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平穏な日々

 退院の日の朝は、思っていたよりも静かに来た。


 もっとこう、特別な感じがするものだと思っていた。長く感じた病院生活の終わりで、ようやく外へ出られる日なのだから、少しくらい世界の方も分かりやすく明るくなってくれてもいいのに、実際の空は淡く白くて、冬の手前らしい冷たい光が窓の外に広がっているだけだった。


 病室のカーテン越しに差し込む朝の光は、入院した日と同じようでいて、やっぱり少し違う。


 あの日は、生き延びたことすらまだ実感が薄かった。

 今日は違う。

 ちゃんと自分の足でここを出るのだと分かっている。


 それだけで、胸の奥がじわじわと熱くなる。


「顔、少しいい」


 ベッド脇の椅子に座っていたアリスが、開口一番にそう言った。


「何だよその評価」


「いい意味だよ。退院する顔してる」


「退院する顔って何だ」


「こう……病人っぽさがちょっと薄い」


 言いたいことは何となく分かる。

 数日前までの俺は、たぶん自分でも分かるくらい顔色が悪かった。動けばすぐ疲れるし、喋るだけで喉が掠れた。今も万全とは程遠い。横っ腹の傷はまだしっかり痛むし、急に姿勢を変えれば鈍い違和感が走る。それでも、少なくとも“ベッドに沈んでいるしかない人間”ではなくなった。


「朝からずっと見てたのか」


 俺が言うと、アリスは少しだけ視線を逸らした。


「……ちょっとだけ」


「嘘だな」


「わりと見てた」


 素直に認める。

 そういうところが、最近のアリスは少しだけ柔らかい。強がりすぎなくなったというか、見ていたことも、心配していたことも、そのまま口に出すようになった。


 たぶん、あの日の廃工場の後からだ。


 死にかけた俺を前にして、泣いて、怒って、縋って、それでも立っていたあの時間が、アリスの中の何かも少しだけ変えたのだと思う。


「緊張してる?」


 アリスが聞く。


「退院するだけで?」


「するでしょ、ちょっとは」


 そう言われて、少しだけ考える。


 緊張。

 たしかに、ないわけじゃない。

 病院の外へ出ること自体が、ずいぶん久しぶりだ。ここ数日は窓の外を眺めるだけだったから、実際の風の冷たさとか、街の音の多さとか、そういうものを身体がどう受け止めるのか分からない。


 それに、退院したら“普通”が始まる。

 もちろん、完全に元通りの普通じゃない。けれど、少なくとも病院に守られた場所からは出ることになる。


「……少しだけ」


 正直にそう言うと、アリスは小さく頷いた。


「私も」


「お前がかよ」


「するよ」


 アリスは真顔で言う。


「だって、今日はちゃんと一緒に帰る日だもん」


 その言い方が、妙に胸に残った。


 ただの退院じゃない。

 ただの移動でもない。

 アリスにとっては、“また一緒に帰る”という意味のある日なんだろう。


 病室のドアがノックされて、看護師が入ってくる。

 朝の最終確認だ。熱、血圧、傷の具合、退院後の注意事項。何度も聞いた説明を、今日だけはちゃんと頭に入れなければならない。


「無理をしないこと」


 看護師がカルテを見ながら言う。


「傷は塞がってきていますが、まだ内側は完全ではありません。走るのは禁止。重いものも持たない。急な運動もしない」


「はい」


「食事はちゃんと取る。睡眠も取る。痛みが強い時は我慢しないで、処方した薬を飲む」


「はい」


「あと、彼女さんにも伝えておきますけど」


 そこで看護師がアリスを見る。

 アリスが少しだけ目を丸くした。


「退院したからって、急に元気になるわけじゃないですからね」


「分かってます」


 アリスがやけに真面目な声で答えるので、俺は少しだけ笑いそうになった。いや、実際この人はたぶん、本気で過剰なくらい気をつけるつもりなんだろう。


「ほんとに?」


 俺が小さく言うと、アリスはじろっと睨んできた。


「ほんとに」


「ならいいけど」


「よくないことしたら怒るから」


「何その予告」


「予告だよ」


 看護師が少しだけ笑ってから、「じゃあ大丈夫そうですね」と言って病室を出ていく。

 大丈夫そう、という言葉を、俺は心の中でゆっくり繰り返した。

 まだ完全ではない。

 でも、大丈夫そう、ではある。

 それだけで十分だった。


 ※ ※ ※


 荷物をまとめると言っても、そんなに大した量はない。


 着替え、洗面道具、本、スマホの充電器、見舞いでもらった小さな差し入れや手紙。

 入院生活の時間が詰まった紙袋やバッグを見ていると、短かったような長かったような、不思議な感覚になる。


 アリスが荷物をまとめながら、机の上の栞を見つけた。


「あ、アイラさんの」


「そう」


 銀の細い月が描かれた、落ち着いた色の栞。

 文庫本の途中にちゃんと挟んである。


「持って帰る?」


「当たり前だろ」


「だよね」


 アリスがそう言って、丁寧に本の間へ戻す。

 その仕草にも、少しだけ安心した。

 あの子との繋がりも、ちゃんと日常の方へ残っている。


 しばらくして、母さんが来た。

 今日は迎えに来ると言っていたから、時間通りだ。


「準備終わった?」


「だいたい」


「じゃあ、会計の手続きしてくるから待ってて」


 相変わらず手際がいい。こういう時、母さんは迷わない。俺が入院した直後の、あの張り詰めた顔を思い出すと、今こうしていつも通りに近い調子で動いてくれることがありがたかった。


 アリスは母さんが病室を出ていくのを見送ってから、小さく息を吐いた。


「なんか、ほんとに帰るんだね」


「今さら?」


「今さら」


 そう言ってから、アリスは少しだけ照れたように笑う。


「だって、最近ここに来るの、だいぶ当たり前になってたから」


 それは俺も同じだった。

 病院なんて、本来は早く出たい場所のはずなのに、毎日同じ時間にアリスが来て、母さんが来て、時々佐野や神木が顔を出して、そういう流れに身体が慣れてしまっていた。


 だから、今日からそれがなくなることに、少しだけ不思議な感じがする。


「でも」


 アリスが続ける。


「なくなるんじゃなくて、場所が変わるだけだもんね」


 その言い方は、今の俺たちにちょうどよかった。

 終わるんじゃない。

 変わるだけ。

 病院の時間が終わって、家へ戻る時間になるだけだ。


「そうだな」


 俺が答えると、アリスは満足そうに頷いた。


 ※ ※ ※


 病院の玄関を出た瞬間、外の空気が肺の奥まで冷たく入ってきた。


「……っ」


 思わず息を止める。


 冷たい。

 でも、嫌じゃない。

 むしろ、ちゃんと“外”の空気を吸えたことに、ひどく実感があった。


 十一月の終わりの風は、秋の名残をほとんど残していない。頬に当たる空気は薄く冷えていて、遠くの木々ももうほとんど色を失いかけている。それでも、病室の窓越しに見るのとは全然違った。空気の重さも、音の広がりも、全部が身体に直接触れてくる。


「寒い?」


 アリスがすぐに聞く。


「ちょっとだけ」


「ほら言った、あったかい格好必要だって」


 そう言いながら、アリスは俺のマフラーを少しだけ整えた。

 その仕草があまりにも自然で、でも少しだけくすぐったい。


「子ども扱いするな」


「病み上がり扱いだよ」


「大差ないだろ」


「今は大差あるの」


 母さんが少し前を歩きながら、振り返って言う。


「二人とも、玄関前でいつまでも立ってないで行くわよ」


 そう言われて、俺とアリスは顔を見合わせた。

 少しだけ笑う。

 それから、ゆっくりと歩き出す。


 一歩。

 また一歩。

 病院の敷地を出るだけのことなのに、やけに長く感じた。


 けれど、不思議と怖くはなかった。

 少なくとも今は、隣にアリスがいて、少し前に母さんがいて、風が冷たくて、空が白い。それだけで、ちゃんと前へ進める気がした。


 ※ ※ ※


 退院したその日は、当然ながらすぐに学校へ戻るわけでも、遠出をするわけでもなかった。

 真っ直ぐ自宅へ戻る。

 それだけだ。


 それでも、自宅の玄関をくぐった瞬間、妙な感覚があった。


 懐かしい、というほど長く離れていたわけじゃない。

 でも、自分の部屋の匂いとか、リビングの配置とか、そういうものが全部少しだけ“戻ってきた”感じをくれる。


「おかえり」


 母さんが言う。


 その一言が、やけに沁みた。


「……ただいま」


 返しながら、自分の声が少しだけ掠れているのに気づく。

 でも、それでよかった。

 ちゃんと戻ってきて、ちゃんとただいまと言えた。


 アリスも一緒に玄関へ上がってきて、少しだけ周りを見回した。

 何度も来ている場所のはずなのに、今日は少しだけ特別に見えるのかもしれない。


「なんか、やっぱり落ち着く」


「お前それ好きだな」


「だってほんとだもん」


 そう言って、アリスは少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、俺はようやく“退院したんだ”という実感を強く持った気がする。


 その日は、母さんがかなり軽めの食事を作ってくれた。

 消化の良いもの、温かいもの、刺激の少ないもの。病人扱いだなと思うのに、食べてみると身体が素直にそれを欲していたのが悔しい。


 夕方には、健一さんと恵さんも顔を出した。


 アリスを迎えに来たというより、俺の退院の様子も見に来てくれた感じだ。

 健一さんは相変わらず言葉が少ない。でも、玄関先で俺を見た瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのが分かった。


「……よかった」


 短い一言。

 けれど、あの人がそう言う時の重さは分かる。


「ありがとうございます」


 俺が言うと、恵さんが柔らかく笑った。


「ほんとに、無理しないでね」


「はい」


 アリスはその横で、少しだけ不満そうな顔をしていた。


「みんなして同じこと言う」


「だって本当のことだから」


 恵さんにそう返されて、アリスはむぅと口を尖らせる。

 その表情すら、ようやく戻ってきた日常の一部みたいで、見ていて少しだけ安心した。


 ※ ※ ※


 夜、太刀川家へ帰る前に、アリスは玄関先で少しだけ立ち止まった。


 外はもう暗い。

 でも、街灯の光が以前ほど冷たく感じないのは、たぶん四宮ハジメがもういないと知っているからだろう。


「ねえ、隆太郎」


「ん?」


「今日、一個だけ分かったことある」


「何」


 アリスは少しだけ真面目な顔になった。


「私、普通に戻りたいってずっと思ってたけど」


 そこで一度だけ言葉を切る。


「“前とまったく同じ”に戻ることじゃなくて、“今の私たちで普通を作り直す”ことなんだって、今日ちょっと分かった」


 その言い方が、ひどくしっくりきた。


 たしかにそうだ。

 朝日が死ぬ前とまったく同じ日常なんて、もう来ない。

 四宮ハジメがいなかったことにもならない。

 佐野が刺されたことも、アイラが怯えたことも、俺が病院にいたことも、全部消えない。


 でも、その全部を抱えたままでも、また一緒に帰ることはできる。

 それが今日だった。


「……うん」


 俺は頷いた。


「俺も、そう思う」


 アリスはそれを聞いて、少しだけ目を細める。

 その顔は、前より少しだけ大人びて見えた。


「じゃあ、次は学校だね」


「いきなり現実だな」


「現実だよ。ノート、ちゃんとあるから」


「逃げ道ないのかよ」


「ない」


 きっぱり言い切る。


 そのやり取りがおかしくて、俺は少しだけ笑った。今度はちゃんと痛みを気にしながら、でも確かに笑えた。


 アリスが階段を一段下りて、それからまた振り返る。


「今日はおめでとう、でいいのかな」


「何が」


「退院」


 そう言われて、少しだけ考える。

 おめでとう、というのはたしかに変かもしれない。けれど、悪い言葉でもない気がした。


「……たぶん、いい」


 俺がそう言うと、アリスは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、おめでとう」


「ありがと」


「あと、ちゃんと帰ってきてくれてありがとう」


 その一言は、思ったよりずっと真っ直ぐだった。


 俺は少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくり頷く。


「……うん」


 アリスはその返事だけで満足したみたいに笑って、今度こそ太刀川家へ向かって歩き出した。夜道を一人で行かせるわけにはいかないから、もちろん俺も途中まで送る。ただ、今日は母さんに止められて、家の前までではなく、太刀川家が見えるところまでだった。


 その短い距離を歩きながら、俺は思う。


 ここから先が、本当の意味での“その後”なんだろう。

 事件が終わった後。

 戦いが終わった後。

 その先の日常。


 まだ傷はある。

 まだ怖さも完全には消えていない。

 でも、それでも歩ける。


 そんな夜だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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