終わりに向けて
退院して最初の月曜日は、やけに朝が早く感じた。
実際に目が覚めた時間は、入院前とそう変わらない。なのに、布団の中で天井を見上げている数分が妙に長い。自分の部屋の天井なのに、まだ少しだけ“戻ってきたばかり”の感覚が残っている。
横っ腹には鈍い違和感があった。
激痛ではない。
でも、忘れて普通に動けるほど軽くもない。
寝返りを打つ時、体を起こす時、服を着る時、ちょっとした動作のたびに「まだここにある」と教えてくる痛みだった。
病院を出たから終わり、じゃない。
身体がそう言っている。
「……よし」
小さく呟いて、俺はベッドから起き上がった。
制服に袖を通しながら、少しだけ深呼吸をする。
今日は学校へ行く。
事件があって、刺されて、入院して、それでもまた教室へ戻る。
前と同じ朝ではない。
でも、だからといって別人の朝でもない。
階下へ降りると、母さんが朝食の準備をしていた。味噌汁の湯気と焼いたパンの匂いが混ざって、いつも通りの朝の空気を作っている。
「おはよう」
「おはよう」
母さんは俺の顔を見てから、少しだけ目を細めた。
「緊張してる?」
「そんな顔してる?」
「ちょっとだけ」
そう言って、トーストの皿を置く。
「無理はしないこと。少しでも痛みが強かったら、すぐ帰ってきていいから」
「分かってる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そこまで言ってから、自分でも少し苦笑する。
最近ずっと、このやり取りばかりだ。
母さんはそれ以上は重ねなかった。ただ、食卓につく前に小さく言った。
「でも、戻る日って大事だからね」
その言葉は、意外と胸に残った。
戻る日。
たしかに今日はそういう日なんだろう。
朝食を食べ終え、鞄を持って玄関へ向かう。
ドアを開けた瞬間、冷たい空気が頬へ触れた。秋の終わりを越えて、もう冬の入口に片足をかけている朝の空気だ。
そして、その門の前にアリスがいた。
「おはよ」
いつもの調子で手を上げる。
けれど、その顔にはいつもより少しだけ緊張が混じっていた。
「おはよう」
俺が答えると、アリスは俺の姿を上から下まで一度見た。
「……制服、久しぶりだね」
「病院着よりはマシだろ」
「それはそう」
アリスが小さく笑う。
その笑い方にも、少しだけ安心と緊張が混ざっている。
「ねえ、ほんとに大丈夫?」
「今日それ何回目だ」
「まだ一回目」
「そうか」
「これから増えるよ」
真顔で言うから、思わず少しだけ笑ってしまった。笑うと傷が軽く引きつる。でも、顔をしかめるほどではない。
アリスはその小さな変化も見逃さないみたいに、すぐに顔を寄せてくる。
「痛い?」
「今のは平気」
「ほんとに?」
「ほんとに」
それでようやく納得したのか、アリスは「ならいい」と小さく頷いた。
二人で並んで歩き出す。
通学路の景色は変わっていない。朝の住宅街、少し白い空、遠くの車の音。なのに、一つ一つが少しだけ久しぶりに見える。
「なんか、不思議」
アリスが言う。
「何が」
「こうしてまた一緒に学校行くの」
「そりゃ、しばらくなかったからな」
「うん。でも、それだけじゃなくて……」
そこでアリスは少しだけ考える顔になる。
「ちゃんと戻ってきた感じがする」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
戻ってきた。
たぶん、それでいい。
学校へ着くと、思ったより視線を感じた。
クラスメイトたちは、俺が長く休んでいた理由を全部知っているわけじゃない。けれど、何か大きな事情があったことくらいは察しているらしい。教室へ入った瞬間、一瞬だけざわめきが止まり、次の瞬間には「お、おう」「久しぶり」みたいな、不器用な声がいくつか飛んできた。
「……どうも」
俺がそう返すと、それだけでみんな少し安心したみたいに空気が緩んだ。
席に着く。
椅子の硬さすら少し久しぶりだ。
アリスは自分の席へ行く前に、俺の机の上へノートの束を置いた。
「これ、休んでた分」
「量、多くないか」
「頑張ったから」
「頑張りすぎだろ」
「褒めて」
小声でそう言うので、俺は少しだけ笑った。
「偉い」
「うん」
それだけで満足そうに頷いて、自分の席へ戻っていく。
その後ろ姿を見ながら思う。こういう小さいやり取りが、最近の俺たちには本当に大事なんだろう。
午前の授業は、やっぱり少し疲れた。
座っているだけなら平気だが、集中が長く続くと身体の方が先に重くなる。横っ腹の傷も、ふとした拍子に存在を主張してくる。けれど、まったく無理というほどではない。その“できるけど、まだ完全じゃない”感じが、今の自分にはちょうどよかった。
昼休みになると、アリスが当然みたいに弁当を持ってきた。
「今日は特別に私の卵焼き一個あげる」
「特別感が雑だな」
「大サービスだよ」
「毎回一個くれるだろ」
「それはそう」
そう言いながら笑うアリスの顔を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
戻ってきたのは俺だけじゃない。こういう時間そのものが、少しずつ戻ってきているんだと思う。
「……ねえ」
アリスが箸を持ったまま、少しだけ真面目な顔になる。
「学校、どう?」
「どうって」
「しんどくない?」
その問いに、俺は正直に考えた。
「疲れる」
「うん」
「でも、嫌じゃない」
そう言うと、アリスの目が少しだけ柔らかくなる。
「そっか」
「お前は」
俺が聞き返すと、アリスは少しだけ目を伏せた。
「私も、今日はちょっとだけ緊張してた」
「何に」
「隆太郎がちゃんと教室に戻ってくることに」
そこで少しだけ笑う。
「隣の席、ずっと変だったから」
その言い方が、前にも聞いた言葉の続きみたいだった。
空の席。
そこを何度も見てしまっていたアリス。
「でも、今日見たらちゃんといた」
「当たり前だろ」
「当たり前が嬉しいんだよ」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
返せない代わりに、弁当の蓋を少しだけ見つめる。こういう時、うまく気の利いたことは言えない。
放課後、俺たちはまっすぐ帰るつもりだった。
退院して最初の日だ。寄り道なんてする理由もない。そう思っていたのに、校門を出たところで、見慣れた小柄な姿が目に入った。
天音アイラだった。
校門からは少し離れた電柱のそばに立って、こちらを見たり見ていなかったりする微妙な視線の動きをしている。明らかに待っているのに、待ち伏せと思われないように頑張っている感じが、いかにもアイラらしい。
アリスが先に気づいた。
「あ」
アイラはその声で肩を跳ねさせる。
そして目が合うと、すぐに小さく頭を下げた。
「……こ、こんにちは」
「こんにちは」
俺が返すと、アイラは少しだけ顔を赤くする。
まだこういうやり取りに慣れていないんだろう。
「どうしたんだ?」
聞くと、アイラは鞄の持ち手をぎゅっと握ってから、小さく言った。
「その……退院、したって聞いて」
たぶんアリスから聞いたんだろう。
「一応、顔、見たくて……」
その言い方が、あまりにもアイラらしくて、俺もアリスも少しだけ表情を和らげた。
「ありがとう」
俺が言うと、アイラは少しだけ目を丸くして、それから小さく頷いた。
「……よかったです。ちゃんと、立ってたので」
「基準そこかよ」
思わず言うと、アリスがくすっと笑う。
アイラは慌てたように首を振った。
「ち、違くて……その、元気そう、というか……」
「分かるよ」
アリスが助け船を出すみたいに言った。
「アイラさん、頑張って来てくれたんだもんね」
そう言われて、アイラはますます照れたように目を逸らした。
三人で駅前まで少しだけ歩くことになった。
遠出じゃない。ほんの少しだけ。同じ方向へ向かうだけの時間。
でも、その“ほんの少し”が、やけに大事に思えた。
道すがら、アイラは小さな声で学校のことや最近読んだ本の話をした。前よりちゃんと話す。もちろん、アリスのように途切れなく喋るわけじゃない。言葉は少ないし、途中で何度か詰まる。それでも、自分から話そうとしているのが分かった。
「今度」
駅前の手前で、アイラが少しだけ勇気を出すみたいに言った。
「本屋さん、ちゃんと行きたいです」
アリスがすぐに顔を明るくする。
「行こう!」
「……三人で」
「もちろん」
そのやり取りを見ていると、胸の中に静かなものが広がる。
四宮ハジメが壊しかけたものは、全部じゃなかった。
こうして残ったものもある。
こうして、自分たちで繋ぎ直していけるものもある。
アイラと別れたあと、アリスが歩きながら小さく言った。
「なんか、ちょっと嬉しい」
「何が」
「アイラさんが、自分から“行きたい”って言ったこと」
「ああ」
「前のアイラさんなら、たぶん“迷惑じゃなければ”とか、もっといっぱい前置きしてたと思う」
たしかに、そうかもしれない。
「変わったんだな、少し」
俺が言うと、アリスは頷いた。
「私たちもね」
その言葉に、俺は少しだけ空を見上げた。
夕方の空は、冬が近い色をしていた。
青いのに少し白くて、どこか透明だ。
※ ※ ※
その日の夜、俺は自室の机の前に座っていた。
勉強のためというより、少しだけ一人で考えるためだ。
病院から戻って、学校へも行って、アイラとも会って、ようやく一日が終わりかけている。やることは普通だ。けれど、その普通を一つひとつやるたびに、今までのことが少しずつ体の中へ沈んでいく気がする。
四宮ハジメは死んだ。
事件は終わった。
俺は助かった。
アリスも生きている。
アイラも無事だ。
佐野も神木も、みんなそれぞれの場所へ戻り始めている。
それでも、全部が綺麗に片づくわけじゃない。
ふとした時に傷は痛むし、夢に廃工場の天井が出る夜もある。
アリスだってきっと同じだろう。
だけど、それでいいのかもしれないと思う。
消えないものがあるままでも、生きていく。
その上で、また日常を作る。
机の上のスマホが震えた。
アリスからだった。
『今日はちゃんと学校で会えてよかった』
短いメッセージ。
でも、それだけで十分だった。
俺は少しだけ考えてから返す。
『俺も』
『ちゃんと隣にいてよかった』
送ると、すぐに既読がついた。
返ってきたのは、言葉じゃなくて、小さく笑っているスタンプだった。
それを見て、俺は少しだけ息を吐いた。
ここまで来た。
事件は終わった。
終わるというより、締める、の方が近いのかもしれない。
でも、俺たちの日常は終わらない。
むしろ、ここから先をどう生きるかが始まる。
そう思いながら、俺は机の上のノートを開いた。
明日の授業の準備をするために。
そんな当たり前のことをするために。
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