


 俺が答えると、アリスがすぐに重ねる。


「絶対ね」


 アイラは照れたみたいに目を逸らして、それでも確かに頷いた。


 その背中を見送ったあと、アリスがぽつりと言った。


「ちょっとずつ戻ってる気がする」


「何が」


「普通」


 やっぱりその言葉だった。


 でも、今は俺も分かる。

 普通っていうのは、ただ何も起きないことじゃない。

 怖いことがあった後でも、こうして会いに来て、少しぎこちなく笑って、また次を約束できることだ。


 その積み重ねが、たぶん“戻る”ってことなんだろう。


 ※ ※ ※


 退院の前日。


 夕方の光が病室へ長く差し込んでいた。

 アリスは窓の外を見ながら、ぽつりと聞いた。


「緊張してる?」


「何に」


「退院」


 そう言われて、少しだけ考える。


 嬉しい。

 それは間違いない。

 でも、それだけでもない。


「……ちょっと」


 正直に答えると、アリスはうん、と頷いた。


「私も」


「お前が緊張するのかよ」


「するよ。だって、またちゃんと一緒に歩くんだよ」


 その言い方が、少しだけ可笑しくて、でも大事なことのようにも聞こえた。


「病院の外って、ここより風が冷たいかも」


「たぶんな」


「じゃあ、あったかい格好してこなきゃね」


 アリスはそう言って、小さく笑った。


 その笑顔を見ながら、俺は思う。


 退院して終わりじゃない。

 そこから先もある。

 でも、まずは明日だ。


 一緒に病院を出る。

 普通に外の空気を吸う。

 それだけで十分、大きな一歩になる。


 窓の外では、冬の手前の空が、静かに暮れていこうとしていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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